第二章 灰縁の卓 五節
五節
その晩、灰縁の卓には、いつもより密やかな緊張が満ちていた。
卓の真ん中に、ガルドの板が置かれていた。あの、言葉を納めた滑らかな板である。キサーラは、ここ幾晩かその薄れた断片を、少しずつ読み解いてきた。額の琥珀を淡く灯しながら、板の奥に眠る消えかけた言葉を掬い上げるように。
そして今夜、彼女は、その成果を皆に語ろうとしていた。
「この板に納められた言葉の大半は」と、キサーラは静かに切り出した。「もう、薄れて読めません。けれど・・・最も深いところに、ひとつだけ、まだ残っているものが、有りました。其れは、言葉・・・と云うより・・・〈道標〉とでも云うべきモノです」
「道標?」ミラは、思わず身を乗り出した。
「ええ」キサーラは頷いた。「この板は、もともと、ひとつの場所を指し示すために、作られたものらしいのです。そして、その場所には・・・この板のような〈言葉を納めたもの〉が、数えきれぬほど眠っている。気の遠くなるほど昔の、喪われた知らせ・・・記憶・・・言葉が、まるごとひとつの場所に」
ガルドが、太い喉をごくりと鳴らした。「・・・そりゃあ、つまり。お宝の山か」
「あなたにとっては、そうかも知れません、ガルド」キサーラは、ほんの少し微笑んだ。「失われた技の宝の山。けれど・・・それ以上に、その場所には答えがあるように思うのです」
「答え?」と、セレナが問うた。「何の?」
キサーラは、すぐには答えなかった。
ミラには、その一瞬の沈黙がわかる気がした。キサーラは、自分が何者なのかを知りたいのだ。匂いがなく、眠らず、傷つかぬ・・・人ならぬ身。その自分が、一体、どこから来て、何の為に在るのか・・・その答えが、その場所に、眠っているのかも知れない。ミラは、そう考えた。
「・・・様々な、答えが」とだけ、キサーラは言った。
「で」と、ロウが、腕を組んだまま低く言った。「その、宝だか答えだかの、眠ってる場所ってのは・・・どこなんだ?」
キサーラは、板の最後の光の筋を指でなぞった。
「塩ノ原の最奥です」と、彼女は言った。「旧い海が、最も深かった底。今は、只、白い塩だけが果てしなく続く・・・地上の方々が確か・・・」
「〈塩の果て〉」と、ドレクが低く呟いた。その顔が強張っていた。「渡り手なら、誰でも知ってる。けど、誰も行かねえ。行った者が、帰ってこねえからだ。水もねえ、影もねえ、ただただ、白い塩が地平の果てまで続く死の地さ。彼処は・・・人の行く場所じゃ・・・ねえ」
卓に、重い沈黙が落ちた。
その沈黙を、破ったのは・・・遅れて卓に着いた、ドレク自身の次の言葉だった。
「だが」と、ドレクは、声を更に潜めた。「今夜、俺が、ここへ来たのは、その話を聞くためじゃ、ねえ。皆に報せがある。ま・・・悪い報せだ」
皆の視線が、ドレクに集中する。
「白銀の使徒どもが」と、ドレクは、絞り出すように言った。「動きを強めてる。東の遺跡の咎人を、本気で探し始めた。そして・・・」彼は、一度、言葉を切った。その手が卓の下で固く・・・握られていた。「今日、奴らの一人が。俺の行きつけの薬師の店に、来たんだ。そして、訊いていった。『この街に、胸を病んで、寝たきりの妹を持つ、渡り手はいるか』と」
ミラの背筋が凍った。
「リナのことだ」ドレクの声が、震えていた。「奴らは、東の遺跡に、灰縁の連れと向かった渡り手を、もう、突き止めかけてる。そして、その渡り手のいちばん弱いところを・・・寝たきりの妹を、探り当てようとしてやがる」
誰も、暫く、口をきけなかった。
月神殿が、ドレクに迫っている。そして、その迫り方は、ドレク本人にではなく、彼の最も守りたい存在・・・薬がなければ生きられぬ、妹のリナに、向けられていた。
「・・・卑怯よ」と、ミラは、思わず、呟いた。
「いいえ」と、キサーラは静かに言った。その金色の瞳が、ふと、硬く張りつめる。「月神殿は・・・いえ、その背後にいる者たちは、毎度そうします。直に、刃を振るうのではなく、人の最も弱いところを、握る。そうやって、地上を長い期間、御してきました」
その口ぶりに、ミラは、ふと奇妙なものを感じた。まるで、キサーラが、月神殿のずっと奥にいる、〈誰か〉の、やり口を、知悉しているかのような。
「そして」と、キサーラは続けた。「ひとつ、確かなことが有ります。月神殿が探しているのは、東の遺跡の咎人だけでは、ありません。彼らは・・・この板が指す場所も、探している筈です」
「なぜ、わかる」と、ガルドが問うた。
「東の遺跡の封印を、見たときに」キサーラは言った。「私は、月神殿が何を恐れているかを知りました。彼らは、気の遠くなるほど昔の失われた報せが、地上に蘇ることを恐れている。だから、旧い遺跡を封じる。言葉を納めた板を探して集める。・・・塩の果てに眠るのは、その彼らが、最も地上に知られたくない、真実の塊なのだと、思います」
卓の空気が変わった・・・。
ミラには、それで、全てが繋がって見えた。封じられた東の遺跡。嗅ぎ回る白銀の使徒。ガルドの言葉を納めた板。そして、塩の果てに眠るという、失われた言葉の山。それらは、ガルドの言った通り・・・地の底の鉱脈のように、ひとつに繋がっていた。そして、その繋がりの中心に、この黄金の女が座っていた。
「逃げ場はねえな」と、ロウが、唸った。「このまま街にいりゃ、月神殿にじわじわ追い詰められる。ドレクの妹も、何れ本当に握られちまう」
「ならば」と、セレナが、静かに・・・しかし、決然と言った。「待つのではなく、こちらから動くべきです。月神殿が、その塩の果てを欲しているなら・・・私たちが、先に辿り着けばいい」
「死の地だぞ」と、ドレクが言った。「行った者は、帰らねえ」
「行った者は」と、キサーラが、言った。「私のような、道標を持っていなかった。それに・・・」彼女は、卓を囲む五人の顔を、ひとりひとり見回した。「私は一人ではない」
ミラは、その言葉に胸が熱くなった。
けれど、ひとつ・・・どうしても引っかかることが、あった。
「リナは」と、ミラは、言った。「リナは、どうするの。寝たきりのリナを、置いて行けないわ。でも、塩の果てになんて、連れて行けない」
卓が、また静まった。
それは、容易く、答えの出ない問いであった。連れて行けば死なせる。置いて行けば、月神殿に握られる。何方も、選べなかった。
長い沈黙のあと、口を開いたのはドレクであった。
「・・・セレナ」と、彼は、愛爾芙の精靈読みに、言った。「お前の薬草で、リナの咳は、ずいぶん楽になった。まだ、礼を言ってなかったな」彼は、深く頭を下げた。「もう一つ頼みがある。旅のあいだ、保つだけの薬草を、リナの為に、多めに用意しちゃ貰えねえか。そして・・・」
「リナを」と、セレナがドレクの言葉を引き取った。「白樹の森の私の同胞の下へ移すのです。愛爾芙の森は、月神殿の手が最も及びにくい場所。森の奥なら、使徒も容易には踏み込めません。私の名を出せば、同胞が、リナを匿い看てくれるでしょう」
ドレクの目が、見開かれた。「いいのか?愛爾芙の森に他所者を・・・」
「あなたは」と、セレナは微笑んだ。「もう、この卓の仲間でしょう。仲間の妹は、私の妹のようなものです」
ドレクは何も言えず、ただ、もう一度深く頭を下げた。
それでも・・・ミラには、判っていた。森に移したとて、完全に安全なわけではない。月神殿の執念が、いつ、森の奥まで伸びて来ぬとも限らない。リナの細い喉元には、なお、見えぬ刃が当てられたままなのだ。その不安は拭いきれなかった。
けれど、今は、其れが出来る精一杯であった。
その夜、灰縁の卓の六人は・・・黄金のキサーラと、ミラ、セレナ、ドレク、ロウ、ガルドは・・・心をひとつにした。
リナを白樹の森へ移す。そして、月神殿の使徒どもより先に、塩の果てへ・・・。誰も帰らぬという、白い死の地の、その最奥に眠る、喪われた言葉と・・・恐らくは、キサーラ自身の出自の答えへ。
卓を立つ前、ミラは、ふと窓の外を見た。
欠けていた月が、何時の間にか、上弦まで満ちていた。其の冷たい銀の光の下で、街の辻に、また白銀の使徒たちが立っていた。
そして、その使徒たちの、後ろに。
ミラは、見たことのない人影を、ひとつ見た気がした。
他の使徒より、頭ひとつ背が高い。月の光を弾いて、青く光る長い絹の髪。腰には、見たこともない、異様な意匠の・・・それは、武器なのか、神器なのか・・・何かを、佩いている。そして、その傍らには、馬でも駱駝でもない、硬い殻に覆われた異形の獣のようなものが静かに控えていた。
その人影は、ただ、じっと、灰縁の組合のある方角を・・・いや、まるで、その窓辺に立つミラを、その更に奥にいるキサーラを、見据えているようであった。
ミラが、もう一度、目を凝らしたときには。
その人影は、もう、どこにも居なかった。
夜風が、窓をかたりと鳴らす。
ミラは、なぜか、ぞくりと身を震わせた。




