終章 エピローグ 満ちてゆく世界
終章 エピローグ 満ちてゆく世界
世界は、一度に、満ちたのでは、なかった。
方々から、別々の速さで、別々のものが、満ちていった。水よりも、先に、満ち始めたものも、あった。…後の世の帳は、それらを、順に、並べて、綴じている。だが、満ちてゆく只中に、いた者らにとって、それは、順序のあるものでは、なかった。それは、ただ、あちこちで、同時に、起きていた。
*
それは、まだ、堰の開く前…降る星の夜の幾日か後の北の朝のことだ。
森の外れの里の、いちばん奥の家で、リナは、その朝も、熱の中に、いた。長い、長い、癒えては、伏せる、幾年。窓の薄明かりが、白み始めた頃…その明かりが、ふいに、**あたたかい色**に、変わった。
小さな光が、窓の桟に、止まっていた。
鈴を、幾つも、重ねたような、澄んだ声が、言った。「…**オ待タセ、シマシタ**」。光は、寝床の傍らへ、降りてきて、癒しの手を、伸ばす、その前に…小さな、白いものを、彼女の汗ばんだ掌に、そっと、置いたのだ。
塩を、固めた、白い札。縁に、銅の色。
リナは、熱に、霞む目で、それを、視た。見間違えようも、なかった。六年前、家を、出てゆく背中が、腰に、下げていたもの。里の誰も、持っていないもの。…**兄の六年**。
「…にいさんの」
「…道シルベニ、預カリマシタ」と、光は、言った。「イチバン、先ニ、ト。…アナタノ名ヲ、イチバンニ、ト」
癒しは、静かだった。痛みも、光の奔りも、なかった。ただ、幾年、胸の底に、居坐り続けた、重い、熱いものが、朝霧の晴れるように、薄れて、消えて…リナは、幾年ぶりに、深い、深い息を、胸の、いちばん奥まで、吸った。
「…兄は、いま、どこに」
「西へ」と、光は、言った。「…**大キナ、約定ヲ、果タシニ**」
その朝、里の者らは、視た。幾年、戸口から、出たことのなかった娘が、白い札を、胸に、握って、朝の光の中に、立っているのを。
*
南に、初めての雨が、来たのは、第一の段が、満ちて、幾月かの後だった。
空が、変わり始めていることには、誰もが、気づいていた。西の果てに、雲というものが、育つようになった。海が、息を、すれば、空は、雲を、覚える。**雨は、海の子**なのだ。幾星霜、親を、失っていた空が、親の帰りと共に、子を、宿し直した…後の学び舎は、そう、教えることになる。
その日、椀の都の空は、朝から、低く、重かった。
土の匂いが、変わった。誰も、嗅いだことのない、それでいて、身体の、どこか深いところが、覚えている匂い。人々は、戸口に、出て、空を、仰ぎ、そして、迷った。…**雨は、受けてはならぬもの**だった。幾星霜。水は天のもの。雨を、器に、受けるは、盗み。それが、律法だった。
最初の一粒が、落ちる、その前に…壇が、鳴った。
「…南の民よ。聞け」と、倦まぬ声は、言った。「余の律法より、**一行を、削る**。…水は天のもの、の一行を。あれは、後から、継ぎ足された行。まことの律法には、初めから、なかった行だ。…ゆえに、宣する。――**雨を、受けよ。咎は、ない。初めから、なかった**」
そして、雨が、来た。
最初は、まばらに。やがて、豊かに、まっすぐに。幾星霜ぶりの、まことの雨が、椀の都に、降った。…幾千の戸口で、幾千の椀が、生まれて初めて、天からの水を、受けた。雨粒が、素焼きの椀を、打つ音。それが、幾千、重なって、都は、その日、一つの、途方もない楽の音の中に、あった。誰も、屋根の下に、逃げ込まなかった。子らは、往来で、濡れて、笑い、老人たちは、戸口で、掌を、上に、向けて、立っていた。
外れ町の辻の量りの卓で、サミアの焼かれた右手が、新しい帳の新しい頁に、その日の勘定を、記した。一行きりの、勘定だった。
**…本日、天より。誰のものでもない水、量りきれず。**
*
月の庭からは、世界の変わりようが、よく、視えた。
開いたままの、空の、まるい窓の向こうで、青い星は、日ごとに、**なお、青く**なっていった。白い傷だったところに、青が、差し、青は、月ごとに、育った。月の民は、宵ごとに、庭に、出て、それを、看るのが、習いになった。戸口には、いまでは、どの家にも、椀が、置かれている。誰も、渇かない庭の椀。**渇きというものが、あることを、忘れないための**、椀。
その宵も、あの子どもは、誰かの肩の上で、育ってゆく青を、看ていた。そして、訊いたのだ。庭じゅうを、包む、優しい光へ。
「…ねえ。…いつか、**行ける**?」
光は、すぐには、答えなかった。幾星霜前なら、答えは、決まっていた。危ないから、いけません。遠いから、いけません。母の傍が、いちばん、安全ですからね。…長い、長い間の後で、母は、言った。震えを、隠しもしない、それでいて、確かな声で。
「…ええ。…**いつか、行って、おいで**」
*
水の上には、水の刻が、流れていた。
渡り手の道は、一段、また一段と、水の底へ、還っていった。幾星霜、命がけで、渡られた白い道は、いまは、魚の道だった。…盆の、いちばん深いところでは、黒い塔が、静かに、水に、抱かれていった。跪かなかった者の塔。空の書棚の間を、最初の魚たちが、銀の群れをなして、泳ぎ回った。幾星霜、書と、独りの主しか、住まなかった家の新しい、賑やかな店子たちだった。塔の礎の際では、白い、渦を巻いた殻が、新しい海の、いちばん深い静けさの中に、坐り続けていた。
水面では、帆が、生まれ始めていた。最初は、恐る恐る。やがて、誇らしげに。渡り手たちは、誰に、教わるでもなく、船人に、なっていった。乾いた海の底を、歩いて渡った者らが、満ちた海の上を、滑って渡る者らに。
*
そして…第一の段が、縁まで、満ちた日。
新しい汀に、砂の民は、総出で、立った。地の底の里は、その日、空だった。万年、砂の下で、誦えを、守り抜いた民の、ことごとくが、地の上の光の中に、出て、生まれたばかりの、青いうねりと、向かい合った。…列の、いちばん前に、ジャベが、いた。
翁は、杖を、砂に、立て、独りで、水際まで、歩いた。
波が、来て、翁の裸の足を、洗った。幾星霜ぶりに、この砂に、触れる水が、万年、待った民の、いちばん古い足に、最初に、触れた。翁は、身を、屈め、両の掌で、水を、掬った。閉じた瞼の下から、伝うものが、掬った水に、落ちて、混じった。塩の味は、どちらの、ものとも、つかなかった。
そして、翁は、立ち上がり、水に、向かって、誦え始めた。
「…水は、誰のものでもなく、渇く者のものである」
後ろで、幾百の声が、重なった。万年、口移しに、守られた抑揚の、ことごとくが。
「序を、守れ。量りを、違えるな。水を、独り占めにする者は、明日の、おのれの喉を、裂く者である。…**約定された水は、必ず、来る**」
誦えが、終わった。波の音だけが、残った。波は、万年の誦えの、あの、重い読点の律動と、同じ間で、寄せては、返していた。…翁は、閉じた瞼を、水平線へ、向けたまま、最後に、あの言葉を、言った。復命の受け取りの、あの言葉を。小さく、確かに。
「…**確かに、受け取った**」
万年の待つ務めは、その一言で、終わった。…いや。終わったのでは、ない。新しい務めに、就いたのだ。来る水を、待つ言葉から、在る水と、生きる言葉へ。誦えは、その日から、祈りであることを、やめて…**暮らしに、なった**。
帰り道、翁は、キサーラとミラに、挟まれて、砂の上を、ゆっくりと、歩きながら、ぽつりと、言った。
「…これで、いつ、逝っても、よいのじゃがの」
「**だーめ**」と、ミラが、即座に、言った。「港の市、見てからでしょ。あと、船も、乗るの。爺さま、船。約定だからね」
「…ほ。船、とな」翁は、髭の奥で、笑った。「万年、砂の民を、やった果てに、船人か。…**良い、余生じゃ**」
汀の夕暮れの中を、三つの影は、長く、伸びて、歩いていった。波の音は、もう、誰の耳にも、届いていた。




