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第十五章 約束の水 七節

挿絵(By みてみん)


七節


 七人が、壁の胎内から、朝の光の中へ、出た時…**世界は、もう、鳴っていた**。


 堰の東の面の遥かな中腹で、放ちの喉が、開いていた。幾星霜、閉ざされていた、巨きな、石の口。そこから、白いものが、一条、生まれていた。滝、と呼ぶには、あまりに、静かで、あまりに、太い、一条の水が、量られた太さのまま、壁の面を、深く、長く、降りて、裾の白い野へ、届いている。…音は、そこから、来ていた。低く、絶えず、豊かな、水の声。壁の震えでは、もう、なかった。掌の音でも、なかった。それは…**空気の音**だった。


 袂の陣で、坂の街で、人々が、立ち尽くしていた。


 そして、ミラが、キサーラの袖を、掴んだのだ。目を、まん丸にして。


「…ねえ。ねえ、これ。…**聞こえる**」


「…はい」


「あんたが、ずっと、独りで、聞いてた音でしょ、これ。西の門で。壁に、耳、当てて。…**あたしにも、聞こえてる**。いま」


 キサーラは、頷いた。言葉は、出なかった。幾月、彼女の耳だけに、届いていた、あの、遠い潮騒。半身と、二人だけの、懐かしさだった音。それが、いま、風に、乗って、坂の街の隅々にまで、渡っている。市の娘の耳に。狼の鼻の男の耳に。移りの帳を、抱えた、烙印の男の耳に。…**世界の音に、なったのだ**。


 坂の街は、静まり返っていた。


 誰も、叫ばなかった。誰も、走らなかった。荷車が、止まり、槌が、止まり、幾千の人が、坂の思い思いの場所で、東へ降りてゆく、白い一条を、視ていた。…そして、誰かが…いちばん、先に、動いたのは、路地の老いた塩汲みの女だったという…**椀を、掲げた**のだ。空の椀を、両手で、水のほうへ、高く。


 一つ、また一つ。


 椀が、掲げられていった。坂の上で。縄張りの間で。荷車の上で。子を、肩に、乗せた親の手で。…跪く者は、一人も、いなかった。この世界は、跪かぬことを、もう、覚えたのだ。代わりに、幾千の椀が、朝の光を、受けて、掲げられた。渇く者の器が。誰のものでもない水の受け手たちの、精一杯の迎えの作法が。


 ガルドの声が、見張りの座から、風に、乗って、降りてきた。


「…**寸分、狂わん!** 喉は、量りの太さを、守っておる! …良い放ちだ。**儂の柵は、保っておるぞ**!」


 サーラは、独り、袂へ、降りていった。


 白い一条が、裾の岩を、噛んで、東への、最初の流れに、変わる、その、際まで。彼女は、懐から、あの、渦を巻いた、白い殻を…幾星霜前の生きた海の名残を…取り出して、掌に、載せた。長いこと、視てから、身を、屈め、流れの、澄んだ縁に、そっと、置いた。


「…**連れて、行って**」


 と、彼女は、水に、言った。「…いちばん、深いところまで。あなたの、いちばん、初めの、住み手です」


 殻は、水に、抱かれ、揺れて、廻って、東へ、流れていった。


 …水の、その日の旅を、後の世は、風の精靈たちの、語りで、識ることになる。


 最初の流れは、白い、死の野を、東へ、歩いた。急がなかった。量られた歩みで、幾星霜の塩の膚を、溶かしては、含み、含んでは、進んだ。風の精靈たちが、その、先触れを、務めた。汀の触れ役。流れの、届く先々の空を、駆けて、標の塩の精靈たちへ、報せを、渡してゆく。…流れの、通り道の渡り手の小屋は、みな、空だった。退きの、済んだ、空き家たち。流れは、その、敷居を、一つずつ、濡らして、過ぎた。挨拶のように。


 昼を、過ぎ、流れは、盆の深みへ、深みへと、降り続け…


 夕暮れに、**それ**は、視えてきた。


 白い、果ての野に、ぽつんと、立つ、黒い館。跪かなかった者の空の塔。幾星霜、旧い海の、いちばん深い底で、独り、灯を、点し続けた、知恵の家。…最初の水は、その、黒い礎の周りに、静かに、集まり始めた。歩くのを、やめて。低いところへ、低いところへと、身を、寄せ合って。


 そして、日の落ちきる頃…黒い館は、**水に、囲まれていた**。


 浅い、浅い、膝ほどの、水だった。それでも、それは、紛れもなく、**溜まり**だった。流れではなく、湛えられた水。幾星霜ぶりに、この星の、この窪みに、生まれ直した…**海の最初の一滴**。白い殻が、揺られて、辿り着き、黒い礎の際に、ことり、と、沈んで、坐った。新しい海の最初の住み手が、いちばん深い底の、いちばん良い席に、着いたのだった。


 堰の頂で、二つの黄金は、並んで、それを、聴いていた。


 もう、夜だった。眼下の白い野の遥か東の果てに、水の生まれる音は、届きはしない。届いていたのは、足元の放ちの喉の絶えない声だけ。…それでも、二人には、聴こえていた。琥珀を、通してでは、ない。糸を、通してでも、ない。ただの、耳と、ただの、胸とで。


「…この音を」と、キサーラは、言った。「私は、生まれた日から、識っていた気がします。聴いたことも、ないのに。…**懐かしい**、という言葉の意味を、私は、この音で、覚えました」


「私も」と、サーラは、言った。「発った日から、幾星霜。氷の塔で、眠れない夜は、いつも、この音を、思い出そうとして…**思い出せる音と、思い出せない音の、あわいで**、途方に、暮れました。…ねえ、キサーラ」


 原本は、写しの手を、取った。姉が、妹に、するように。あるいは、その、逆のように。


「…**初めて、ですね。同じ場所で、同じ音を、聴くのは**」


「はい」と、キサーラは、言った。「…もう、分けなくて、いいのですね。この、懐かしさを」


 夜が、更けて、風が、凪いだ。


 そして、その夜…幾星霜ぶりに、それは、起きたのだった。誰も、報せず、誰も、量らなかった、小さな、途方もないことが。東の果ての、黒い館の袂で、生まれたばかりの、浅い、静かな水面が、凪いで、鏡に、なり…


 **塩ノ原に、空が、映った**。


 瞬かぬ星々と、欠けてゆく月とが、幾星霜ぶりに、地の上の水に、映って、揺れた。死の野は、その夜、世界で、いちばん、新しい、星空を、抱いて、眠った。…約定の水の最初の夜だった。


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