第十五章 約束の水 六節
六節
夜明け前、堰は、内側から、開いた。
スルトが、壁の裾の何の変哲もない、一枚の石版に、黒曜の掌を、当てると、石は、音もなく、退き、奥へ、道が、口を、開けたのだ。討つ者は、言った。「…**私の家だ**。足元に、気をつけろ。幾星霜、客を、迎えていない」
降りたのは、七人だった。キサーラ。サーラ。ミラ。ジャベ。ナブー。アズライール。そして、道の先を、ゆく、黒曜の巨躯。…ガルドは、放ちの喉の見張りの座に、ロウとセレナとドレクは、地の上の触れの持ち場に、メルカルトは、市の退きの検めに。それぞれの持ち場が、それぞれの帳で、この朝を、支えていた。
壁の胎内は、深かった。
道は、降り、廻り、また降りた。壁というものの、内側とは、思えなかった。それは、一つの、山の臓腑だった。両の壁面には、幾星霜、眠り続ける、途方もないからくりたちが、闇の中に、連なり、一行の灯りが、過ぎるたびに、その、鈍い、巨きな輪郭だけを、覗かせた。旧き叡智の手のあと。世界を、造り替えた者らの、仕事場の名残。…ジャベの閉じた瞼が、道々、しきりに、動いていた。「…音の澄んだ場所じゃの」と、翁は、囁いた。「万年の砂の静けさに、似ておる。…**待っておる者の静けさ**じゃ」
途中、一度だけ、スルトが、足を、止めた。
道の脇に、広間が、あった。灯りを、向けると、その、真ん中に…**空の揺り籠が、あった**。黒曜の巨躯と、寸分違わぬ、人型の、うつろ。彼が、そこで、形を、得た、鋳の床。討つ者は、それを、長いことも、短いことも、なく、ただ、一拍、視た。
「…ここで、目を、開けた」と、抑揚のない声が、言った。「最初に、視たのは、天井だった。最初に、量ったのは…**脅威の数**だった」
それだけ、言って、彼は、歩き出した。
「…行こう。今日は、**片割れ**が、目を覚ます」
心の臓は、壁の最も深いところに、あった。
円い、広い、静かな間だった。天井は、闇へ、消え、床は、磨かれた石で、その、中央に…**それ**は、あった。白い、大きな、環。両の手を、幾組も、掛けられるほどの、太い、白い環が、床から、半ば、身を、起こして、待っていた。環を、囲む床には、古い、古い文字が、輪をなして、彫られている。ナブーが、灯りを、寄せ、低く、読み上げた。
「…**これは、最後の刃にして、最初の贈りもの。引く者は、問いに、答えよ**」
キサーラは、進み出た。
一歩ごとに、額の琥珀が、あたたかくなった。恐れは、あった。消えては、いなかった。ただ、恐れの、隣に、もう、拵えものの、答えを、探す心は、なかった。塩の原で、手を、取られた日から、今日までの、すべてが、彼女の内に、静かに、坐っていた。それで、足りるのか、どうか…それを、決めるのは、彼女では、なかった。
環の前に、立つ。
間の空気が、変わった。彫られた文字の輪が、一文字ずつ、灯り始め、闇に、沈んでいた天井の高みから、声が、降りてきたのだ。一つの声では、なかった。幾万の声が、一つに、揃った声。老いても、若くも、ない声。造った者らの、遺していった声。それは、急がず、一語ずつ、置くように、問うた。
「――**何の、ために、水を、放つか**」
静寂が、落ちた。
キサーラは、息を、一つ、整えた。そして、答え始めた。考えるより、先に、言葉は、来た。来た言葉を、彼女は、ただ、順に、置いていった。
「…放つ、とは、思って、おりません」
文字の輪が、微かに、揺らいだ。
「この水は、私のものでは、ありません。あなたがたの、ものでも。月のものでも、堰のものでも。…幾星霜、待たせてしまった、**預かりもの**です。私は、放ちに、来たのでは、なく…**お返しに、参りました**」
声は、答えなかった。量っているのだ。彼女は、続けた。
「何のため、と、問われるのなら。…私は、理屈を、持ちません。持っているのは、視てきたものだけです。…戸口の椀に、水を張って、眠る、親たちを、視ました。列の、いちばん、後ろに、並び直す者を、視ました。烙印の路地の奥で、椀を、出せずにいる家を、視ました。氷の褥で、青い故郷を、夢見て、眠る民を、識りました。…そして、万年、砂の底で、口移しに、守られてきた、一行を、教わりました」
彼女は、そこで、傍らを、視た。ジャベが、立っていた。閉じた瞼を、まっすぐに、環へ、向けて。翁は、何も、言わなかった。言う要が、なかった。彼の万年が、彼女の次の一句の後ろ盾だった。
「…**水は、誰のものでもなく、渇く者のものである**」
と、キサーラは、言った。
「…私の答えは、それです。それしか、ありません。万年前に、答えは、もう、この地に、ありました。私は、それを、ここまで、担いで来た、遣いに、過ぎません」
文字の輪が、強く、灯った。だが、幾万の声は、まだ、黙っていた。まだ、量りは、済んでいないのだ。…キサーラは、識っていた。この栓が、何として、彫られたか。問いの、まことの重さが、どこに、あるか。彼女は、目を、逸らさずに、言った。
「…**水が、殺せることを、識っています**」
声にせずに、済ませることも、できた一句だった。だが、それを、伏せて、得る開栓なら、それは、嘘の熱で、開けた栓だ。
「この栓が、刃として、彫られたことも。この環が、世界を、一夜で、討ち果たすための、柄でもあることも。…私は、人が、死ぬのを、視ました。私の手の届く場所で。届かせられなかった場所で。…ですから、**量って、参りました**」
アズライールが、進み出て、彼女の傍らに、一冊の帳を、置いた。名の帳。盆の底の幾千の名。退きの、済んだ印の並ぶ頁。…キサーラは、その上に、掌を、置いた。
「一人も、水に、獲らせません。段を、一つずつ。名を、一つずつ、検めながら。…**急ぎません**。幾星霜、待った水です。あと幾月を、惜しむ理由が、ありません。…そして、最後に、一つ。これは、答えでは、なく、願いですが」
彼女は、環を、視た。その、向こうの、壁一枚、隔てた、途方もない水を、視るように。
「…私は、旅の初めに、教わりました。**灯であって、剣で、あるな**、と。…この水も、どうか、そうで、ありますように。刃として、抜かれるのでは、なく。灯として…約定として、還りますように。…以上です」
静寂は、長かった。
文字の輪の灯が、ゆっくりと、彼女の足元へ、寄り、彼女の輪郭を、なぞるように、昇り、額の琥珀の、ところで、止まった。琥珀が、応えて、灯った。間を、置いて、離れた場所で、サーラの琥珀が、同じ律動で、灯った。二つの半身の二つの熱を、幾万の声は、長い、長い間、量り…
そして、言った。
「――**その答えを、幾星霜、待った**」
環の根元で、深い、深い、錠の外れる音が、鳴った。山の臓腑の隅々にまで、渡ってゆく音だった。白い環が、静かに、完全に、床から、身を、起こした。引かれるのを、待つ、形に。
キサーラは、環に、両手を、掛けた。
引いた。…動かなかった。渾身に、引いた。指が、白くなるまで。…微動も、しなかった。壊れているのでも、拒まれているのでも、なかった。それは、**待っている**動かなさだった。スルトの抑揚のない声が、後ろから、言った。
「…**一人の手で、引ける重さには、造られていない**。…刃は、一人の手で、振れるように、造る。それが、刃の造り方だ。…この環は、逆に、造られている。**わざと、だ**。造った者らの、最後の彫り込みだ。…誰のものでもない水は、誰か一人の手で、還されては、ならぬ」
間が、あって…最初の手が、環に、重なった。
ミラだった。彼女は、キサーラの手の、すぐ隣に、おのれの、小さな、市の娘の手を、置いて、莞った。
「…ほら。**順番、間違えないでよ**」
ジャベの節くれだった手が、続いた。万年の受け取り手の手が。サーラの手が、重なった。割られた半身の、もう片方の手が。ナブーの老いた手が。跪かなかった者の手が。アズライールの浄めから、検めに、変わった手が。…そして、最後に、黒曜の巨きな掌が、それら、すべての手を、包むように、環の、いちばん外に、掛かった。討つ者の手が。庇う手として。
「…**引くぞ**」
と、誰かが、言った。誰の声でも、あった。
七つの手が、引いた。
環は…**動いた**。
重く、深く、滑らかに。石の床が、低く、歌い出し、彫られた文字の輪が、一斉に、灯り、そして、足の裏から、それが、来た。幾星霜、壁に、寄り添い続けた、あの、低い、待つ震えが…**変わった**のだ。深く、遠く、山の臓腑の、いちばん底で、閉ざされ続けた喉が、開き、そして。
水が、**歩き出した**。
音、と呼ぶには、あまりに、深かった。それは、世界の鳴る音だった。壁が、山が、地そのものが、一つの、途方もない、低い一音を、長く、長く、鳴らした。怒りの音では、なかった。産声とも、違った。強いて、呼ぶなら…**返事**だった。万年、誦え続けられた一行への、幾星霜、遅れて、届いた、返事。
キサーラは、環に、手を、掛けたまま、目を、閉じた。頬を、伝うものを、そのままに。…壁の彼方で、幾星霜ぶりに、鞘を、離れた水の最初の一筋が、開かれた喉を、渡り、東の渇いた世界へ向けて、静かに、静かに、歩き始めていた。
灯として。約定として。




