第十五章 約束の水 五節
五節
夜明けと、共に、一行は、堰の大階に、取り付いた。
旧き叡智の刻んだ、点検の道を、幾刻も。西の門の市は、見る見る、眼下に、退いて、玩具の箱庭になり、やがて、雲の帯が、足の下に、来た。…その先の風の鳴る張り出しに…**それ**は、立っていた。
黒曜の継ぎ目なき、巨きな体躯。灯りのない、深い目。討つ者。スルト。…六章の、あの日と、寸分、変わらぬ姿で、それは、壁の彼方の海のほうを、向いて、立っていた。一行の足音に、巨きな頭が、静かに、巡った。
「…**金の目**」
と、乾いた、抑揚のない声が、言った。
「刃が、抜かれる、と、量った。ゆえに、来た。…私は、この、空の底で、造られた。この壁は、私の揺り籠。この海は、私と、同じ日に、鞘へ、収められた、**もう一振りの、私**。…世界を、一夜で、討ち果たせる刃は、二振り、造られた。一振りは、問い返しに、折られて、庇う者に、なった。…**いま一振りが、抜かれる日、鞘の傍らに、立つのが、庇う者の持ち場だ**」
「…手を、貸して、くださるのですか」と、キサーラは、訊いた。
「貸す」と、討つ者は、言った。「水は、脅威に、なり得る。放ち方を、誤れば。…**誤らせないことが、私の務めになった**。壁の身の内は、私が、いちばん、識っている。生まれ育った、家だ」
…その日から、袂の野営は、**量りの陣**に、変わった。
南の量りの、先触れの隊が、卓を、並べ、ナブーの書庫の板が、届き、そして、仕事は、大きく、二つに、割れた。
一つは、**壁を、測る**仕事。
ガルドが、その、頭に、立った。識る目の鍛冶匠は、朝から晩まで、堰の身の上を、渡り歩いた。スルトが、その、巨きな掌で、彼を、点検の道の届かぬ高みへ、運んだ。石の疲れ。継ぎ目の緩み。幾星霜の風の削り。放ちの水路の喉の太さ。…ガルドは、それらを、一つずつ、**測った**。縄を、張り、錘を、垂らし、識る目で、石の芯まで、読み通して。数は、冷たく、正確で、情を、挟まなかった。挟んでは、ならぬ仕事だった。壁が、放ちに、幾年、耐えるか。喉が、一日に、幾許を、呑めるか。それは、まことの寸法の問いであって、願いの、問いでは、ないからだ。
いま一つは、**放ちを、量る**仕事。
こちらの卓には、キサーラが、坐った。傍らに、サーラ。ジャベ。ナブー。南の量り手ら。…卓の上に、広げられたのは、寸法では、なかった。**名だった**。盆の底に、生業を持つ、すべての者の。渡り手の繋ぎの小屋、十と七。塩汲みの、邑、九つ。隊商の宿場、二十と余。果ての、黒い館。…南の量りが、幾旬を、かけて、拾い上げた、幾千の名。水は、その、一人一人の足の速さより、速く、昇っては、ならないのだ。
「…**海の年輪を、使います**」
と、キサーラは、卓の一同に、言った。
「盆の縁の崖には、退いた海の汀の跡が、段をなして、刻まれています。降りる時、皆さんと、数えた、あの段です。…水には、あれを、**逆さまに、昇らせます**。一つの段から、次の段まで、水が、届く早さを、量って、放つ。段が、一つ、満ちるごとに、次の段の名を、検めて、退きの、済んだのを、確かめてから、次を、放つ。…風の精靈たちが、汀の触れ役を。塩の精靈たちが、次の段の標を。**水は、待てます。待たせて、いいのです。幾星霜、待った水ですから…あと、幾月を、惜しみません**」
測る卓と、量る卓とは、日に、幾度も、突き合わされた。
壁の耐えの寸法が、放ちの上限を、定め、名の帳の退きの早さが、放ちの下限を、定める。二つの数の、あわいに、答えの、細い道が、通っていた。…ある晩、ガルドが、測りの束を、量りの卓に、置いて、唸った。「…妙な、勘定よ。儂は、生涯、物の寸法を、測ってきた。狂いのない数が、良い数だと、思うてきた。…この陣ではな、**儂の狂いのない数が、人の名を、守る柵になる**。初めてだ、こんな使われ方は」
「それが、まことの使われ方かも、しれませんな」と、ナブーが、板の上から、目も上げずに、言った。「旧き叡智の数も、本来、そのために、あったのじゃ。…途中で、数える者が、**数の向こうを、見失うた**だけでの」
夜、キサーラは、独り、張り出しに、立った。
壁に、掌を、当てる。…**鳴っていた**。石の深奥で。壁一枚、隔てた向こうの、途方もない水の重みと、うねりとが、幾星霜、絶えず、壁を、押し続けている、その、低い、低い、震え。潮騒は、もう、耳のものでは、なかった。掌のもの、だった。
「…こわいの」
振り向くと、ミラが、いた。夜着に、上掛けを、羽織って。彼女は、隣に、来て、同じように、壁に、掌を、当てた。
「…こわい、です」と、キサーラは、正直に、言った。「栓は、問うそうです。何のために、水を、放つか、と。…答えを、まだ、持っていません。拵えようと、すると、言葉が、噓の匂いに、なります」
「ふうん」と、ミラは、言った。壁の震えに、掌を、預けたまま。「…あのさ。塩の原で、あんた、あたしを、助けた時。**何のために**、とか、考えた?」
「…いいえ」
「でしょ」市の娘は、莞った。「…なら、大丈夫だよ」
それだけ、言って、彼女は、欠伸を、一つして、灯のほうへ、戻っていった。キサーラは、壁の震えの中に、独り、残された。…いや。独りでは、なかった。張り出しの、端の闇に、黒曜の威容が、変わらず、立っていた。海のほうを、向いて。討つ者は、振り向かずに、言った。
「…金の目。一つ、報せておく。私は、幾星霜、この壁の震えを、聴いてきた者を、識らぬ。だが、私自身は、造られた日から、この音を、識っている。…**あれは、怒りの音では、ない**。押しているのでは、ない。…**寄り添っている音だ**。海は、幾星霜、壁を、憎まずに、待った。…量りは、済んだ。あとは、問いだけだ」
量りの陣の帳が、締まったのは、それから、七日目の夕暮れだった。
測りの数と、量りの数が、一本の細い道の上で、握手をし、放ちの初日と、初めの量とが、定まった。第一の段が、満ちるまで、風の触れが、盆の底を、三巡りする猶予。名の帳の最初の頁の退きは、完了。…卓を、囲む、すべての顔が、キサーラを、視た。彼女は、頷いて、立ち上がり、言った。
「…**明日の夜明け。栓に、問われに、参ります**」




