第十五章 約束の水 四節
四節
堰は、近づくほどに、壁であることを、やめていった。
それは、山だった。世界の西の果てを、北から南まで、塞ぎ切った、灰色の一枚の山。頂は、雲の帯に、隠れ、裾は、地平の両の果てへ、消えている。旧き叡智の大普請。…そして、その裾の坂の街が、見えてきた時、一行は、足を、緩めた。
西の門の市は…**坂を、登っていた**。
触れは、律法の足より、商人の足で、先に、着いていた。海が、帰る。坂の下の市は、幾年の内に、汀になる。…市は、恐慌の代わりに、商機で、応えていた。荷車の列が、坂の上へ、蟻の道をなし、高台には、新しい市の縄張り縄が、幾筋も、打たれ、槌の音が、方々で、鳴っていた。値切る声、励ます声、子を、叱る声。…あの、嘘の織物の市は、生きたまま、まるごと、引っ越しの、最中だった。
その、往来の、いちばん、忙しい辻で、荷の差配を、怒鳴り散らしている、小柄な男が、いた。
「…そこの樽、三番の縄張りだ! 帳に、書いた通りに、運びやがれ! 書いた通りに、だぞ、書いた通りってのは、この世で、いちばん、新しい、贅沢なんだからな!」
「…**鼠**」
と、ドレクが、言った。低く、笑いを、噛み殺した声で。小柄な男が、振り向いた。鼠のタゴ。西の市の路地の底で、燻っていた男は、いま、袖を、肘まで、まくり上げ、その、剥き出しの腕に…**烙印を、隠しもせずに**…移りの帳の束を、抱えていた。
「…よう、銅縁」タゴは、にやりとした。「生きてやがったか。…で、後ろの、そりゃ、なんだ。黄金が…**二人**、いるぞ。俺の目も、いよいよ、焼きが」
「増えたのです」と、キサーラが、莞った。「お久しゅう、タゴ」
再会の宴は、簡素で、騒がしかった。タゴは、移りの帳の束ね役だった。烙印の男の差配を、市の者らは、疑わなかった。曰く…「まことを、売って、焼かれた男なら、荷の行き先で、嘘は、つくめえ」。タゴは、まくった腕の焼き痕を、叩いて、笑った。
「見ろよ、これ。…あの頃は、隠して、隠して、それでも、腐っていく、傷だった。いまじゃ、**看板**だ。『いちばん古い、まこと売り』の、な。…妙な、世の中に、なったもんだぜ。まことを、触れて回って、銭になる。底の熾火が、竈の火に、なりやがった」
堰の袂の野営の陣には、夕刻に、着いた。
最初に、気づいたのは、向こうだった。風下の灯の一つから、影が、跳ね起きて、吠えるように、笑ったのだ。「…**匂うぜ! 月の匂いと、黄金が、二人ぶんだ!**」。ロウだった。狼の男は、駆けてきて、二つの黄金を、見比べ、盛大に、鼻を、鳴らした。「…こりゃあ、驚いた。**匂いまで、同じ**だ」
ガルドは、何も、言わず、まず、キサーラの繕った腕を、取って、検めた。指を、曲げさせ、糸の通いを、確かめ、それから、初めて、莞った。「…良い。保っておる」。セレナの肩の周りでは、灰色の風が、嬉しげに、渦を、巻き、ジャベの杖の先を、からかうように、撫でて、翁に、「これ、悪戯りおるな」と、髭の奥で、笑われていた。
ドレクは、少し、離れて、突っ立っていた。キサーラが、歩み寄ると、彼は、ぶっきらぼうに、訊いた。
「…で。**蔵は**」
「開きました」と、キサーラは、言った。「札は、北へ。いちばん、先を、ゆく癒し手が、抱いて、真っ直ぐに。…**リナの名を、いちばんに**、と、頼みました」
ドレクは、暫く、動かなかった。それから、ぐい、と、顔を、背けて、空を、仰いだ。降る星の夜を、この男も、この袂で、視ていたのだ。あの、幾千の光の、いちばん先の一つが、妹の名と、おのれの六年とを、抱いていたと…いま、識ったのだった。
「…そうかよ」
と、彼は、言った。それだけ、言うのに、ずいぶん、掛かった。
翌る日の昼下がり、メルカルトは、坂の上の館へ、登った。
付いて行ったのは、ミラと、キサーラだけだった。商人が、珍しく、誘ったのだ。「…店仕舞いの、立ち会いを、お願いしたい」と。坂の上の、あの館は、変わらず、瀟洒に、建っていた。ただ、召使いらは、暇を、出された後らしく、扉は、商人自身の手で、開けられた。
帳簿の間は…**空だった**。
壁一面の棚という棚が、空の口を、開けていた。幾星霜ぶんの、罪科の目録は、残らず、月へ、担がれ、いまは、月の開いた帳の間に、並んでいる。誰でも、読める帳として。…メルカルトは、その、空の棚の間を、ゆっくりと、歩いた。
「…この部屋はですな、お客人」と、彼は、言った。「幾星霜、**風を、入れたことが、なかった**。帳が、湿気るのを、嫌いましてな。いや…嘘は、いけません。帳が、燃えるのを、恐れたのです。手前の罪科ごと。…それが、どうです」
彼は、窓を、開けた。西の高い風が、吹き込んで、空の棚の埃を、さらっていった。
「…**初めて、風通しが、良い**」
ミラは、窓辺に、寄った。その窓から、坂の下の市と、白い野営と、そして、世界の堰とが、一望できた。…発ちの朝、この窓に、小さな人影が、あったのを、彼女は、覚えていた。見送る目、だったのを。
「…ねえ。あんたの、**値**ってさ」と、彼女は、訊いた。「月で、言ってたやつ。結局、何なの。名の壁、見て、高い、って言って…それで、払われた気に、なったの?」
「なりませんな」と、商人は、即座に、言った。「あれは、値の付かぬ品。値の付かぬ品を、見た商人は、店を、畳むか…**新しい商いを、始める**か、二つに一つです。手前は、後のほうを」
彼は、空の棚に、背を、預けて、窓の外の堰を、視た。
「…**新しい海の最初の港で、いちばん正直な卓を、開く**。量りを、胡麻化さず、仕入れを、隠さず、嘘の織物は、一反も、置かぬ卓を。…幾星霜、嘘で、栄えた市の、その真上が、港になる。**帳尻としては、これ以上の値は、ありますまい**」
その夜の評定で、ガルドの見立てが、卓に、載った。
「壁は…保つ」と、鍛冶匠は、言った。断じる声だった。「旧き叡智の仕事だ。幾星霜、押されて、罅の一筋も、育てておらん。放ちに、耐えるかどうかは、放ちの喉の見極め次第。それには、上へ、登らにゃならん。…で、だ。その、上の話よ」
彼は、声を、一段、落とした。
「…**先客が、いる**。五日前からだ。あの、雲の帯の、すぐ下の張り出しに、立っておる。**五日、微動もせん**。夜も、昼も。近づいては、おらん。だが、儂の目は、遠目にも、読んじまった。あれは、生き身じゃない。継ぎ目のない、黒い…」
卓が、静まった。ロウが、鼻の頭に、皺を、寄せ、ドレクが、得物の柄に、手を、掛けた。…キサーラは、立ち上がって、幕の外へ、出た。夜の堰を、仰ぐ。雲の帯の下の遥かな高みに、目を、凝らせば…**在た**。夜より、なお黒い、微動もせぬ、一つの影が。
額の琥珀は、疼かなかった。恐れも、来なかった。来たのは、六章の、あの、凍てつく遺跡の記憶だった。問い返しに、折れた刃の。務めを、書き換えられた者の。
「…識っています」
と、彼女は、幕の内へ、言った。静かに。
「…**旧い、知り合いです**。…明日、会いに、参ります」




