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第十五章 約束の水 三節

挿絵(By みてみん)


三節


 塩ノ原は、白かった。


 来た時と、同じに。何も、変わらぬ、死の白さで、地平の果てまで、続いていた。…変わったのは、渡る側の目だった。一行は、識っていた。この、白い果てしなさが、**海の底**であることを。おのれたちの足が、いま、幾年か先の水の底を、歩いていることを。


 サーラは、道々、幾度も、足を、止めた。


 二日目の野営の朝、彼女は、塩の面から、小さな、白いものを、拾い上げた。渦を、巻いた、掌に載る、石のようなもの。…貝、だった。幾星霜前の。生きた海の名残の殻。彼女は、それを、長いこと、掌の上で、看ていた。


「…発つ日、船の窓から、この海を、視ました。青くて、荒れていて、怒っているようで。…**私の海の底を、歩く日が、来るなんて**」


 彼女は、貝殻を、懐に、収めた。「…返しに、来ます」と、白い地平へ、言った。「あなたの、水を、連れて」


 黒い館は、五日目の夕暮れに、見えた。


 白一色の死の底に、ぽつんと、艶やかな、黒。…館の前には、白い、小さな者が、待っていた。塩の膚の人の形。あの、塩の客だった。使者は、一行の前に、深々と、礼をして、扉を、開いた。


 書庫の匂いは、変わっていなかった。古い紙と、埃と、灯りの、温み。棚は、天井へ、天井は、闇へ、闇の奥から、囁きが、幾重にも、降ってくる。無数の声。読む声、繰る声、書き写す声。…その、幾千の囁きが、二つの黄金が、敷居を、跨いだ刹那…**ぴたりと、止んだ**。


「…来おったか」


 と、一つの、老いた声が、言った。棚々の、あわいから。


「金の目の星の子。…と、その、**原本**。ふむ。見張り塔の灯守りよ。…大きゅう、なったのが、帰って来おったわ」


「ナブー翁」と、サーラは、深く、腰を、折った。「…お久しゅう。発ちの日、船の名簿を、検めてくださったのは、あなたでした」


「検めたとも。一人も、漏らさぬようにの。…見張り塔は、寒かったか」


「…ええ。とても」


「…ようも、灯を、守った」


 それだけの、遣り取りだった。幾星霜が、それだけで、畳まれた。老いた者同士の勘定だった。


 キサーラは、進み出て、書庫の中央の大卓の前に、膝を、突いた。荷から、あの、薄い、固い封書を…秤の印の封を…取り出し、両手で、捧げ持つ。


「…**南より。返書に、ございます**」


 囁きが、完全に、絶えた。


 書庫の闇の奥から、何かが、動く気配がして、灯りの輪の中へ、影が、進み出てきた。小柄な、灰色の衣の老人の姿。それが、彼の幾つもある姿の一つに、過ぎぬことを、キサーラは、識っていた。…老人は、卓の前に、立ち、封書を、視た。長いこと、視た。手は、すぐには、伸びなかった。


「…急ぎの報せは、聞いた」と、老いた声は、言った。「塩の客の口移しでな。振り返った、と。…あの一行だけで、わしは、三晩、書庫の灯を、消せなんだ。…それで、足りたのじゃ。返書までは、望んで、おらなんだ。**あれは、筆を、執らぬ**。幾星霜、触れと律法のほかに、一字も、書かなんだ男じゃ」


「…執られました」と、キサーラは、言った。「量って、書ける文では、なかったゆえ、早い足には、乗せぬ、と。…私の足で、お届けに、参りました」


 老人の手が、伸びて、封書を、受け取った。


 節くれだった指が、秤の封印の上を、一度、なぞった。それから、封を、切った。紙の開かれる、乾いた音が、静まり返った書庫に、ひどく、大きく、響いた。…一枚きり、だった。老人は、それを、灯りに、寄せ、読み始めた。


 無数の声が、一つも、しなかった。


 一行は、離れて、待った。ミラは、息を、詰めて、ジャベは、閉じた瞼を、伏せて、アズライールは、目を、逸らして…読む者の顔から、目を、逸らすのが、礼だと、識っている者の逸らし方で。…老人の紙を、持つ手が、途中から、震え始めた。読み終えて、彼は、暫く、動かなかった。それから、もう一度、初めから、読んだ。二度目も、終わって、彼は、紙を、卓に、置き、両の掌で、皺を、伸ばすように、そっと、押さえた。


「…聞くか」


 と、老いた声は、言った。誰にともなく。恐らくは、おのれ自身にも。


「みどもの、恥じゃが。…聞いて、もらいたい気も、するのじゃ。幾星霜、独りで、抱えるのは、もう、飽いたでな。…一行だけ、読む」


 彼は、紙を、取り上げは、しなかった。諳んじていたのだ。二度で。


「…**振り返らなんだは、量りに、あらず。振り返れば、月は、おまえを、余の値札と、識った。月の手は、いちばん高いものから、握る。…ゆえに、余は、余の帳の、いちばん高い一行を、帳の外へ、隠した。おまえを、勘定と、呼んだのは、勘定では、なかった**」


 書庫が、静まり返っていた。


「…跪きの、前夜」と、老人は、続けた。声が、掠れていた。「父は、わしに、言うた。おまえは、跪くな。一人は、跪かぬ者が、残らねばならぬ。それも、勘定の内だ、と。…わしは、その一言を、幾星霜、憎んだ。わしの誇りまでもが、あの男の帳面の一行かと。…**逆さまじゃった**。帳面に、載せぬために、勘定の、ふりを、しおったのじゃ。月に、悟られぬために。…跪く父を、蔑む息子。それなら、月は、握る値打ちを、見出さぬ。…あの男は、あの朝、幾千の命と…**息子の誇りと、息子の命綱と**…を、一度に、量って、跪きおった。振り返りも、せずに。振り返れば、すべてが、月の帳に、載るゆえ」


 老人は、目頭を、押さえは、しなかった。ただ、書庫の高い闇を、仰いだ。そして…その闇の、いちばん深いところから、声が、一つ、降りてきたのだ。無数の声の、いちばん底の、あの声。整わぬ、大きな、拙い、**童の声**が。たった、一言。


「…**ちちうえ**」


 それきり、声は、すぐに、大人の声々の静かなざわめきの中に、還っていった。老人は、紙を、丁寧に、畳み、懐の、いちばん深くに、収めた。


「…返しは、書かぬ」と、彼は、言った。いつもの、乾いた声に、戻って。「文の遣り取りは、これで、仕舞いじゃ。**この先は、勘定が、続くだけよ**。父と子の、な。それで、良い。それが、良い。…さて」


 灰色の衣が、一行へ、向き直った。智の魔王の目が、灯りの中で、深く、光った。


「西へ、行くのじゃな。栓を、引きに。…ならば、**残りの半分の、そのまた残り**を、渡す刻じゃ。座れ、皆の衆。…**止め弁の深奥**の話を、する」


 一行は、大卓を、囲んだ。老人は、棚の奥から、一枚の古い、金属の板を…ガルドの板と、同じ生まれの、言葉を納めた板を…取り出し、卓の中央に、置いた。


「堰はの、旧き叡智の二重の普請じゃ。一つ、**討つ者の揺り籠**。あの、途方もない魔王は、海を、退けた、その空の底で、造られた。二つ、**水の刃**。造ったものが、万一、狂うて、世界を、討ち始めた時…世界ごと、水に、沈めて、止めるための、最後の手。…ゆえに、堰の心の臓には、栓がある。**止め弁**。世界で、ただ一つ、あの海を、放てる仕掛けが」


「…月の指は、掛かっていなかった」と、キサーラが、言った。


「掛かりようが、ないのじゃ」老人は、乾いた笑いを、立てた。「あの栓はな、鍵で、開くものでは、ない。位でも、血筋でも、力ずくでも、開かぬ。…旧き叡智は、識っておった。世界を、沈められる仕掛けを、(こしら)えるからには、**間違うた手で、引かれぬ工夫**が、要る、と。じゃから、栓には、**問い**を、彫り込んだ。栓は、引こうとする者に、問うのじゃ。…**何のために、水を、放つか**、と」


 書庫が、しん、とした。


「答えを、栓は、量る。言葉の上手下手では、ないぞ。熱を、量るのじゃ。まことか、否か。…砂の翁の耳と、同じ理よ」老人は、ジャベへ、顎を、しゃくった。「そして、これは、書庫の帳にしか、残っておらぬことじゃが…**月は、一度、試みておる**。幾星霜前。使いを、堰へ、下ろしてな。栓に、問われ、月の使いは、答えた。…栓は、**開かなんだ**。それきり、月は、二度と、試みず、以後は、匂わせだけを、売った。持っていない力を、な」


 メルカルトが、低く、唸った。「…仕入れ値の判った品ほど、売り易いものは、ない、ということですな。月は、開かぬと、識ればこそ、安心して、脅しに、使えた」


「左様。…して、金の目よ」老人の目が、キサーラを、据えた。「栓の問いに、何と、答えるかは…わしは、教えぬ。教えられた答えは、**熱を、持たぬ**からじゃ。汝が、旅の果てに、汝の言葉で、答えるほか、ない。…一つだけ、言うておく。討つ者を、止めたのは、剣ではのうて、問い返しじゃった。**栓もまた、剣ではのうて、問いじゃ**。この世界の、いちばん深いところには、いつも、剣ではなく、問いが、埋けてある。…旧き叡智とは、そういう者らじゃった」


 発ちの朝、館の前で、老人は、一行に、告げた。


「わしも、後から、参る。…堰の袂へ」


 ミラが、目を、丸くした。「…翁、館の外へ、出られるの」


「出るとも。幾星霜ぶりにな」老人は、黒い館を、振り仰いだ。「ここはの、旧き海の、いちばん深い底。海が、帰れば、**いちばん先に、沈む**。…書庫は、運び出す。写しは、幾百、(こしら)えて、岸々の学び舎へ、散らす。**知は、読む者のいる岸へ**…独りで、抱えるかぎり、抱えた者を、焼くだけじゃからの。それを、わしに、教えたのは、鼠の男と、金の目の一刺しじゃった」


「…館は」と、キサーラが、訊いた。


「館は、置いてゆく」と、老人は、言った。惜しむ色は、なかった。「沈めるのでは、ない。…**還すのじゃ**。もとより、海の床を、借りておった身よ。幾星霜、良い、静かな、店賃いらずの床じゃった。…いつか、汝の海の魚どもが、わしの空の書棚を、泳ぎ回るじゃろう。…悪くない、仕舞いと、思わんか」


 一行は、西へ、発った。


 振り返ると、白い死の底に、黒い館が、小さく、立っていた。跪かなかった者の幾星霜の塔。やがて、水底の静かな骨組みになる、知恵の家。…その、遥か向こう、白い地平の、いちばん果てに…**それ**は、もう、見え始めていた。天を、突く、灰色の細い、一本の線。世界の堰。


 近づくほどに、キサーラの耳の潮騒は、育っていった。そして、その隣で、サーラが、ふと、足を、緩めて、囁いたのだ。


「…**きこえる**」


 二人の耳に、初めて、同じ音が、届いていた。壁の彼方で、幾星霜、待ち続けた、大きな、大きな水の呼吸が。



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