第十五章 約束の水 二節
二節
都は、音で、一行を、迎えた。
樋の音は、七日前より、太く、泉の音は、深かった。上の水脈が、還ったのだ。…けれど、都の音は、それだけでは、なかった。耳を、澄ませば、聞こえてくる。戸口の椀に、朝の水を、注ぎ足す、幾千の小さな音。列の、ない辻で、量りの卓を、囲む、話し声。そして…家々の窓の内から、漏れてくる、鈴のような、澄んだ、震え。
癒しの精靈たちが、働いていたのだ。
降る星の夜から、七日。光たちは、南の病の床という床を、巡り続けていた。外れ町の路地の奥で、一つの光が、老人の曲がった背を、繕っているのが、開いた戸から、視えた。傍らで、量り手の衣の娘が…サミアの教え子だろう…癒しの帳を、付けていた。誰が、癒えたか。次は、どこか。**癒しにも、序を。ただし、渇きの序を**。…蔵の中で、幾星霜、待った者らは、地に降りて、七日で、もう、地の帳と、共に、働いていた。
サーラは、その、すべてを、歩きながら、看ていた。
観る目、ではなかった。もう、違うのだ。彼女は、道々、足を、止めた。椀の前で。量りの卓の前で。癒しの、灯る窓の前で。…「氷の塔で、私が、思い描いた故郷は」と、彼女は、言った。「発った日の、まま、でした。壊れて、燃えて、割れたまま。…**育っているとは、思わなかった**」
根の里の渠の口で、翁が、待っていた。
報せは、要らなかった。ジャベは、二人が、角を、曲がるより、先に、杖を、突いて、立ち上がっていた。閉じた瞼が、まっすぐに、二人へ、向く。…そして、翁は、長いこと、動かなかった。耳を、澄ませていたのだ。二人ぶんの、足音に。二人ぶんの、息に。
「…声を、聞かせてくれんかの。御両人」
キサーラが、ただいま戻りました、と言い、サーラが、初めて、お目に掛かります、と言った。翁の皺の奥の閉じた瞼が、微かに、震えた。
「…**同じ鐘が、二つで、鳴っておるわ**」と、翁は、言った。「音は、二つ。温みは、一つ。…ようも、まあ。幾星霜、離しておいて、こうも、揃うものかの」
その夜、根の里の灯りの下で、旅の帳が、開かれた。月の庭のこと。降る星のこと。名の壁のこと。ナイラとサミアが、新しい水の律法の綴りを、二人に、見せた。第一条は、あの一行目だった。…そして、話が、西のことに、及んだ時…キサーラは、居住まいを、正して、翁に、向き直った。
「翁。…お伝えせねば、ならないことが、あります。私たちは、これより、西へ、参ります。堰の袂へ。四人と、落ち合って。そして…」
彼女は、一度、息を、整えた。万年の重みを、渡すのに、足る息を。
「…**約定の水を、還しに、参ります**」
里が、静まった。
ジャベは、すぐには、何も、言わなかった。杖を、握る、節くれだった手が、白くなるほど、固くなり、やがて、緩んだ。閉じた瞼が、天井を…天井の遥か向こうの、砂の空を…仰いだ。しわがれた声が、囁くほどの、大きさで、言った。
「…**間に合うて、しもうたか**。…儂の代で」
誰も、言葉を、挟まなかった。万年、砂の民は、誦え続けた。約定された水は、必ず、来る、と。信じた者も、疑うた者も、ただ、口移しに、守り続けた。来ぬ水を、待つ務めを、幾百の代が、次の代へ、渡して…その、受け取りの列の、いちばん、しまいに、この翁は、立っていたのだ。
「参るぞ」と、翁は、言った。杖を、突き直して。「儂も、西へ。…止めるでないぞ、娘御。**万年の受け取りに、砂の民が、立ち会わんで、誰が、立ち会う**。それにの…汀に、着いた水に、最初の一行目を、聞かせてやるのは、儂の勤めじゃ」
…宮への、伺候は、翌る日だった。
白い扉は、二つの黄金を、待っていた。玉座の間の白いうつろ。坐した、うつくしい、空の貌。…倦まぬ声は、二人が、段の下に、並ぶのを、待って、言った。愉しげ、と呼んで、差し支えない声だった。
「…**二つ、居るのか**」
「写しと、原本に、ございます」と、キサーラが、言った。
「ふむ。…原本どの」と、声は、サーラへ、向いた。「星の彼方の見張り塔の主か。余の帳に、汝の項は、無い。幾星霜、載せる術が、なかったゆえ。…何を、しに、参った。勘定なら、写し殿と、済んでおる。差し引き、零。締まった帳を、開け直すのは、良い商いでは、ないぞ」
「勘定には、参りません」と、サーラは、言った。「…**量りに、載らぬものを、二つ、置きに、参りました**。一つは、お渡しするもの。一つは、お支払いするもの。どちらも、目方が、ないので、帳は、汚しません」
「…ほう」
皿を、置き直す、あの、微かな音がした。興の動く音が。
「まず、お支払いから」サーラは、背筋を、伸ばした。「発ちの日のことです。空の壊れた頃。船は、柱を、昇りました。私も、その一つに、乗っておりました。…昇りながら、私たちは、眼下の南の野に、跪く王を、視ました。そして…**蔑みました**。地を、月に、売った王、と。膝の折れた量り手、と。船の中で、幾人もが、あなたの名を、唾と共に、吐きました。私も、その一人です」
「…知っておる」と、声は、言った。抑揚は、動かなかった。「正しい、蔑みだ。あの朝の皿の上では」
「いいえ。**帳が、違います**」サーラは、退かなかった。「後に、識りました。私たちの船が、昇れたのは…月が、発たせたのは…あなたの、あの跪きが、値に、含めて、購ったからだ、と。私たちは、あなたの膝を、蔑みながら、あなたの膝の買った道を、通って、逃げたのです。…その借りを、幾星霜、帳に、載せずに、参りました。載せる帳が、なかったから。…**今日、載せて、今日、払います**。星々を、渡って生き延びた、すべての民に、代わって。…ありがとう、ございました。あなたの膝が、私たちを、発たせました」
白いうつろが、静まり返った。
倦まぬ声は、長いこと、答えなかった。玉座の白い貌は、彫られた時のまま、うつくしく、空で…けれど、その沈黙は、量る沈黙とは、違って、聞こえた。幾星霜、誰も、開かなかった頁が、開かれる時の紙の掠れに、似ていた。
「…受け取った」
と、やがて、声は、言った。それだけだった。それだけの声が、僅かに、掠れていた。
「では、お渡しするものを」サーラの声が、和らいだ。「…**あなたの、声です**」
「…余の声、だと」
「最初の配りの朝の。…あなたは、覚えて、おいででしょう。あの朝、何を、宣したか。一語も、違えずに。帳の王ですから。…ですが、**どんな声で、宣したか**は、帳に、載りません。私は、あの朝、群れの、後ろのほうに、おりました。発ちの、支度の途中で、水を、受け取りに。…お渡しします。あの朝の、あなたを」
彼女は、目を、閉じた。幾星霜の彼方から、掬い上げるように。
「…若い声、でした。灼けて、掠れて、早口で。幾晩も、眠っていない声。宣しの、途中で、一度、詰まりました。…水は、と、言って。そこで、言葉が、途切れて。群れが、ざわめいて。あなたは、咳を、一つして、言い直された。**水は、誰のものでもなく**…と。…最初の一句は、整った律法の声では、ありませんでした。必死の声でした。目の前の幾千を、朝までに、死なせぬための。…あれが、あなたの、声です。幾星霜、あなたの壇が、忘れていた、あなたの声」
玉座の間の静けさは、深かった。
「…詰まったか」と、倦まぬ声は、言った。ずっと、遠くから、聞こえるような声だった。「…余は、あの朝を、幾万度、量り直した。載っていたのは、数と、序と、判じだけであった。…声は。…**声は、量りに、載らなんだ**」
「はい」と、サーラは、言った。「ですから、手で、お渡しに」
「…受け取った」
と、声は、二度目を、言った。そして、間を、置いて、常の乾いた抑揚に、戻って、続けた。戻り方が、僅かに、急いで、聞こえたのは、聞き手の僻目では、あるまい。
「…して、西へ、参るのだな。約定の水を、還しに。…良い。聞け、二つの黄金。海は、一夜で、還してはならぬ。盆の底には、渡り手の道が、塩汲みの小屋が、果ての館が、ある。退く暇を、量らねば、水の刃と、同じことになる。**年を、かけよ。量って、還せ**。…そのための量りなら、南に、ある。…**余の量りを、使え**。人手も、帳も、触れも。幾星霜、渇かせるために、働いた量りだ。…仕舞いくらいは、潤すために、働かせてやりたい」
…触れは、その日の夕刻に、打たれた。
都じゅうの壇が、鳴った。倦まぬ声が、読み上げたのは、幾星霜ぶんの、触れの中で、最も、途方もない一枚だった。曰く…西の古い堰は、開かれる。眠れる海は、幾年を、かけて、旧き海盆へ、還る。盆の底に、生業を持つ者は、量りの助けにより、順を追って、高きへ、移る。失われる生業には、新しい生業が、量られる。…**恐れるな。これは、罰の水に、あらず。約定の水である**。
万の民は、立って、それを、聞いた。跪かぬ朝に、覚えた、あの立ち方で。…そして、触れの、結びに、壇は、一行を、添えたのだ。幾星霜、嘘を、運び続けた壇が、まことの備えを、報せた、その締め括りに。誰もが、識っている、あの一行を。
**…約定された水は、必ず、来る。**
外れ町の辻で、ミラは、それを、聞いた。隣には、ジャベが、いた。翁は、壇の声に、唱和も、せず、頷きも、せず、ただ、閉じた瞼を、西へ、向けて、立っていた。万年ぶんの、まっすぐさで。
発ちは、二日の後と、決まった。南の量りの、先触れの隊と、道を、共にするために。…その晩、キサーラは、宿の屋根に、上って、西の空を、看た。星々の下に、世界の果ての、堰は、まだ、視えない。けれど、その、向こうに、待っているものの、呼吸は…潮騒は…もう、彼女の耳だけの、ものでは、なくなろうとしていた。
懐で、急がぬ文が、微かに、鳴った。
(…次は、あなたの番です)
と、彼女は、思った。塩の果ての、黒い館の老いた声へ。
(返書を、届けに、参ります。…**父上は、筆まで、執られましたよ**)




