第十五章 約束の水 一節
一節
発ちの朝、月の庭は、総出で、見送りに、出た。
果樹の人が、進み出て、アズライールに、深く、礼をした。彼女の腕には、真新しい、白い綴りが、抱えられていた。庭の最初の、まことの帳。「疑い方の、お作法、確かに、習いました」と、彼女は、言った。「…検めて、綴じて、読ませます。誰の目にも、開いた帳を」。青は、懐から、あの、畳まれた白い書き付けを…彼の破門状を…取り出して、彼女に、渡した。「では、これを、最初の頁に、綴じてもらいたい。…この庭の新しい帳は、**削られた名から、始まった**のだと、残るように」
あの子どもが、ミラの前に、駆けてきて、小さな手を、差し出した。掌の上に、白い、細い、編み紐が、載っていた。不揃いで、結び目の歪んだ、けれど、確かに、編まれた紐だった。「…あなたの、あかいの、みて、つくった。しろいの、あげる」。ミラは、しゃがんで、それを、両手で、受け取り、その場で、手首に、結んだ。赤い組み紐の名残の隣に。「…一生、もんだね、これは」と、彼女は、言った。庭で、生まれた、最初の贈りものだった。
乳色の光は、最後まで、何も、命じなかった。ただ、渡りの座の際まで、寄り添って来て、小さな声で、訊いたのだ。
「…また、来て、くれる?」
引き留めるのでも、包むのでもない。ただの、問いだった。答えを、相手に、預ける、問い。…母は、問い方を、覚えたのだった。ミラが、笑って、答えた。「来るよ。**椀、置いてったから**。あれ、注ぎ足しに、来なきゃ」
…送りの間から、白い喉を、座は、降り始めた。
降りる者、五人。二つの黄金と、市の娘と、破門の証人と、値の商人と。…昇りは、七日だった。降りも、七日。そして、その七日が、幾星霜ぶんの、積もった話の器になった。
話は、最初の夜、ミラの飾らない一問から、始まった。
「ねえ。…あっちって、どんなとこ? 星の向こうって」
帰る者は、少し、黙った。言葉を、選ぶ黙り方では、なかった。遠い場所を、掌に、載せ直す、黙り方だった。
「…**寒い、ところ**」
と、彼女は、言った。
「船が、辿り着いたのは、遠い、遠い、凍りの世界。空は、いつも、夜で、地は、いつも、氷。…根を、下ろすには、あまりに、痩せた場所。それでも、根を、下ろすほか、なかった。帰る道の扉は、月が、握っていたから。…民の、ほとんどは、**凍りの眠り**に、就いた。氷の褥で、夢も見ずに、眠って、待つ。良い報せの、届く日を。…起きているのは、いつも、僅か。灯を、守る者。氷を、耕す者。…そして、**故郷を、見張る者**」
「…それが、あなた」と、キサーラが、言った。
「それが、私」帰る者は、頷いた。「見張る、と言っても、星々の隔たりは、あまりに、遠い。視えるのは、故郷の星が、まだ、在る、ということだけ。青いのか、白いのか、それすらも、霞む。地の声は、届かない。月は、幾星霜、地を、覆う帳で、報せの糸を、堰いていたから。…発つ日の約定が、あった。**地が、我らを、受け取れる日が、来たら、帰る**、と。…けれど、その日が、来たのかどうか、確かめる術が、なかった。それが、見張り塔の、いちばんの、渇きだった」
「それで…」と、アズライールが、静かに、言った。「**目を、送った**のか」
「目を、送った」
帰る者は、おのれの額の琥珀に、指を、当てた。
「報せの糸は、堰かれる。けれど、**一つのものを、二つに割った、その半身同士の呼び合い**だけは、どんな帳も、堰けない。それは、報せでは、なく、疼きだから。…私は、志願した。おのれを、割ることを。この琥珀は、もとは、一つの珠。それを、二つに、割って、片方を、新しい身に、据えて…地へ、落とした。星の間を、渡れるほど、小さく、軽く、けれど、地に、降りたら、独りで、立って、歩けるように、拵えた身に」
ミラが、キサーラの顔を、視た。キサーラは、おのれの額に、そっと、触れていた。
「…なぜ」と、彼女は、訊いた。「なぜ、記憶を、持たせなかったのですか。私は…何も、識らずに、目覚めました。名も、由来も、務めも。世界を、初めて、見る目で」
「**それが、望みだったから**」
と、帰る者は、言った。静かに。少しだけ、痛みの混じる声で。
「私たちの目は、もう、曇っていた。幾星霜の恨みと、恋しさとで。あの目で、地を、視れば、視たいものしか、視ない。月の悪と、地の哀れと、帰れない言い訳と。…だから、**空の目**を、送った。恨みを、識らぬ目。恋しさすら、識らぬ目。ただ、在るものを、在るがままに、映す目。…**観る者**を。それが、あなたに、託した、たった一つの、務めだった。観よ。判じるな。ただ、観て、疼きの糸で、伝えよ、と」
座の中が、静かになった。白い壁の灯りが、上へ、上へと、流れていた。
「…ですが」と、キサーラは、言った。「私は、務めを、違えました。観る、だけでは、いられなかった。看て、しまった。手を、出しました。ほどいて、繕って、担いで…盤の中へ、降りました。何度も」
「ええ」と、帰る者は、莞った。「…**それが、届いた報せの、すべて**」
彼女は、おのれの胸に、掌を、当てた。
「疼きの糸は、細い。言葉は、乗らない。景色も、乗らない。乗るのは、温みと、震えだけ。…氷の見張り塔で、私は、幾星霜、待った。送った目から、何が、届くか。地の有り様の冷たい見取り図が、届くのだと、思っていた。…**届いたのは、手の温みだった**。塩の原の最初の夜。誰かが、あなたの手を、取った、あの温み。それから、幾つも、幾つも。焚き火の温み。子どもの重み。傷の痛み。別れの冷たさ。誦えの、震え。…観るために、送った目は、報せの代わりに、**触れたものを、送って寄越した**。私は、氷の褥の民を、起こして回りたかった。地は、生きている、と。地には、まだ、手を、取る者がいる、と」
「…それで、いつ」と、ミラが、洟を、啜りながら、訊いた。「いつ、帰るって、決めたの」
「決まっていたようなもの。けれど、舵を、切ったのは…**きこえる、と、応えが、来た夜**」帰る者は、キサーラを、視た。「塩の果て。あなたが、初めて、こちらへ、呼びかけた。届くとも、思わずに。…あの夜、疼きが、初めて、**言葉の形**になった。糸が、育ったのです。二つの半身が、二つながらに、育ったから。…私は、その夜のうちに、船の氷を、割った。皆には、告げた。**確かめに、ゆく。地が、我らを、受け取れる日が、来たかどうか。…青くなったら、報せる**、と」
「青く、なったら?」
「海が、帰れば、世界は、また、青くなる」と、帰る者は、言った。窓の外の遥かな、青い縁を、看ながら。「…青は、星々からも、視える色。幾星霜、凍りの空から、故郷を、見張り続けた者らには、何よりも、雄弁な、触れになる。**世界が、青くなること**。それが…帰っておいで、の、報せになる」
三日目、道は、あの窓を、持った。
帰る者は、窓辺に、立ち、長いこと、動かなかった。塩ノ原の白い、巨大な傷を、看下ろして。…彼女の識っている故郷には、そこに、海が、あったのだ。船の発った日、眼下に、青く、うねっていた海が。「…骨に、なっている」と、彼女は、囁いた。「私の海が」。誰も、慰めの言葉を、持たなかった。代わりに、ミラが、隣に、立って、指を、差した。「あのね。あの、緑の森。はちみつが、すごいの。あの山は、ガルドの故郷で、お酒が、強すぎるの。あの、黄色いうねりの下に、爺さまの、里があって…」…市の娘は、白い傷の周りに、名前を、置いていった。一つ、また一つ。かつて、写し身に、そうしたように、今度は、原本の目に。帰る者は、その指を、目で、追い続け、やがて、言った。「…骨の周りで、こんなに、生きていたのね」
五日目、水脈の分かれ目で、座が、緩んだ。
南へ、降りる枝の、あの、降り口。…**白い封は、消えていた**。剥がした跡すら、なく、ただ、太い脈が、静かに、深く、鳴っていた。水が、通っているのだ。南へ。誰が、いつ、解いたのか…問うまでもなかった。空を、開けたのと、同じ手が、これも、開けたのだ。ミラが、脈の壁に、掌を、当てて、笑った。「…椀に、注ぎ足す水が、増えるね」
六日目の夜、キサーラは、訊いた。ずっと、訊けずにいたことを。
「…あなたの、名を、まだ、伺っていません」
帰る者は、灯りの流れる壁を、看たまま、答えた。
「…**サーラ**」
キサーラは、息を、呑んだ。
「氷の塔では、皆、そう、呼びました。…あなたが、目覚めて、おのれを、何と、名乗ったか、糸越しの、震えで、届いた時…私は、笑って、泣きました。**キサーラ**。誰に、教わったのでもないのに。空の目で、送ったはずなのに。…名の半分を、あなたは、覚えていたのです。琥珀の割れ目の、こちら側に、残っていた、半分を」
「…では、私は」と、キサーラは、囁いた。「初めから、独りでは、なかったのですね。名乗った、あの日から」
「初めから」と、サーラは、言った。「…割った日から」
七日目の昼。道が、尽きて、七つの門が、内側から、順に、開いていった。
最後の門が、開いた、その隙間から…**匂いが、流れ込んできた**。
土の匂い。日に、灼けた砂の匂い。人の竈の煙。遠い、緑の微かな息。…サーラは、門口で、立ち止まり、目を、閉じて、深く、深く、それを、吸った。幾星霜ぶりの、故郷の息だった。閉じた睫毛の下から、伝うものを、彼女は、拭わなかった。
「…………………………**ただいま**」
と、帰る者は、言った。誰にともなく。世界そのものへ。
門の外には、朝焼けの、砂の都が、待っていた。椀の都が。壇の声が、遠く、朝の量りを、読んでいて、樋の音は、七日前より、確かに、太かった。…二つの黄金は、並んで、地の上へ、最初の一歩を、置いた。




