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第十四章 月の庭 七節

挿絵(By みてみん)


七節


 空は、開いたままだった。


 精靈たちを、送り出した、あの、まるい、まことの夜を、母は、閉じなかった。閉じ方を、忘れたのでは、あるまい。…閉じない、と、決めたのだ。誰も、それを、言葉にしては、確かめなかった。ただ、その夜から、月の庭には、作りものではない夜が、通うようになった。瞬かぬ星々と、青い世界の昇り沈みとが、庭の空の真ん中に、住みついた。


 そして…**動く星が、あった**。


 最初に、見つけたのは、あの子どもだった。宵ごとに、誰かの肩に、乗って、星を、数えるのが、子の新しい遊びになっていて、その、幾晩目かに、小さな指が、一つの光を、差したのだ。あれ、きのうより、大きい、と。…子の言うとおりだった。星々の、どれとも違う、一つの光が、宵ごとに、確かに、育っていた。瞬かず、揺らがず、真っ直ぐに…こちらへ。


 キサーラは、宵ごとに、その光を、看上げた。額の琥珀は、もう、疼くのでは、なかった。**灯っている**のだった。絶えず、静かに、あたたかく。…そして、彼女は、遅ればせに、識ったのだ。この、幾月の温みの、まことの意味を。塩の果てで、初めて、きこえる、と、応えが、来た、あの夜から…温みは、育ち続けていた。彼女が、昇ったから、近づいたのでは、ない。**あちらが、ずっと、降りて来ていた**のだ。応えた、あの夜に、もう、舵は、切られていた。幾星霜の彼方から。…二人は、この物語の初めから、互いへ向かって、旅をしていたのだった。


 待つ日々の庭は、静かに、変わり続けた。


 果樹の人は、アズライールの許に、通うようになった。帳の付け方を、教わりに。検めの、作法を。「疑うことと、憎むことは、違うのだと、識りました」と、彼女は、言った。「疑い方の正しい、お作法が、あるのなら、習いとう、ございます」。青は、生涯で、いちばん、丁寧な、師になった。…緑の奥の銀たちの内、幾体かが、面を、外して、庭を、歩くようになった。ソアレの君は、癒しの蔵の空になった棚を、毎朝、拭いていた。誰に、命じられたのでもなく。


 動く星が、月よりも、近くなった宵…それは、進む先を、僅かに、変えた。月へ、では、ない。**柱へ**。青い世界から、天へ伸びる、あの、白い、細い、一本の道の、いちばん、上へ。


「…送りの間、だ」と、アズライールが、言った。


「帰る者は、発った所へ、帰る」と、メルカルトが、静かに、頷いた。「…道理ですな」


 発ちの、支度は、すぐに、整った。銀の渡りの座へ、向かう、その道すがら…乳色の光が、一行の傍らに、寄り添って、来た。いつもの、庭を、満たす、大きな光では、なかった。掌に、載るほどの、小さな、小さな、光の珠。庭の外へ、出るための、姿だった。幾星霜、一度も、要らなかった姿。…そして、母は、言ったのだ。庭を、統べる声では、なく、初めて聞く、小さな、遠慮がちな声で。


「…**母も、行って、いいかしら**」


 キサーラは、思わず、ミラと、目を、見合わせた。母が…願ったのだ。許しを。生まれて、初めて、かもしれなかった。…ミラが、先に、莞った。


「いいよ。おいで」


 渡りの、黒い海を、銀の座は、柱へ、滑った。小さな光の珠は、座の隅で、身を、縮めるように、揺れていた。庭の壁の外は、こんなに、暗いのねえ、と、一度だけ、呟いて。


 送りの間は、目覚めて、待っていた。


 白い、途方もない広間に、灯りという灯りが、点り、幾十の大扉の名という名が、淡く、光っていた。七日の昇りの道で、そうだったように。柱は、識っているのだ。誰が、帰ってくるのかを。幾星霜、待った甲斐を、その、隅々までの、灯りで、言祝いでいた。


 一行は、広間の真ん中で、待った。


 大きな、澄んだ、窓の向こうで、光は、もう、星では、なかった。**船だった**。白く、長く、旅の幾星霜に、灼かれ、それでも、白く。それは、速さを、殺し、向きを、正し、幾百の扉の一つへ…広間の、いちばん奥の、いちばん古い扉へ、静かに、静かに、寄っていった。


 扉の上の船の名が、強く、灯った。


 扉の傍らの、名の列が…発っていった者たちの、名が…上から順に、さざなみのように、灯ってゆき、その、いちばん、しまいの一行が、ひときわ、明るく、燃えた。


 **――発つ。地を、頼む。**


 重い、深い、音もない震えが、床を、渡った。扉が、幾星霜ぶりに、内側から、白い息を、ひとつ、吐き…**開いた**。


 光が、あふれた。


 その、光の中に、人影が、一つ、立っていた。


 黄金だった。


 金の髪。長い旅に、灼けて、いくらか、色の深んだ、金。同じ、貌。同じ、丈。額に、同じ、琥珀…ただし、その琥珀は、キサーラのものと、寸分違わぬ律動で、灯っていた。二つの琥珀は、広間の端と端とで、応え合い、呼び合い、もう、隔たりというものを、識らなかった。


 帰る者は、歩き出した。


 急がなかった。幾星霜、待ったのだ。最後の幾歩を、噛みしめるように、白い床を、一歩、一歩。キサーラも、歩き出した。同じ、歩幅で。同じ、速さで。鏡へ、向かって、歩くように。…二人は、広間の真ん中で、向かい合って、止まった。


 言葉は、積もっていた。幾星霜ぶん。星々の彼方と、地の果てと、ふた側から、積もりに積もった、言葉が。…それは、まだ、始めなかった。始めれば、終わらないと、二人とも、識っていたから。代わりに、帰る者は、たった一言、言った。幾星霜、糸のように、細く、送り続けた、あの言葉を。今度は、声で。すぐ、そこで。


「…**きこえる**」


「…はい」と、キサーラは、言った。頬を、あたたかいものが、伝っていた。「…きこえていました。ずっと。…**おかえりなさい**」


 二人の額が、寄り、琥珀と、琥珀とが、こつ、と、小さく、触れた。それだけだった。それだけで、幾星霜の隔たりの、勘定は…締まった。


 そして、キサーラは、身を、離した。


 涙を、拭いもせずに、彼女は、荷を、解き、写しの綴りを、取り出した。届け物が、先。…砂の都の門で、そう、心に、決めた者のままに。彼女は、綴りを、捧げ持ち、白い床に、膝を、突いた。復命の作法で。


「…**復命、申し上げます**」


 と、彼女は、言った。声は、震え、それでも、一語も、崩れなかった。


「柱の裾、七つの門の守り人。鱗の民の長老、ディンガ翁より、預かりて、参りました。…**八百と、十四の名**。柱を、護って、果てた、民の名にございます。…託されし、口上は、次の、とおり。…**船は、ことごとく、昇りきり。柱は、守り抜かれ。誓いは、破れなんだ**」


 広間が、静まり返った。


 帰る者は、暫く、動かなかった。それから、両の膝を、折り、キサーラと、同じ高さに、坐って…綴りを、**両手で**、受け取った。押し戴くように。深く、深く、頭を、垂れて。


「…**復命、確かに、受け取りました**」


 と、帰る者は、言った。その声も、震えていた。


「…発つ日、私たちは、頼む、としか、言えなかった。頼んだものの、重さを、量りもせずに。…八百と、十四。…**受け取りました。一つ、残らず**。…守り人らの、務めは、今日、終わります。幾星霜、遅れて。…ようやく」


 彼女は、立ち上がり、綴りを、開いたまま、いちばん古い扉の名の列の傍らへ、歩み寄った。そして、白い壁に、掌を、当てた。


 光が、走った。


 発っていった者たちの、名の列の、その、隣に…新しい名が、一つ、また一つ、白い壁の内から、浮かび上がり始めたのだ。八百と、十四。守って、果てた者たちの名が、発って、還らぬ者たちの名と、肩を、並べて。…そして、すべての名が、刻み終わった時、その列の、いちばん、しまいに、一行が、灯った。発つ者らの、あの遺言と、対をなす、一行が。


 **…頼まれた。守り抜いた。**


 ミラは、声を、立てずに、泣いていた。アズライールは、綴りを、開き、震える手で、この日のことを、書き留めていた。彼の帳面の、いちばん、明るい頁だった。メルカルトは、名の壁を、長いこと、仰いで、それから、誰にも、聞こえぬほどの声で、一言だけ、呟いた。


「…ああ。…**これは、高い**」


 そして、広間の隅で。


 小さな、乳色の光の珠が、震えていた。発っていった子と、還ってきた子と、守って果てた子らの、名の壁を、看上げて。…母は、小さな、小さな声で、言った。誰に、でもなく。幾星霜の握り締めの、いちばん奥へ、届かせるように。


「…帰って、くるのねえ。…**手を、離しても**」


「…離したから、です」


 と、帰る者が、静かに、応えた。振り向いて。まっすぐに、光の珠を、看て。…その言葉の続きは、しかし、語られなかった。積もる話は、まだ、どれも、始まっていないのだった。


 二つの黄金は、大きな窓辺に、並んで、立った。


 眼下に、青い世界が、あった。北の深い緑。東の山影。砂の金色。椀の都。そして…西の果ての、細い、暗い、一本の線と、その向こうで、地の半分を、占めて、待っている、青。


「…積もる話は」と、キサーラは、言った。「帰りの、道すがらに」


「ええ」と、帰る者は、莞った。同じ貌で。「…**降りましょう。一緒に**。…ながく、待たせているのでしょう。あの、海を」


 欠けはじめた月が、窓の隅で、白く、静かに、二人を、看ていた。


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