第十四章 月の庭 六節
六節
蔵へは、月の民が、先に、立った。
翌る朝、客の家の戸口に、集まったのは、昨日の倍の顔ぶれだった。果樹の人が、進み出て、一枚の白い紙を、キサーラに、差し出した。月の民の美しい、几帳面な手蹟で、そこには、ただ、一つの数が、書かれていた。
**千と、二百と、十四**。
「…夕べ、みんなで、書きました」と、果樹の人は、言った。「忘れないために。数で、なくすために、では、なく。…数の向こうに、一人ずつ、いたのだと、覚えておくために。…蔵へ、参ります。地のお客人。ご一緒、くださいまし。**あれは、わたくしたちの庭が、掛けた錠**です。わたくしたちが、開けに、参らねば、なりません」
行列は、静かだった。
庭の北の外れへ。果樹の間を、抜け、流れを、渡り、月の民が、幾星霜、用のなかった道を。…列の、いちばん後ろに、離れて、銀色が、一体、ついて来ていた。誰も、咎めなかった。誰も、招きもしなかった。ソアレの君は、面を、伏せたまま、ただ、距離を、保って、歩き続けた。
癒しの蔵は、白い、大きな、伏せた貝のような建物だった。
窓は、なく、飾りも、なく、扉が、一つ。そして、扉の合わせ目に…**あれが、あった**。
掌、二つ分ほどの、滑らかな、白い封。秤の印も、月の紋も、ない。ただ、封じてあるだけの、静かな、清潔な、白。…柱の水脈の降り口に、貼られていたものと、寸分、違わぬ、あの封だった。
「…**また、これだ**」
と、ミラが、低く、言った。都の水を、断ったのと、同じ、小さな、清潔な、手続きの貌。それが、幾星霜、千と二百と十四の名の上に、貼られていたのだ。
乳色の光が、行列の頭上に、集まっていた。母は、朝から、一言も、発していなかった。止めもせず、促しもせず、ただ、ついて来ていた。…キサーラは、封の前に、立ち、光を、仰いだ。そして、言った。責める声では、なく、願う声で。
「母上。…**手ずから、剥がしていただけませんか**」
光は、揺れた。
長い、長い間だった。乳色が、濃くなり、薄くなり、寄っては、退いた。手を、伸ばしかけては、握り直す…そういう、揺れ方だった。庭じゅうの、優しさを、束ねた声が、掠れた、小さな声で、やっと、言った。
「…開けたら」
と、母は、言った。
「…開けたら、あの子たちは、**行ってしまう**わ」
それが、答えだった。惜しむのでも、拒むのでもない。幾星霜の握り締めの、芯にあるものが、初めて、言葉の形を、取ったのだった。…キサーラは、頷いた。
「はい。行ってしまいます。…では…**お手伝い、します**」
彼女は、封に、十指を、当てた。
視た。封は、鍵では、なかった。錠でも、なかった。それは、結び目だった。途方もなく、固く、幾星霜、誰にも、ほどかれることを、許されなかった…**握り締められた、手**の形をした、結び目。…彼女は、それを、こじ開けなかった。裂きも、しなかった。ただ、指を、掛け、一筋ずつ、ほどいていった。縛めを、解く、いつもの手つきで。急がず、順を、違えず、痛くないように。
封は…ほどけた。
音もなく、白い封は、朝露のように、崩れて、消え、扉が、内側から、静かに、開いていった。
蔵の中は、揺り籠だった。
白い、柔らかな棚が、幾層にも、奥へ、奥へと、連なり、その一つ一つに、小さな光が…**眠っていた**。何百。何千。淡く、脈打つ、あたたかな色の光たち。精靈だ。癒しの精靈たち。北の森で、ダヌの袂で視た、あの、命を繕う手たちと、同じ、生まれのもの。…そして、その一つ一つに、細い、細い、銀の糸が、結ばれていた。棚に、繋ぐ糸が。
キサーラの足音に…光たちが、目を、覚ました。
一つが、瞬き、隣が、瞬き、瞬きは、さざなみのように、蔵の奥まで、渡っていった。何千の小さな光が、一斉に、彼女のほうへ、身を、乗り出し、そして、声が、した。鈴を、幾千、重ねたような、澄んだ、震える声が。
「…**オ召シ、デスカ**」
キサーラは、息を、呑んだ。
「…ワタシタチハ、地ヘ、降リルタメニ、生マレマシタ」と、光たちは、言った。「傷ヲ、繕イ、熱ヲ、冷マシ、命ヲ、継グタメニ。…送リノ日ヲ、待チマシタ。幾星霜、待チマシタ。…**オ召シ、デスカ。ヤット**」
行列の月の民が、立ち尽くしていた。彼らは、識らなかったのだ。庭の豊かな癒しの、裏に、この蔵が、あることを。降りるために生まれた者たちが、幾星霜、送りの日を、待ち続けていたことを。…務めは、受け取られて、初めて、終わる。ここにも、いたのだ。終われずに、待ち続けた者たちが。何千も。
「…お召しでは、ありません」
と、キサーラは、言った。精靈たちへ。はっきりと。
「私は、あなたがたの、主では、ない。命じには、来ませんでした。…**縛めを、解きに、来ました**。この糸を、ほどきます。ほどいた後、どうするかは、あなたがたが、決めてください。残りたい者は、残って、いい。…ただ、識っていてほしいのです。地には、いま、この時も、治る病で、待っている人が、いる。子どもが、いる。…**あなたがたを、待っている**」
十指が、働いた。
銀の糸を、一筋、また一筋。棚を、渡り、層を、昇り、彼女の指は、ほどき続けた。ミラが、手伝った。糸の結び目の緩め方を、すぐに、覚えて。果樹の人が、続いた。月の民が、次々に、蔵に、入り、白い指たちが、銀の糸を、ほどいていった。**掛けた側の指が、ほどく側に、回った**のだ。…アズライールは、蔵の入口で、綴りを、開き、書き留めていた。年紀。刻。事の次第。彼の勤めだった。いちばん、後ろでは、銀色の狩人が、一体…面を、外して、俯いたまま、誰よりも、速く、確かな手で、糸を、ほどき続けていた。
すべての糸が、ほどかれた時、蔵は、光で、満ちていた。
何千の癒しの精靈が、棚を、離れ、宙に、浮かび、澄んだ声を、鈴のように、鳴らし合っていた。一つとして、棚に、残る者は、なかった。…キサーラは、懐から、銅縁の札を、出した。塩を、固めた、白い、渡り手の札。縁の銅は、六年の色。北の無骨な男の六年ぶんの、証だった。
「…願いが、一つ、あります」
彼女は、札を、掲げた。
「北の森の外れの里に、**リナ**という人がいます。長く、病んで、癒えては、また、伏せって。…その人の兄が、この札の持ち主です。妹の薬を、取り返すために、渡り手になった人です。…どなたか、この札を、道標に。…**この名を、いちばん、先に**」
光が、一つ、進み出た。
いちばん、古い棚で、いちばん、長く、待っていた光のように、視えた。それは、キサーラの掲げた札を、そっと、包み込み、鈴の声で、言った。
「…**承リマシタ。イチバン、先ニ**」
外へ、出た。
庭の空の内側は、いつもの、乳色のままだった。閉じたままだった。何千の光は、蔵の前に、群れて、天を、仰ぎ…待った。誰も、何も、言わなかった。言うべき相手は、一人しか、いなかった。…キサーラは、光の群れの中で、静かに、頭上を、仰いだ。
「母上。…**空を、開けて、あげてください**」
乳色が、震えた。
「…幾星霜」と、母の声は、言った。小さく。素の声と、蜂蜜の声の、ちょうど、あわいの声で。「…幾星霜、この子たちの、寝顔を、見て、参りました。眠っていれば、損なわれない。眠っていれば、失くさない。…そう、思って。…**こんなに、たくさん、待たせていたのねえ**。…母は」
声は、途切れた。そして。
**空が、開いた**。
庭の天蓋の真ん中に、まるい、大きな、まことの夜が、覗いた。瞬かぬ星々と、そして、遥かな、青い世界とが。…開けたのは、母だった。行ってしまう子らのために、戸を、開ける…母の幾星霜ぶりの、いや、恐らくは、**初めての、手の離し方**だった。
精靈たちが、昇った。
一つ、また一つ、やがて、堰を切ったように、何千の光が、開いた空へ、雪崩れ込み、まことの夜の中を、青い世界へ向けて、降り始めた。それは、庭から視れば、昇ってゆく光の川で、地から視れば…**降る星**に、視えるはずだった。今夜、地のどこかで、空を、仰いだ者は、視るだろう。星が、降るのを。幾千も、幾千も。北へ。南へ。渇きの上へ、病の床の上へ。…いちばん、先を、ゆく光は、小さな、塩の札を、抱いて、北へ、真っ直ぐに、降りていった。死んだ海の白いかけらを、癒しの手が、運んでゆくのだった。
庭じゅうの、月の民が、空を、仰いでいた。あの子どもが、誰かの肩の上で、両手を、伸ばして、光の川を、掴もうとしていた。ミラが、泣いていた。拭きもせずに、笑いながら。…母の光は、開いた空の縁に、寄り添うように、揺れて、いつまでも、いつまでも、降りてゆく光たちを、見送っていた。
…その時だった。
キサーラは、よろめいた。
額の琥珀が、灼けるように、熱い。痛みでは、ない。熱でも、ない。**近い**のだ。あまりにも。幾星霜、星々の彼方から、糸のように、細く、届いていた、あの気配が…いま、川のような、光の帯の、そのさらに向こうから、真っ直ぐに、こちらへ…
耳を澄ますまでも、なかった。それは、来た。初めて、まことの、言葉の形で。遠く、澄んで、震えて、笑って、泣いて…**帰る**、と。
『…**いま、帰る**』




