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第十四章 月の庭 五節

挿絵(By みてみん)


五節


 朝は、いつもどおり、支度されて、来た。乳色の光は、いつもどおり、柔らかかった。


 いつもどおりで、ないのは、庭のほうだった。


 道々の月の民の目礼が、昨日までとは、違う目方を、持っていた。目を、合わせて、深く、頷く者。目を、伏せて、足早に、過ぎる者。…どちらも、昨日までは、なかったものだ。昨日までの、この庭の目は、一種類しか、なかったのだから。


 昼前に、客の家の戸口に、人が、立った。


 果樹の、あの女の人だった。後ろに、月の民が、五人、六人。夜通し、灯りを、点けていた顔ぶれだと、ひと目で、判った。彼らは、戸口の二つの椀を、視て、それから、遠慮がちに、しかし、退かぬ足どりで、進み出た。


「…お尋ねしたいことが、あって、参りました」


 と、果樹の人は、言った。ソアレの姉。昨日、庭で、幾星霜ぶりの、問いを、立てた人。その声は、まだ、掠れていたが、もう、震えては、いなかった。


「母上に、ではなく、あなたがたに、先に、聞きに参りました。…こういうことは、生まれて、初めていたします。作法を、識りません。不調法は、堪えてくださいまし」


 母を、通さずに、問いに、来る。…それだけのことが、この庭では、天地の、ひっくり返るような、初めてなのだった。キサーラは、三人を、家の内へ、迎えた。ミラが、茶を、淹れた。地の旅の茶を。月の民は、それを、両手で、恭しく、受けた。


「…**海のことを**」と、果樹の人は、切り出した。「聞かせてくださいまし。狩りの、お帰りの方々が、囁いておられるのです。地が、逆らったゆえ、母上が、西の古い堰を、お開けになる、と。眠れる海を、地へ、落とされる、と。…わたくしたちは、幼い頃から、聞かされて、育ちました。地には、こわい、荒れた者らがいる。けれど、案じることはない。いざとなれば、母上が、**大きな水で、庭を、守ってくださる**、と。…子守唄の一節でした。安心して、眠るための」


 彼女は、膝の上で、指を、組んだ。


「昨日から、その子守唄が、眠らせて、くれないのです。…あの帳が、まことなら。地に、いるのは、荒れた者らでは、なく。…法と、帳と、子の熱を量る親とが、いるのなら。…**わたくしたちは、幾星霜、幾万の親子の命の上に、枕を、置いて、眠っていた**、ことになりましょう。…教えてくださいまし、地のお客人。母上は、まことに、あの水を、落とせるのですか。落とす、おつもりが、あるのですか」


 キサーラは、すぐには、答えなかった。答えの、持ち合わせが、ないからでは、ない。答えの、渡し方を、量っていたのだ。…この問いは、地の口から、庭に、撒かれては、ならない。敵の言葉として、量られて、終わる。この問いは、庭の口から、母へ、立てられねば、ならない。


「…私が、識っていることを、お渡しします」と、彼女は、言った。「ただし、二つ、お願いが、あります。一つ。私の言葉を、信じないでください。**検めて**ください。二つ。検めた後の問いは…あなたがたの口で、母上に、立ててください」


 月の民は、顔を、見合わせた。信じるな、と言われたのも、初めてなら、母に、問いを、立てよ、と言われたのも、初めてだった。


 キサーラは、渡した。智の魔王の警めを…堰の恫喝の内には、まことの鍵が、無いこと。南の跪かぬ朝の、あの宣しの間、万年、掟の、まことと嘘とを、聞き分けてきた、盲た翁の耳が、堰の脅しの、ただ一箇所にだけ、**熱の通わぬ**のを、聞き分けたこと。…そして、傍らの商人が、革の帳簿の一冊を、卓に、載せた。


「…手前からは、古い、商いの、種明かしを」


 と、メルカルトは、言った。


「幾星霜、月の触れは、手前どもの、針を、通って、地に、下りて参りました。堰の警めの触れも、折々に、ございました。…ここに、その、注文の控えが、揃っております。ご覧なさい。一件、残らず、注文の但し書きは、同じです。…**詳らかにするべからず。匂わせるに、留むべし**。…嘘を、幾星霜、売った男の目利きを、申し上げましょうか。持っている力は、ですな、**見せる**ものです。一度、見せれば、百年、効く。持っていない力は…**匂わせる**ものです。匂いは、検められませんからな。…幾星霜、一度も、見せずに、匂わせ続けた力。商人は、そういう品を、何と呼ぶか、識っております」


 月の民は、帳簿の頁を、繰った。彼らの、白い、柔らかい指が、但し書きの上を、一つずつ、辿った。詳らかにするべからず。匂わせるに、留むべし。同じ文言が、年紀を、変えて、幾十も。…果樹の人が、顔を、上げた。


「…問いに、参ります」


 と、彼女は、言った。「白い樹の下へ。…ご一緒、くださいますか。証しの帳と、共に」


 …白い樹の下には、誘われも、支度も、されていないのに、月の民が、集まっていた。


 三々五々、囁きの、糸に、引かれて。気づけば、昨日の、お話の会と、同じほどの、輪が、できていた。誰も、集めていないのに、集まる。それも、この庭の初めてだった。銀の列は、今日は、なかった。狩人らは、緑の奥から、出て来なかった。


 果樹の人が、樹の根元に、進み出て、光を、仰いだ。


「母上。…お尋ねが、ございます」


「あらあら、みんな、お揃いで」と、光は、莞った。いつもの、蜂蜜の声で。「どうしたの、そんな、こわい顔をして。…ああ、海の、お話ね。識っていますよ。夕べから、みんな、あのことばかり、囁いているのですもの。…いいこと、あれはね、**あなたたちを、守るための、お話**なのよ。母の大きな、傘のお話。傘はね、差さずに、済むのが、いちばんなの。母だって、差したくなんか…」


「…落とせるのですか」


 問いは、短かった。蜂蜜を、切る、細い、澄んだ刃だった。


「傘の、お話は、もう、幾星霜、伺いました。今日、伺いたいのは、一つだけです。…堰の栓に、母上の指は、**掛かっているのですか、いないのですか**。…はい、か、いいえ、で、お答えくださいまし」


 光が、止まった。


「…そんな、聞き方を、するものでは、ありませんよ」と、母は、言った。優しく。「はい、か、いいえ、だなんて。世の中はね、そんなに、単純では…」


「はい、か、いいえ、で」


 と、果樹の人は、繰り返した。声は、震えていた。震えたまま、退かなかった。


「わたくしの弟は、獲物、と、数えられておりました。はい、か、いいえ、より、ずっと、単純に。…母上。**お答えくださいまし**」


 沈黙は、長かった。


 乳色の光は、柔らかいままだった。柔らかいまま、何も、言わなかった。輪をなした月の民は、待った。待つ、ということを、彼らは、昨日、覚えたばかりだった。一つ、数えるほど。十、数えるほど。百…


 そして、誰かが、囁いたのだ。輪の、どこかで。誰の声とも、つかぬ、小さな、小さな声で。


「…**いいえ、なんだ**」


 さざなみが、走った。声には、ならなかった。ただ、幾百の淡い色の目が、一斉に、同じことを、識った。答えないという答えを。幾星霜、庭の枕の下に、敷かれていた、大きな傘が…幾万の親子の頭上に、吊るされていた、大きな刃が…**初めから、無かった**のだということを。


 水の刃は、折れた。振るわれる前に。…いや、と、キサーラは、思った。折れたのではない。**初めから、鞘しか、なかった**のだ。幾星霜、誰も、抜いて、検めなかっただけで。


 その時だった。


 光が…**平らに、なった**。


 一拍。ただの、一拍だった。乳色の、あの、絹のような、揺らぎが、ふっ、と、失せ、庭を、満たす光が、ただの、白い、平らな、明るさに、なった。そして、声がした。子守唄の衣を、着ていない声。蜂蜜の剥がれた声。古くて、疲れて、途方に暮れた…**素の声**が。


「…**脅しの一つも、持たずに**」


 と、それは、言った。


「…どうやって、こんなに、大勢の子を、守れと、言うの」


 庭が、凍った。


 怒りでは、なかった。それが、いちばん、恐ろしかった。それは、言い訳ですら、なかった。幾星霜、たった独りで、死んだ野の上の閉じた庭を、抱え続けてきた者の剥き出しの、勘定だった。手札は、匂わせの傘、一本きり。それで、庭を、守り、地を、統べ、減ってゆく子らを、数え…………………………キサーラは、その、平らな光の一拍の内に、看た。看る目が、初めて、月の欠けの縁に、指の先だけ、触れたのだ。


 (…憎しみでは、ない)


 そこに、あったのは、底の知れない、古い、古い、**握り締め**だった。開き方を、忘れた手。守るために、握り、握ったがゆえに、庭は、閉じ、閉じたがゆえに、子らは、育たず、減り…それでも、なお、握りを、緩められない。…**手の離し方を、識らない**。それだけの。それだけで、幾星霜ぶんの、欠けだった。


 一拍は、過ぎた。


 光は、揺らぎを、取り戻し、乳色が、絹が、蜂蜜が、瞬く間に、庭を、包み直した。


「…あら。ごめんなさいね」と、母は、言った。いつもの声で。何事も、なかったかのように。「母は、少し、疲れているみたい。…ほら、みなさん、もう、お戻りなさい。難しいことは、母が…」


 だが、その、いつもの一句は、いつものようには、着地しなかった。**母が、ちゃんと、考えておきますから**…幾星霜、庭を、寝かしつけてきた、その言葉は、素の声の一拍を、聞いてしまった幾百の耳の上を、滑って、どこにも、届かずに、消えた。月の民は、散った。散りながら、誰も、うつむいて、いなかった。


 帰り道、ミラが、ぽつりと、言った。


「…あのさ。怒っていいのか、わかんないんだけど。あたし、いま、ちょっとだけ」


 彼女は、言いにくそうに、足元の白い石畳を、蹴った。


「…**かわいそうだった**。あの人。…一拍だけ、だけど」


「…それで、いいのだと、思います」と、キサーラは、言った。「怒りだけで、渡れる橋なら、とうに、誰かが、渡っています。…あの一拍は、たぶん、この庭で、幾星霜ぶりに、母上が、誰かと**向き合った**、一拍でした。抱くのでも、包むのでもなく。…あの一拍の続きを、しに行きます。私が。…その前に、一つ、開けてもらう蔵が、ありますけれど」


 懐の銅縁の札が、こと、と、小さく、鳴った。


 その日、夜は、なかなか、来なかった。


 蜂蜜色のまま、庭は、いつまでも、暮れなずみ、月の民が、戸口に、出て、空の内側を、訝しげに、仰ぐ頃に、なって、ようやく、藍が、下りてきた。…灯を、細める、あの、途方もなく大きな、優しい手が、その日、初めて、**手順を、忘れた**のだった。あるいは…震えていたのかもしれなかった。


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