第十四章 月の庭 四節
四節
白い樹の下に、月の民は、集められた。
柔らかい草の上に、思い思いに、坐って。急かされも、並ばされも、せず、それでいて、一人、残らず。…集められた、という言葉すら、この庭では、角が、立ちすぎるのかもしれなかった。皆、誘われて、来たのだ。断る、という考えが、初めから、育たない誘われ方で。
乳色の光が、いつもより、僅かに、華やいで、樹の枝々から、零れていた。宴の灯りの、加減だった。
「…さあ、みなさん」
と、母は、言った。庭じゅうを、包む、あの声で。
「今日は、地の子たちが、ながい、ながい旅の、お話を、してくれますよ。遠くから、来てくれたのだから、みんな、静かに、聞いてあげましょうね。…こわい所は、ほどほどに、って、お願いしてありますから、安心なさい」
さざなみのような、柔らかい笑いが、月の民の間を、渡った。壇は、樹の根元に、設えられていた。低い、白い、なだらかな壇。お話の壇だ。糾しの壇にも、証しの壇にも、見えぬように、丸く、優しく、拵えられた壇。…その袂に、荷が、積まれていた。革の帳簿が、幾十冊。青い髪の男の綴りの束が、その上に。
キサーラは、壇には、上がらなかった。ミラと、並んで、月の民の輪の、いちばん端に、坐った。今日の卓の品は、彼女では、ない。彼女の言葉は、地の言葉…敵の言葉として、量られて、終わる。今日、並べられるのは、月自身の手が、書いた帳だった。
後方の緑の際に、銀色の列が、あった。狩人らだ。俯きも、せず、視もせず、ただ、彫像のように、立っていた。列席を、命じられたのか、来ずには、いられなかったのか…それは、判らなかった。
そして、輪の前のほうに、あの子が、いた。玉を、膝に、抱えて、目を、きらきらさせて。お話、というものを、この子は、どれほど、聞いたことが、あるのだろう。…ミラが、キサーラの袖を、ちょい、と、引いた。目配せ一つ。それから、彼女は、立って、輪の前へ、歩いていき、子どもの前に、しゃがんだ。
「ねえ。お話、はじまると、長いよ。…おいで。あっちで、玉、しよ。**お話は、大人が、聞いとくから**」
子は、母の光を、ちら、と、見上げた。光は、何も、言わなかった。言えなかったのだ。子を、遠ざけたいのは、光のほうでも、あったのだから。…子は、頷いて、ミラの手を、取った。二人は、広場の隅へ、離れていった。…こわい話は、ほどほどに、という布の、いちばん確かな、掛け手は、こうして、先に、外された。市の娘の手仕事で。
壇に、アズライールが、上がった。
青い髪が、乳色の光の下で、深い、深い、海の色をしていた。月の民が、微かに、ざわめいた。識っている者が、いるのだ。月神殿の最も、忠実な刃。破門の報せも、届いているはずだった。…彼は、輪を、ゆっくりと、見渡し、懐から、一枚の白い書き付けを、出した。そして、読み上げの、第一声は、彼自身の名だった。
「…月神殿、最上位審問官、アズライール。月は、汝を、看て、悼みました。…**名を、月の帳より、削ります**」
彼は、破門状を、畳み、壇の縁に、置いた。
「これが、私の持っている、最後の月の言葉だ。読み上げた。…ゆえに、これより、語る私には、月神殿の位も、地の官も、ない。月のために、装う理由も、地のために、装う理由も、ない。残っているのは…**検めた事実だけ**だ」
間を、置いて、彼は、言い添えた。
「案じるな。物語は、しない。帳面を、読む。…数字に、こわい顔は、ない。こわさが、あるとすれば、それは、後から、来る。**聞いた者の内側から**」
そして、読み上げは、始まった。
「…九年前、雪解けの月。北の山裾、楢の井戸の邑。戸数、四十と一」
壇の袂で、メルカルトが、帳簿の一冊を、開いた。触れ役の、よく通る、滑らかな声が、青の声に、並んだ。
「同じ頁、西の館の差配の帳。…御巡遊、一夜。遊ばれた君の名は、控えに。**獲物、二十と三名**。触れの、仕立て、承り。…元の文、無し。起きたことに、文は、なかったゆえ。仕立てた文、**魔獣の害、二十と三名。哀悼**」
「同じ邑。三日後」と、アズライールが、続けた。「浄め、月神殿。執り手、審問官アズライール。…疑わしき骸の検分、行わず。**触れの上から、祈った**。…以上が、一件」
静かだった。
月の民は、まだ、お話を、聞く顔をしていた。遠い、昔の遠い土地の数の話。こわい所は、まだ、来ない…そう思っている顔だった。読み上げは、続いた。
「八年前、実りの月。東の街道筋、二つ石の宿場。…獲物、九名。うち、童、二名」「仕立てた文、流行り病」「浄め、執り手、同じく」
「七年前…」「六年前…」
数字は、こわい顔を、しなかった。ただ、積もった。年紀が、一つ、めくられるたびに。邑の名が、一つ、読まれるたびに。仕立てた文、崖崩れ。仕立てた文、野盗。仕立てた文、神罰。…触れの、元の文、無し。無し。無し。二つの声は、淡々と、交互に、縫い目の表と裏とを、開き続けた。針を、持った手と、その上を、祈った手とが、並んで。
光が、揺れた。
「…ねえ」と、母の声が、優しく、割って、入った。「むかしの、遠い、お話ですねえ。…みなさん、少し、疲れたでしょう。甘いものでも…」
「…母上」
触れ役が、帳簿から、目も、上げずに、言った。
「触れの、途中に、ございます。**触れの灯は、打ち終えるまで、落とさぬ**が、庭の古い定め。…定めて、くだされたのは、母上ご自身と、帳に、ございますが」
光は、止まった。律儀、という、彼女自身の美徳の上に、針は、置かれていた。定めを、破って、遮れば、それは、この庭で、初めての、**力ずく**になる。母は、力ずくを、しない。…光は、柔らかいまま、退いた。「…そう。そうね。おつづけなさい」
読み上げは、治せる病の帳に、移った。
「…地には、治せる病で、死ぬ者が、いる」と、アズライールは、言った。「精靈の癒しの、届く病だ。この庭なら、朝に、治って、昼には、走り回る病だ。…その癒しは、地では、月神殿の蔵に、ある。開けるには、位が、要る。位には、貢ぎが、要る。…昨年、一年。南の帝国の帳に、載っただけで。**治せる病で、死んだ者、千と、二百と、十四名。うち、童、三百と、九名**」
初めて、月の民の誰かが、小さく、息を、呑んだ。
数字が、こわい顔を、し始めたのでは、ない。聞く耳が、変わり始めたのだ。この庭なら、朝に治る…その、一句が、遠い話を、掌の上に、置いたのだった。彼らは、癒しを、識っている。水のように、あるものとして。それが、蔵に、鍵を、掛けられている、という様を、彼らは、生まれて、初めて、思い描いた。
そして…それは、来た。
メルカルトが、差配の帳の新しい頁を、開き、いつもの、滑らかな声で、読んだ、その時だった。
「…五年前、風の月。南の垣の外。…御巡遊、二夜。遊ばれた君の名、**ソアレの君**。獲物…」
「…お待ちに、なって」
声は、輪の中ほどから、立った。
細い、月の民の女の人だった。果樹の手入れをしている人だと、キサーラは、覚えていた。昨日、道で、柔らかい、雨のような目で、莞ってくれた人。その人が、立ち上がって、白い頬のまま、壇を、視ていた。
「…その帳の、その名は。…ソアレは、**わたくしの、弟**ですけれど。…何かの、数え違いでは、ありませんか。あの子は、地へは、**視察**に。地の実りの、検分に、行っていると。…そう、聞いて、おりますけれど」
庭が、静まり返った。
後方の銀の列の端で、一体の狩人が…微かに、揺れた。面の内で、息が、詰まる音を、キサーラの耳は、拾った。女の人は、振り返らなかった。振り返れなかったのかも、しれない。
メルカルトは、帳簿を、閉じなかった。彼は、女の人へ、深く、頭を、下げた。売り手の礼では、なかった。
「…お答えします。数えたのは、手前。数えは、合っております。幾度も、検めました。…間違うていたのは、数えでは、ございません。**数えられていたものの、値**です。手前どもは、幾星霜、それを、獲物、と、数えて参りました。…人で、あったのに」
女の人は、立ったまま、動かなかった。頬から、色が、引いてゆくのが、遠目にも、視えた。…そして、キサーラは、看た。看る目で、では、ない。それでも、はっきりと。あの、満ち足りた、雨のような目の、いちばん奥に…**欠けが、生まれる**のを。
それは、壊れるのとは、違った。むしろ、目覚めに、似ていた。問いの、形をした、小さな、空洞。今まで、疑いというものの、置き場所が、なかった場所に、初めて、疑いの、坐る席が、できたのだ。…彼女は、幾星霜、人の欠けに、指を、掛けて、開いてきた。欠けの、生まれる瞬間を、看たのは、生まれて、初めてだった。それは、傷が、つくのでは、なかった。**目が、開くのだった**。
女の人は、坐らなかった。立ったまま、小さな、掠れた声で、言った。
「…つづけて、くださいまし」
読み上げは、続いた。そして、最後の頁は、いちばん、新しい年紀だった。
「…今年、渇きの月」と、アズライールは、読んだ。「南の帝都。御巡遊に、非ず。**狩りの房**、常設。…検めの途上、房は、破られ、獲物は、解かれた。…観覧の君、地の民、三名を、その場にて、殺め…**南の律法に、拠り、裁かれた**。裁きの座、灰の広場。証しの帳、あり。執り手…」
彼は、そこで、初めて、帳面から、目を、上げた。
「…私だ。この剣で。…庭で、囁かれている話とは、違うだろう。彼は、獣に、襲われたのでは、ない。闇討ちに、遭ったのでも、ない。**裁かれたのだ**。罪が、検められ、証しが、読まれ、法が、量って。…あなたがたは、地を、獣の野だと、教わってきた。ならば、今日、一つだけ、持ち帰ってほしい。…**地には、法が、ある**。地には、帳が、ある。地には、あなたがたと、同じに、子の熱を、夜通し、量る親が、いる。…私の読み上げは、以上だ」
彼は、綴りを、閉じた。閉じる音が、静けさの中で、妙に、大きく、鳴った。
「…さ、みなさん」
と、母の声が、何事もなかったかのように、庭を、包んだ。底なしに、優しかった。優しさの、他には、もう、何も、使えるものが、ないかのように。
「ながい、お話でしたね。よく、聞きました、えらかったこと。…むずかしい話は、母が、ちゃんと、考えておきますからね。みなさんは、何も、心配しなくて、いいのよ。…さ、もう、**おやすみなさい**」
光が、暮れ始めた。いつもより、少し、早い、藍だった。
月の民は、立ち上がり、静かに、散っていった。いつもと、同じに。…いつもと、同じでは、なかった。あちこちで、二人、三人と、足が、止まり、頭が、寄り、囁きが、生まれては、光を、憚って、解けた。誘われたのでも、支度されたのでもない、初めての、囁きだった。
その夜。
作られた藍の闇の中で…**庭の灯りは、消えなかった**。
家々の窓の、あちこちに、小さな、白い灯が、点ったまま、夜半を、過ぎても、落ちなかった。眠れない、ということを、この庭は、幾星霜、識らずに、来たはずだった。…キサーラは、客の家の戸口に、立って、その、点々と、散らばる、不寝の灯りを、看ていた。
母の庭に、初めて、**寝つけぬ夜**が、来たのだった。
戸口の足元では、二つの椀が、月の作りものではない、本物の星明かりを、水面に、載せて、静かに、並んでいた。




