第十四章 月の庭 三節
三節
朝は、支度されて、来た。
藍が、蜂蜜色に、蜂蜜色が、乳色に。灯を、細めた時と、寸分、同じ、優しい手順の逆回しだった。ミラは、寝床の上に、身を、起こし、その、作られた夜明けを、暫く、視てから、言った。「…朝ってさ、**来る**ものだと、思ってた」。それだけ、言って、身支度を、始めた。
戸口の椀は、そのままに、あった。
ただ、椀の傍らの、白い石畳に、僅かな、露の跡のような、湿りが、残っていた。誰かが、夜のうちに、椀を、持ち上げ、検め、水を、こぼさぬよう、そっと、戻した…そういう跡だった。ミラは、それを、視て、何も、言わずに、水を、注ぎ足した。
迎えの、月の民が、三人を、案内したのは、客の庭の奥だった。
白い、瀟洒な、あずまや。その、真ん中に、卓が、一つ、据えられていた。上等の白い布が、掛けられ、椀と、杯と、湯気の立つ、香りのよい茶とが、人数分、整えられている。そして、卓の向こう側に…**男が、坐っていた**。
仕立ての良い、地味な衣。塵、一つ、ない、物腰。深すぎも、浅すぎもしない、礼の形。西の門の坂の上の館で、視たままの、醒めた、美しい佇まいで、彼は、立ち上がり、腰を折った。
「…**卓は、月で**、と、申し上げたはずですが」
と、メルカルトは、言った。「お運び、恐悦。…ようこそ、お客人がた。茶が、冷めます。どうぞ」
三人は、坐らなかった。まだ。ミラが、真っ先に、口を、開いた。市で、あの男の織物を、視てきた娘は、遠回りを、しなかった。
「あんた、どっちの側なの」
「これは、手厳しい」商人は、抿った。目は、笑っていなかった。昔と、同じに。「…お答えする前に、一つ、ご覧に、入れましょう」
彼は、卓の脇の床に、置かれた、荷を、指した。旅の荷ではなかった。**帳簿だった**。革の綴りが、幾十冊。荷紐で、几帳面に、括られ、綴りの背には、一冊ずつ、年紀が、入っている。幾星霜ぶんの、年紀が。
「西の館の帳簿。すべてです」と、メルカルトは、言った。「狩りの、差配の帳。獲物に、選ばれた邑の名の帳。仕立て直した、触れの、元の文と、直した文と、並べた帳。…つまり、お客人。**私の、罪科の、目録**ですな。一冊、残らず、担いで、昇りました」
「…なぜ」
と、アズライールが、言った。低い、抑えた声だった。彼は、綴りの山を、視ていた。ルビーの双眸が、綴りの、年紀の一つに、留まっていた。九年前の年紀に。
「…北の山裾の邑。九年前。魔獣の害、二十と三名。…あの触れを、仕立てたのは、貴公か」
「左様」
商人は、隠さなかった。身構えも、しなかった。
「御巡遊の三日後に、触れを、立てました。手前どもの、いつもの、針で。…その後、邑を、浄められたのは、審問官殿。貴殿の手が、二度目の縫い目になった。…手前は、それも、識って、黙っておりました」
空気が、張り詰めた。ミラが、息を、呑んだ。キサーラは、動かなかった。動かずに、看ていた。青の拳を。あの、灰の広場で、殴られるままに、受けた男の拳を。…アズライールは、長い、長い間、綴りの山を、視ていた。そして、拳は、振るわれなかった。代わりに、彼は、言った。
「…ならば、貴公も、卓に、着け。**読み上げの卓に**。私の綴りと、貴公の帳簿とは、同じ縫い目の表と裏だ。表だけ、読み上げても、月の民には、届かぬ。…針を、持った手が、隣で、針の帳を、開いて、初めて…縫い目は、縫い目と、見えるのだ」
メルカルトは、僅かに、目を、細めた。値踏みの目だった。それから、初めて、目もとまで、莞った。
「…ふむ。西で、お会いした頃の貴殿なら、まず、手前を、焼いておられた。…良い、お顔に、なられましたな、審問官殿。破門は、時に、人相を、良くする」
「戯れを、言うな」
「戯れでは、ありませんよ。商いの、目利きです」商人は、卓の椅子を、引いた。「…さ、お坐りなさい、皆さま。手前が、どちらの側か、で、ございましたな。お答えします。…**手前は、値の側です**」
三人は、卓に、着いた。茶は、まだ、温かかった。
「手前は、幾星霜、嘘を、売って参りました」と、メルカルトは、語り始めた。売り口上の滑らかさで。されど、売り口上には、決して、乗らぬものを、乗せて。「良い、嘘でした。よく、売れた。人を、守りも、しました。真実を、識れば、壊れる者を、幾万、縫い隠して、生かした。…手前は、それを、慈悲と、値付けて、おりました。長いこと。…ところが、です」
彼の目が、キサーラへ、向いた。
「西の館で、お客人が、妙な、値を、付けて、いかれた。…嘘の織り手ではなく、**いちばん永く、独りで、まことを、抱えてきた者**、と。あの値が、ですな。困ったことに、下がらんのですよ。幾月、経っても。帳簿の、どこに、繰り入れても、勘定が、合わん。…商人は、値の判らぬ品を、抱えたままでは、眠れぬ、生きものでして」
「…それで、月へ」と、キサーラは、言った。
「召しは、渡りに船、でした」商人は、頷いた。「手前の売ってきた嘘の元締めは、月。ならば、まことの値も、月の卓でしか、付かぬ道理。…手前は、逃げも、隠れも、せぬ代わりに、**卓を、選ぶ**、と決めております。生涯、そうして、参りました。…それに」
彼は、茶を、一口、含んだ。
「触れ役、という、手前の古い勤めが、一つ、残っておりましてな。…月の触れ役。庭への、報せの、差配。母上は、律儀なお方ゆえ、召した者の勤めを、取り上げずに、おられる。**つまり、この庭の触れの針は、いまも、手前の手の内**、ということです」
ミラが、目を、瞠った。「…それって」
「左様。**壇は、こちらに、ある**」と、嘘の織り手は、言った。「幾星霜、嘘を、打ってきた壇が。…一度くらい、逆しまに、打っても、罰は、当たりますまい」
だが、その前に…と、商人は、指を、一本、立てた。売り物の疵を、先に、言う時の指だった。
「一つ、ご忠告を。値引きなしの、まことの忠告です。…お客人がた、母上と、**戦う**おつもりなら、およしなさい。あの方は、戦いません。南の王は、量る。量る者とは、勘定で、卓に、着ける。だが、母は、量らぬ。**母は、待つ**。あなたがたが、疲れるのを。諦めるのを。庭の心地よさに、慣れるのを。…怒らせることすら、できませんよ。怒りは、向き合う者の、伎倆…」
彼は、そこで、言い直した。何かの、癖のように。
「…向き合う者の、**手管**。母は、向き合わぬ。抱くだけです。抱かれて、窒息した者は、幾星霜、この庭に、一人も、おりません。**ただ、抱かれたまま、灯りの数より、少なく、なってゆくだけで**」
あずまやが、静まった。灯りの数より、人の数が、少ない…昨日、庭で、看たものの、意味が、商人の乾いた声で、輪郭を、得た。
「…では、どう、卓に、着くのです」と、キサーラは、訊いた。
「**読ませるのです**」と、メルカルトは、言った。「説かず、論ぜず、勝とうと、なさらず。ただ、帳を、開いて、置く。読むか、読まぬかは、月の民が、決める。…嘘を、幾星霜、売った男の見立てを、申し上げましょう。嘘がいちばん、よく、売れるのは、ですな…**買い手が、他の品を、見たことのない市**、なのですよ。この庭は、その市です。品が、一つしか、ないから、値も、疑いも、育たぬ。…ならば、こちらの、仕事は、一つ。**品を、並べる**。それだけです」
…母への、伺候は、昼に、叶った。
白い樹の下で、光は、変わらず、柔らかく、三人と、一人の商人とを、包んだ。口上は、触れ役が、述べた。それは、見事な、売り込みだった。曰く…地の客人がたは、遠い旅の報せと、帳とを、携えて、参られた。庭の皆も、南の水の顛末やら、狩りの、お帰りやらで、聞きたいことが、積もっておる様子。ならば、いっそ、**庭を、挙げて、聞く場**を、設けては、いかがか。隠すより、先に、開くが、触れの、上策。何より、母上の寛さを、庭じゅうに、看せる、またとない、機会…。
「まあ」と、母は、言った。「…**いい、考えね**」
その、返答の速さに、キサーラの、うなじが、冷えた。渋られると、思っていたのだ。だが、母は、渋らなかった。渋る理由が、ないのだった。
「みんなで、聞きましょう。地の子たちの、旅の、お話。…ながい、ながい旅を、してきた子たちの、お話ほど、ためになるものは、ありませんからね。庭の子たちにも、良い、学びに、なるでしょう。…ええ、白い樹の下に、みんな、集めて。**お話の会**に、しましょうね」
お話の会。
その、四文字で、明日の卓の布は、掛け替えられた。訴えは、旅のお話に。証言は、昔語りに。帳簿は、絵物語に。…聞かれることは、拒まれなかった。**聞かれ方**を、先に、包まれたのだ。柔らかい、可愛らしい、紙で。キサーラは、隣の商人を、視た。商人は、莞ったまま、母の言葉を、受けていた。
「結構で、ございますな。お話の会。…して、母上。話の、こわい所は、いかが、いたしましょう。旅の話には、つきものですが」
「あらあら」と、母は、笑った。「こわい話は、ほどほどにね。…小さい子も、聞くのだから」
「心得ました。…もっとも」
触れ役は、礼の形のまま、静かに、針を、置いた。
「話の、こわさは、語り手には、決められませぬ。**聞く耳が、決めますれば**」
光は、それに、答えなかった。答えぬまま、ただ、柔らかく、一同を、撫でて、伺候は、終わった。
帰り道、あずまやの、卓で、メルカルトは、初めて、疲れたように、椅子の背に、身を、預けた。
「…お聞きに、なりましたな。あの、包み方を」と、彼は、言った。「布の掛け合いでは、手前は、あの方に、勝てませぬ。幾星霜、修行が、違う。…ですが、お客人。布は、所詮、布です。**中身が、布より、重ければ、布は、破れる**。…明日の卓に、載せる品は、貴殿がたの、幾星霜。手前の帳簿。審問官殿の綴り。…目方は、足りておりますかな」
「足ります」と、キサーラは、言った。迷いは、なかった。「…載せ切れなかったことの、ほうが、心配なくらいに」
その夜、戸口の椀の傍らに…**もう一つ、椀が、増えていた**。
白い、上等の月の器だった。誰が、置いたのかは、判らない。水は、なみなみと、注がれ、素焼きの椀の隣に、少し、遠慮がちに、寄り添っていた。ミラは、それを、長いこと、視て、それから、そっと、二つの椀の間を、詰めた。
「…ね。**品を、並べる**、ってさ」
と、彼女は、言った。
「もう、始まってるのかもね」




