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第十四章 月の庭 二節

挿絵(By みてみん)


二節


 渡りは、静かな、黒い海だった。


 銀の座は、音もなく、送りの間を、離れ、瞬かぬ星々の只中を、滑っていった。振り返れば、世界が…青と、白と、緑の丸いものが…ゆっくりと、遠ざかってゆく。西の海の青が、縁で、光っていた。塩ノ原の白い傷が、その、真ん中に、視えた。ミラは、長いこと、振り返ったまま、動かなかった。それから、前を、向いた。一度だけ、きっぱりと。市の娘の荷を、担ぎ直す時の顔だった。


 月は、近づくほどに…**死んでいった**。


 地の上から、仰いだ月は、白く、滑らかで、慈母の貌をしていた。近づけば、それは、灰色の乾いた、傷だらけの野だった。窪みが、無数に、口を、開けている。水の流れた跡は、一筋もない。塩ノ原よりも、なお、深く、乾いた地。…ここには、初めから、何も、なかったのだ。癒す水も、耕す土も。ここへ、逃れた者らは、死んだ野の上に、生きるための、すべてを、おのれの手で、(こしら)えねば、ならなかった。


 そして、それは、あった。


 灰色の死んだ野の真ん中に…**緑の一粒**が。


 近づくにつれ、一粒は、広がり、丘となり、森となり、白い家々の連なりとなった。そして、キサーラは、視た。その、緑のすべてが、大きな、澄んだ、伏せた椀のようなものの、**内側**に、あることを。月の空には、内側が、あったのだ。空を、閉じて、初めて、この庭は、在ることができる。…箱庭を、統べる者らは、おのれも、箱庭に、住んでいた。死んだ野の上の、たった一つの、閉じた庭に。


 座は、光の中へ、滑り込み…三人は、月の庭に、降り立った。


 まず、水の音がした。


 豊かな、惜しげもない、水の音だった。白い石の間を、澄んだ流れが、幾筋も、走り、泉が、湧き、しぶきが、柔らかい光を、砕いていた。量りの升は、どこにも、なかった。汲む者も、いなかった。水は、ただ、美しく、流れるために、流れていた。…ミラの喉が、こく、と、鳴った。彼女は、何も、言わなかった。言わない、ということが、彼女の精一杯だった。


 光は、柔らかかった。灼ける日差しも、凍える夜風もない、絹のような、乳色の光。果樹は、実りの重さに、枝を、しならせ、落ちた実は、地に、届く前に、どこかへ、静かに、片付けられていった。塵、一つ、なかった。枯れ葉、一枚、なかった。…手入れ、という言葉では、足りなかった。この庭は、**看取られて**いた。隅から隅まで。絶え間なく。


 月の民が、道々に、立って、三人を、視ていた。


 美しい、静かな、人々だった。細く、色の淡い、齢の量りにくい人々。恐れの色は、なく、警めの色もなく、ただ、柔らかい、雨のような、好奇の目だけが、あった。地の者を、視るのは、生まれて、初めての者が、ほとんどの、はずだった。なのに、誰も、騒がなかった。囁き交わす声さえ、揃って、穏やかだった。…そして、キサーラは、気づいた。民の数が、少ない。道は、広く、家々は、美しく、灯りは、隅々まで、点っているのに…**灯りの数より、人の数のほうが、少ない**のだ。


 庭の奥の緑の陰で、銀色のものが、幾つか、動いた。


 狩人らだった。地から、潰走した、あの、煌びやかな者ら。装いは、褪せてはいないのに、遠目にも、判るほど、精彩が、なかった。彼らは、三人に、気づき…**目を、逸らした**。一体、また一体と、緑の奥へ、静かに、退いていった。十指で、同胞を、ほどいた者の黄金を、視ていられないのだ。ミラが、小さく、息を、吐いた。


 道の途中、子どもが、一人、いた。


 たった、一人だった。白い、丸い、広場のような場所で、その子は、玉を、転がして、遊んでいた。玉は、転がりすぎる前に、ひとりでに、緩やかに、止まり、子の手に、戻ってゆく。転びかけると、地面が、僅かに、柔らかくなる。…ミラが、足を、止めた。その子と、目が、合ったのだ。子は、ミラの髪の…あの、赤い組み紐の名残の色を、じっ、と、視た。生まれて初めて、視る色の視方だった。ミラが、(わら)って、手を、振りかけた、その時。


「…さあ、お戻りなさい」


 と、光が、優しく、鳴った。子は、素直に、頷き、玉を、抱えて、白い家並みの奥へ、駆けていった。転ばなかった。転べる場所が、この庭には、なかった。


「…子ども、あの子、だけ?」と、ミラが、案内の月の民に、訊いた。


「ええ」と、その人は、誇らしげに、莞った。「宝ものです。庭じゅうの。…母上が、それは、大切に、看ておられます」


 庭の中心に、それは、あった。


 殿でも、宮でも、なかった。大きな、大きな、一本の白い樹だった。枝は、庭の空の内側いっぱいに、広がり、乳色の光は、その枝々から、零れているのだった。庭のすべての流れは、この樹の根元から、湧き出し、庭のすべての道は、この樹の下に、集まっていた。…玉座は、なかった。像も、なかった。マルドゥクは、話しかけられるための貌を、(こしら)えていた。ここには、それすら、ない。


「母に、貌は、要りませんからね」


 と、声は、言った。樹から。水から。光から。三人を、包む、すべてから。


「貌は、向き合うための、もの。…母は、向き合いません。**抱く側**ですから」


 それは、恐ろしい言葉の、はずだった。なのに、声の、あまりの柔らかさに、恐ろしさは、輪郭を、結ばなかった。それこそが、いちばん、恐ろしいのだと、気づくまでに、僅かな、間が、要った。


「…よく、帰ってきましたね、迷子さん」


 と、月は、キサーラに、言った。


「…帰って、では、ありません」と、キサーラは、静かに、正した。「参りました。地から。届けるものと、話すこととが、あって」


「ええ、ええ。識っていますよ、ぜんぶ」声は、あやすように、続けた。「南でのことも。水のことも。あなたの、旅の、ぜんぶ。…月は、看ていましたからね。まあ、それにしても」


 光が、僅かに、寄った。案じる母の身の乗り出し方で。


「その、指。…痛かったでしょう。裂いたのですってね、ご自分で。莫迦なことを。腕の糸も、二筋、まだ、戻っていない。…お直し、なさいな。母の庭では、治せない傷は、ないのですよ。ほら、すぐに…」


「…いいえ」


 キサーラは、十指を、軽く、握った。裂けて、繕われた、傷跡ごと。


「これは、済んでいない勘定の跡ですから。…**負い続けるものは、負ったままに、しておきます**」


「まあ」と、声は、言った。咎めも、苛立ちも、なかった。ただ、聞き分けのない子を、看る、寛い、寛い、間だけが、あった。「…いいのよ。気の済むまで、そうして、おいでなさい。子どもには、そういう時期が、あるものです」


 それから、光は、アズライールへ、向いた。青は、身構えた。破門された審問官として、詰られるか、量られるか…だが、来たのは、そのどちらでもなかった。


「アズライール。…**おかえりなさい**」


 と、月は、言った。心底、労わる声で。


「地の帳が、あなたに、何を、書いたかは、識っています。破門ですって。まあ。…いいのですよ、そんなもの。あれは、地の神殿の紙のこと。母の帳には、あなたの名前、ちゃんと、ありますからね。生まれた日から、ずっと。…疲れたでしょう。ながいこと、独りで、正しくあろうと、して。もう、いいのよ。ここでは、正しくあろうと、しなくて、いいの。**母が、正しくいてあげますから**」


 アズライールの握った拳が、震えていた。怒りの震えでは、なかった。それが、キサーラには、視えた。彼の幾星霜が、飢え続けてきた言葉を、寸分、違わぬ形で、この声は、差し出したのだ。おかえりなさい。もう、いいのよ。…彼は、長い、長い息を、吐き、そして、言った。掠れて、それでも、折れない声で。


「…私は、読み上げに、来た。(ねぎら)わられに、では、ない」


「ええ、ええ。聞きますとも」と、母は、莞った。「読み上げでも、勘定でも、検めでも。ぜんぶ、ちゃんと、聞いてあげます。…**明日ね**」


「明日…」


「今日は、もう、おやすみなさい」


 声と、共に、庭の光が、静かに、暮れ始めた。乳色が、蜂蜜色に、蜂蜜色が、藍に。誰かが、途方もなく大きな、優しい手で、灯を、細めてゆくのだった。夜が、来るのではない。**夜に、してもらえる**のだ。「ながい旅で、疲れているのに、難しい話をしては、いけません。眠って、食べて、それから。…お部屋は、支度してあります。ああ、それから、もうお一人、地からの、お客さまが、いらしていますよ。商いの、お上手な。…皆さん、仲良く、なさいね」


 客の家は、白く、清潔で、寝床は、雲のように、柔らかかった。


 卓には、湯気の立つ食事と、水差しが、置かれていた。水差しは、大きく、澄み、汲めども、尽きる気配がなかった。ミラは、それを、長いこと、視ていた。それから、おのれの荷を、解き、旅の椀を…あの、都で使った、素焼きの椀を…取り出して、水を、なみなみと、注ぎ、**戸口の外に、置いた**。


「…癖でさ」と、彼女は、誰にともなく、言った。「意味、ないんだけどね。ここ、誰も、渇いてないし」


 キサーラは、戸口の、その椀を、看た。乳色の名残の光が、水面に、揺れていた。渇く者のいない庭に、置かれた、渇く者のための水。…そして、彼女は、気づいたのだ。この庭を、歩いた、半日の間、目は、豊かさばかりを、視ていた。看るべきは、逆さまだった。**無いもの**を、看るべきだったのだ。


 この庭には、椀が、ない。戸口の、どこにも。渇きが、ないからだ。


 渇きが、ないから、分け合いが、ない。列が、ないから、序が、ない。序が、ないから、譲りが、ない。転ぶ場所が、ないから、手を、引く者が、ない。…あの、白き王の量りにさえ、載らなかったもの。都を、生かした、あのもの。それが、この、満ち足りた庭には…**働く場所ごと、無い**のだ。


 マルドゥクの餞が、胸の内で、静かに、鳴った。月の量りにも、載っておらぬ。それを、担いで、ゆけ。


 (…担いで、参りました)


 と、キサーラは、思った。戸口の素焼きの椀を、看ながら。


 (一つ、確かめねば、ならないことが、あります。この庭の満ち足りは…**誰かが、渇きを、消してくれた**のか。それとも、**渇く自由ごと、消された**のか。…明日、と、あなたは、仰った。では、明日。母の庭の帳面を、拝見します)


 作られた夜の作られた静けさの中で、額の琥珀だけが、変わらずに、温かかった。瞬かぬ星々の、どこかで、耳を澄ます気配は、昨日より、また、少しだけ、近くに、あった。


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