第十四章 月の庭 一節
一節
扉の内には、座が、待っていた。
白い、椀のような、三人が、ゆったりと、身を、置ける座。誰が、拵えたのでも、運んだのでも、ない。幾星霜、そこで、待っていたのだ。キサーラが、ディンガの祈りの、次の一句を、誦えると、座は、目を、覚ますように、淡く、灯り、三人が、身を、収めるのを、待って…**昇り始めた**。
音は、なかった。風も、なかった。ただ、白い道の壁の灯りが、上から下へ、静かに、流れ始め、それだけが、昇っている、という証だった。
「…うわ」と、ミラが、座の縁を、両手で、掴んだ。「うわ、うわ。…ねえ、これ、あたしたち、いま、飛んでる?」
「昇っています」と、キサーラは、言った。「飛ぶのとは、少し、違います。…道が、運んでくれているのです」
「道が、運ぶ」ミラは、その言葉を、口の中で、転がした。「…市の荷揚げの、滑車みたいな?」
「はい。とても、とても、大きな」
「ふうん。…**滑車なら、怖くないや**」と、市の娘は、言い、本当に、怖がるのを、やめた。彼女の世界の言葉に、置き直せたものを、彼女は、恐れないのだった。キサーラは、その、置き直しの速さを、いつも、少し、尊敬していた。
道は、七日、昇り続けた。
道すがら、柱は、目を、覚ましていった。三人の通り過ぎる先々で、眠っていた灯りが、点り、閉ざされていた房が、息を、吹き返すように、扉を、緩めた。休みの間には、清い水が、湧き、乾いた実の蓄えが、封を、解かれて、待っていた。幾星霜前の蓄えである。なのに、損なわれていなかった。…饗されている、と、ミラは、言った。キサーラは、頷きながら、別のことを、思っていた。これは、もてなしでは、ない。**復命なのだ**。護られ続けた柱が、護った側の根を持つ足音に、やっと、勤めの続きを、始めたのだ。船はことごとく昇りきり、柱は守り抜かれ、誓いは破れなんだ…ディンガの、あの復命は、柱の側からも、真実だった。柱もまた、幾星霜、破らずに、いたのだった。
三日目に、道は、初めて、窓を、持った。
白い壁の一部が、音もなく、澄みわたり、そこから…**世界が、視えた**。
ミラが、窓に、駆け寄り、そして、声を、失った。キサーラも、その隣に、立ち、長いこと、動けなかった。アズライールだけが、少し、離れた所から、静かに、それを、視ていた。
塩ノ原が、視えた。
白い、巨大な、窪みだった。世界の真ん中に、横たわる、乾いた、白い傷。その、西の果てに、細い、暗い、一本の線…門が、あった。堰が。そして、その、向こう側に。
**海が、あった**。
青かった。話に、聞いていた。誦えで、識っていた。眠れる海。約定された水。…だが、識っていることと、視ることとは、別の帳面だった。それは、世界の半分を、占めていた。門の、あちら側で、青は、地の果てまで、続き、果てで、空と、溶け合っていた。あれだけの水が、あの、細い一本の線に、堰かれて、幾星霜、待っている。塩ノ原の白い渇きと、門一枚を、隔てて。
「…あれが」と、ミラが、囁いた。「あれが、ぜんぶ、**水**…」
彼女は、笑い出した。笑いながら、目尻を、拭った。
「あたし、椀の水で、育ったんだよ。一杯の水を、量って、量って。…なのに、あるんだ。あんなに。**あんなに、あるんだ**、爺さまの、約定の水って。…ずるいよ、こんなの。見ちゃったら、もう、戻れないよ」
キサーラは、答えられなかった。彼女は、地図を、看ていたのだ。
北の縁に、深い緑…ダヌの森。哭いていた母神の閉じた楽園。東に、連なる山影と、微かな、火の色…ガルドの山。鎚の音の帰った山。塩ノ原の南の縁の黄色い、広大な、うねり…ジャベの砂。地の底に、里と、掟とを、抱いた海。西の門の袂の小さな、煌めき…タゴの市。嘘の織物の、ほどけ始めた市。そして、足元の遥か下、柱の裾に、環をなす、都…椀の都。
(…箱庭)
と、遠い日に、誰かが、呼んだ。銀の観客の言葉だった。桟敷から、視れば、そうも、視えるだろう。ここから、視れば、世界は、掌に、載る。人は、砂粒より、小さく、その、砂粒の渇きも、涙も、この高さには、届かない。…月は、幾星霜、この高さから、視てきたのだ。彼女は、初めて、それを、身体で、識った。**高さとは、こういうものか**、と。ここに、坐り続ければ、看る目は、観る目に、戻ってゆく。人が、点になり、点が、数になり、数が、帳面になる。月の罪は、悪意では、ないのかもしれなかった。月の罪は――**高さ**なのだ。
袖が、引かれた。
「ねえ、あれ、見て」と、ミラが、指を、差していた。「あの、緑の森。あそこの、はちみつって、すごいんだよ。リナの里の婆ちゃんが、くれたの。…あと、あの山! ガルドの故郷。ヴァイノさんの、酒、強すぎたよね。ロウなんか、尻尾、丸めてさ」
彼女は、窓に、額を、つけんばかりにして、地図の上を、指で、辿っていった。地名では、なかった。**名前**だった。はちみつの婆ちゃん。酒のヴァイノ。掟の爺さま。椀の、おばあちゃん。…砂粒の一つ一つに、彼女は、名を、置いていった。高さが、消してゆくものを、彼女の指が、一つずつ、置き直していった。
キサーラは、その指を、看ていた。そして、思った。月に、足りなかったのは、これだ。桟敷では、ない。窓の大きさでも、ない。…**隣で、指を差す者**だ。
五日目、昼の空が、夜になった。
青かった空が、昇るにつれて、藍に、沈み、やがて、真昼だというのに、黒く、澄みきった。そして、星が、現れた。…ミラが、また、窓に、貼りついて、そして、今度は、笑わなかった。
「…ねえ。星がさ。**瞬くのを、やめてる**」
そのとおりだった。地の上から、仰いだ星は、震え、揺らぎ、瞬いていた。ここでは、星は、身じろぎもせず、ただ、静かに、灼けるように、在った。瞬きは、星のものでは、なかったのだ。地と、星との、間にある、何か…風と、雲と、人の営みの、揺らぎ…が、震えていたのだった。それを、抜けた。三人は、いま、世界の息の届かぬ高さに、いた。
その、瞬かぬ星々の静けさの中で、キサーラの額の琥珀は…**温かかった**。
昇るほどに、はっきりと。遠かった声が、近い。まだ、言葉には、ならない。けれど、耳を、澄ます気配が、すぐ、そこに、ある。彼女は、窓の外の、いちばん遠い、瞬かぬ光へ、囁いた。声には、出さずに。…昇っています。あなたの、発った道を、逆さまに。観ていて、ください。
六日目の休みの間で、アズライールが、初めて、長く、口を、開いた。
彼は、窓辺に、立ち、育ってゆく月を、視ていた。地の上で、視るより、遥かに、大きく、白く、近い月を。
「…私は、月を、仰いだことしか、ない」
と、彼は、言った。誰に、ともなく。
「幼い日から。神殿の床から。師の背中越しに。刑の壇の上から。…幾星霜、正しさの、在り処は、いつも、頭上に、あった。仰ぐ、という作法しか、私は、識らずに、来た。…それが、いま、日ごとに、近づいてくる。仰いでいたものと、**目の高さが、合ってゆく**」
「…怖い、ですか」と、キサーラは、訊いた。
「怖い」と、告死天使は、言った。隠さなかった。「目の高さが、合えば、視えてしまう。仰いでいた間は、視ずに、済んだものが。…だが、私の帳面は、もう、検めてしまった。**視ずに済ませた者の正しさの順が、どこへ、行き着くか**を。私が、その、行き着いた先だった」
彼は、懐の綴りを…根の里の灯りの端で、誰にも、命じられずに、書き続けた、あの報せの束を…静かに、押さえた。
「ゆえに、昇る。仰ぐためでは、なく。…**読み上げるために**」
七日目の朝…刻の感覚は、とうに、地に、置いてきたが、座の灯りは、律儀に、朝の色を、していた…道の途中で、一度だけ、座が、止まった。
白い壁に、太い、水の脈が、走っている、その、分かれ目だった。脈の一本は、上へ。一本は、下へ…地の南へと、降りてゆく枝だった。そして、その、降り口に。
**新しい、白い封が、貼られていた**。
小さかった。掌、二つ分ほどの、滑らかな、白い封。秤の印も、月の紋も、ない。ただ、封じてあるだけの、静かな、清潔な、白。…あの夜、都から、水の音を、奪ったものの、正体が、これだった。恫喝でも、雷でもない。誰かが、ここへ、来て、この、小さな封を、一つ、貼った。それだけの、ことだったのだ。
ミラが、座を、降りて、封の前に、立った。手を、伸ばしかけ、触れずに、下ろした。
「…こんな、**ちっちゃいんだ**」
と、彼女は、言った。声が、少し、震えていた。
「都じゅうが、あんなに、渇いたのに。列が、あんなに、長かったのに。…やったほうは、こんな、ちっちゃい、仕事なんだ」
誰も、それに、足す言葉を、持たなかった。キサーラは、ただ、封の白さを、目に、刻んだ。悪の貌を、また一つ、覚えたのだ。悪は、時に、剣の貌をしている。時に、嘘の貌を。そして、時に…**こんなにも、小さく、清潔な、手続きの貌をしている**。
座は、ふたたび、昇り、そして、昼を、過ぎた頃…道が、尽きた。
白い喉が、開けて、三人を、吐き出したのは、途方もない、広間だった。
天井は、遥かに、高く、床は、白く、静まり、壁という壁に、扉が、並んでいた。大きな、大きな扉が、幾十も。どの扉にも、上に、名が、刻まれている。船の名だった。そして、扉という扉の傍らの壁に、細かい、夥しい、名の列が…乗って、発っていった者たちの、名が…刻まれ、その、いちばん、しまいに、一行ずつ、同じ言葉が、添えられていた。
**――発つ。地を、頼む。**
送りの間、と、その広間の、まことの名を、キサーラは、識っていた。天への、港の、いちばん、上の間。幾百の船が、ここから、星の彼方へ、発っていった。彼女の半身の根も、この床の、どこかから。…彼女は、荷の中の写しの綴りに、手を、当てた。八百と十四の名。届け先は、ここの、はずだった。だが、広間には、誰も、いなかった。受け取る者は、皆、扉の向こうへ、発ってしまった。幾星霜前に。…務めは、受け取られて、初めて、終わる。ディンガの復命は、まだ、彼女の荷の中で、終われずに、いた。
「…いいえ」
と、彼女は、小さく、声に、出した。届け先は、ある。星の彼方に、まだ、一人。…きこえる、と、応えた者が。
その時だった。
広間の、いちばん、奥の壁が…船の扉では、ない、ただ一つの、銀色の小さな扉が…音もなく、開いた。扉の向こうは、白い光で、満ち、光の中に、渡りの座が、一つ、浮かんで、待っていた。銀の優美な、迎えの座が。…そして、声が、した。壇の声でも、肩の後ろの声でも、なかった。光そのものが、鳴るような、あの、優しい、優しい声だった。
「…**ようこそ**」
と、月は、言った。
「よく、昇って、きましたね。…ながい、ながい、旅を。さあ、いらっしゃい。**母の庭へ**」




