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第十三章 まことの前 九節

挿絵(By みてみん)


九節


 風が、帰ってきたのは、水の夜から、五日目の夕暮れだった。


 外れ町の辻の量りの卓の上で、帳の頁が、ひとりでに、めくれた。埃が、小さく、渦を、巻き、セレナの銀の髪が、ふわりと、浮いた。精靈(アーコン)読みの娘は、目を、閉じ、長いこと、風の言葉に、耳を、澄ませてから…皆に、告げた。


「…西の門は、静かです。市も、館も。…そして、館の主は」


 風は、川の関で、檻を、出た、あの精靈だった。西へ、警めを、運び、視てきたのだ。その、視てきたものを、セレナは、一語ずつ、置くように、訳した。


「…**メルカルト、召シニ応ジ、月ヘ昇レリ**。…独りで。抗いも、隠れも、せず。ただ、館の帳簿という帳簿を、荷に、括って、共に、昇った、と」


「…帳簿ごと、か」と、ドレクが、唸った。「観念して、しょっ引かれたのか。それとも」


「あの人が、手ぶらで、負け卓に、着くもんか」と、ミラが、言った。西の市で、あの男の嘘の織物を、見てきた娘の声だった。「帳簿ってのはさ、あの人の剣だよ」


 風には、一言だけ、言付けが、託されていた。誰に宛てるとも、言わずに、館の主は、昇りの座に、乗る間際、風へ、こう、囁いたのだという。


「…**卓は、月で**」


 それを、聞いた時、キサーラの額の琥珀が、微かに、疼いた。恐れの疼きでは、なかった。盤の駒が、また一つ、あるべき場所へ、動いた…そういう、静かな疼きだった。


 評定は、その夜、渠の口で、開かれた。


 議題は、初めから、一つだった。誰が、昇るか。


「月は、待っておる」と、ジャベが、口火を、切った。「答えを待て、と、あの白どもは、言うたがの。待たれておるのは、こちらも、同じよ。…水を断って、都が、崩れなんだ今、月の次の手は、量れぬ。量れぬ手を、待つより、こちらから、まことを、担いで、昇るが、上策じゃ。娘御も、あの夜、参ります、と、答えてしもうたしの」


「昇り方は、ある」と、キサーラは、頷いた。「柱の裾の七つの門。ディンガ翁が、遺してくださった、まことの開き方が。…あれは、祈りの道。大勢では、通れません。それに…**地には、地の備えが、要る**」


 盤は、二つに、分けられた。


 一つは、月へ。一つは、西へ。…月の盤が、どう転んでも、行き着く先は、あの、古い堰である。月が、勝てば、水の刃として。まことが、勝てば…智の魔王の警めのとおり、まことの鍵の在り処として。ゆえに、地の組は、一足先に、西へ、渡り、堰の袂を、検めて、待つ。ガルドの識る目。ロウの鼻。セレナの精靈読み。堰という、旧き世の途方もない普請を、量るに、これほどの、目と耳は、ない。


「で、昇るのは」と、ドレクが、指を、折った。


「私と…」


「あたし」と、ミラが、言った。誰よりも、先に。議論の始まる前に、終わらせる、置き方だった。「言っとくけど、これ、相談じゃないからね。あんた、月の上でさ、また、独りで、傾くんだ。絶対。…袖、握る係が、要るの」


 誰も、笑わなかった。あの、玉座の間の袖の重みを、皆が、聞き識っていたからだ。ジャベが、髭の奥で、ほ、と、息だけで、笑った。


「儂は、残る」と、翁は、言った。「南の律法が、生まれ直す。産屋には、産婆が、要るでな。…万年、原文を、守った民が、検めの側に、立つ。それが、あの白き王との、帳面の両側読みの、続きじゃよ。ナイラ殿と、サミア殿の新しい量りにも、掟の古い骨が、要ろうし」


 その時、灯の輪の外から、声がした。


「…**まことの法を、月に、届ける者が、要る**」


 アズライールだった。彼は、輪の中へ、進み出て、キサーラの前に、立った。ルビーの双眸は、静かだった。


「私は、月の法の、いちばん、忠実な刃だった。その私が、地の帳面を、検めて、識ったまことを、綴じてある。狩りの勘定。触れの、縫い目。治せる病の帳。…月の民は、それを、識らされていない。彼らも、また、読まれぬ帳の内に、いるのだ。…この報せは、地の者が、読み上げても、届かぬ。敵の言葉として、量られて、終わる。だが、**破門された審問官の言葉は、月には、量りようが、ない**。月のためを、装う要も、地のためを、装う要も、私には、もう、無い。…残っているのは、勘定だけだ」


 彼は、僅かに、頭を、垂れた。願う、という作法を、まだ、身体が、識らぬ者の精一杯の傾きだった。


「連れて、ゆけ。…私の幾星霜を、正しい帳面に、綴じ直すのは、月の前を、措いて、ない」


「…お願いします」と、キサーラは、言った。「あなたの、剣に、ではなく。あなたの、検めた事実に」


 昇る者、三人。西へ、渡る者、四人。残る者、南に。…盤は、定まった。散会の間際、ドレクが、キサーラを、呼び止めた。渡り手は、珍しく、言葉を、探して、暫く、口を、開けたり、閉じたりした。


「…妹の病な」と、彼は、やっと、言った。「月が、薬を、握ってる。治せるのに、治さねえ。…俺は、その薬を、取り返すために、渡り手に、なった。月まで、昇る算段なんざ、一生、立たねえと、思ってたが…あんたは、昇っちまう」


 彼は、懐から、小さな、白い札を、出した。塩を、固めて作った、渡り手の札。その縁に…銅の色。六年、這って、登った、彼の、たった一つの、誇りだった。


「**妹の分の帳、預けるぜ**。…薬の蔵の錠前をよ、あんたの、その指で、ほどいてきてくれ。リナの分だけじゃ、ねえ。…治るのに、治らねえで、待ってる奴、全部の分だ」


 キサーラは、札を、両手で、受け取った。復命の作法で。


「…帳に、載せました。**もう、載せ忘れません**」


 …宮への、最後の伺候は、翌る日の朝だった。


 白い扉は、今度は、問いも、待たせも、しなかった。玉座の間の白いうつろは、変わらず、滑らかで、坐した貌は、変わらず、うつくしく、空だった。ただ、一つ。貌の膝の上に、あの、畳み直された文が…**無かった**。


「…昇るそうだな」と、倦まぬ声は、言った。「良かろう。七つの門は、汝らを、量らぬよう、申し付けてある。祈りの道は、余の律法の芯。**その芯が、まことの祈りの手順を、幾星霜ぶりに、聞ける**のだ。門も、本望であろうよ」


「御礼を…」


「要らぬ。勘定の話を、しに、来たのであろう」声に、僅かな、興が、混じった。あの日と、同じ、皿を置き直す音だった。「読み上げる。…余の貸し。一つ、汝を、月へ渡さなんだこと。一つ、門の道。一つ、水の夜の宮の蔵。…余の借り。一つ、皿の載せ替え。一つ、最初の律法の返却。一つ…**椀**。余の量りの、載せ忘れておった、あの椀が、あの夜、余の都を、生かした。…差し引き、零。帳は、締まった」


「…零、ですか」


「零だ」と、声は、言った。そして、間が、あった。量る者の間では、なかった。「…**締まらぬものが、一つ、残った**」


 白い床の一部が、音もなく、開き、細い、白い台が、せり上がってきた。台の上に、文が、一通、載っていた。厚くは、ない。薄い、一枚きりの、固く、封じられた文。宛名は、無かった。宛名の代わりに、封の上に、小さな、秤の印が、一つ、押されているだけだった。


「…預ける」


 と、倦まぬ声は、言った。


「急ぎの報せは、塩の客が、持ってゆく。裁きの顛末も、水の夜のことも、あれの、視たままにな。…これは、急がぬ。**急がぬ文を、書いたのは、幾星霜ぶりだ**。量って、書ける文でも、なかった。…ゆえに、早い足には、乗せぬ。汝の足で、よい。…**塩の果てに、寄る日が、あれば**、で、よい」


 キサーラは、段を、上り、文を、両手で、受け取った。来た時と、逆の道行きだった。あの日、彼女が、置いた文は、読まれ、今日、彼女は、その、答えを、託される。…文は、薄いのに、両の掌に、確かな、目方があった。目方に、ならぬはずのものの、目方だった。


「…必ず」と、彼女は、言った。「私は、約定を、破らない者の側から、来ましたから」


「識っておる」と、声は、言った。「**汝の帳面は、読ませてもらった**。…ゆけ、星の子。月には、欠けが、無いと、量るなよ。余も、欠けておらぬと、量っておった。…余の量りに、載らなんだものが、余の都を、生かした。**月の量りにも、載っておらぬ**。…それを、担いで、ゆけ」


 塩の客は、都の南の門で、待っていた。


 塩の精靈の使者は、幾日も、微動だにせず、待ち続けた姿勢のまま、キサーラの前に、静かに、頭を、垂れた。裁きの後に、返事を、と、智の魔王は、言っていた。彼女は、夜のうちに、したためた、短い文を、使者に、渡した。長い報せは、要らなかった。塩の客が、すべてを、視ていた。ゆえに、彼女の文は、たった、一行だった。あの、筆跡の変わる、長い長い文の末尾の童の手の一行に…宛てた、一行だった。


 **…ちちうえは、ふりかえりました。**


 使者は、文を、押し戴き、塩の原の白へ、還っていった。急ぎの報せが、東へ。急がぬ文が、彼女の懐に。二つの文は、そうして、別々の速さで、同じ場所へ、向かい始めた。


 発ちは、翌る、夜明け前だった。


 西へ、渡る四人とは、渠の口で、別れた。ガルドは、キサーラの繕った腕を、最後に、一度、検め、堰の袂で、な、とだけ、言った。セレナは、歌の短い一節を、餞に、置いた。ロウは、月の匂いってのを、覚えてきてくれ、と、鼻を、鳴らした。ドレクは、何も、言わず、拳を、突き出した。キサーラは、拳を、合わせた。銅縁の札が、懐で、こと、と、小さく、鳴った。


 ジャベとの、別れは、七つの門の前庭だった。


「翁。…あなたの、掟に、命を、救われて、ここまで、来ました」


「儂の、ではないわ」と、翁は、莞りとした。「あの、白き王の、じゃよ。…儂らは、預かっておっただけでの。万年の預かりものを、返す朝に、立ち会えたのじゃ。良い、勤めであった。…娘御。月は、遠いぞ。渇くぞ」


「渇いたら…」


「そうじゃ」翁の閉じた瞼が、朝の最初の光のほうへ、上がった。「**一行目じゃ**」


 七つの門の第一の門は、朝焼けの中に、そびえていた。


 三人は、その前に、立った。キサーラの荷の中には、銅縁の札と、急がぬ文と…そして、写しの綴りが、一冊。八百と十四の名。柱を、護り抜いた、鱗の民の名。船はことごとく昇りきり、柱は守り抜かれ、誓いは破れなんだ、という、幾星霜、届け先の、なかった復命。…務めは、受け取られて、初めて、終わるのじゃ、と、あの、長老は、言った。届け先は、頭上に、ある。


 キサーラは、息を、整え、ディンガの遺した、まことの祈りを、第一の門へ、(とな)え始めた。司祭たちが、意味も識らず、なぞってきた言葉の、まことの姿を。一語も、違えずに。


 門が…**応えた**。


 七つの印が、順に、灯り、幾星霜、閉ざされていた扉が、内側から、静かに、開いてゆく。扉の奥は、白い、深い、上りの道だった。天への、港であった頃の柱の、まことの貌だった。


 ミラが、キサーラの袖を、握った。アズライールが、破門状を、懐に、確かめた。三人分の足音が、白い道に、最初の一歩を、置き…


 扉は、彼らの背で、音もなく、閉じた。


 地の上では、朝の都が、椀に、水を、注ぎ始めていた。人の手の高さの、低い、確かな、水の音が、南の律法の生まれ直す都に、満ちていった。


 …月まで、あと、七日。


 欠けてゆく月が、次に、満ちる、その前に。まことは、昇ってゆく。



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