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第十三章 まことの前 八節

挿絵(By みてみん)


八節


 月の答えは、日の暮れと、共に、来た。


 剣では、なかった。触れでも、なかった。…それは、**音の絶え方**として、来た。


 都は、水の音で、できていた。一行が、初めて、この都に、入った日、門をくぐった耳を、まず、迎えたのは、あの音だった。樋を、渡る水。垣から垣へ、落ちる水。量りの升に、注がれ、升から、幾千の甕へ、分けられてゆく、絶え間ない、細かな、水の音。都の民は、生まれてから、死ぬまで、その音の中に、いる。空気と、同じに。誰も、聞いていない。聞いていないものは…**絶えた時に、初めて、聞こえる**。


 最初に、絶えたのは、第七の垣の上だった。


 柱の遥かな高みを、走っていた、約定の水が、止まったのだ。音は、上から、順に、死んでいった。垣を、一つ、降りるたびに。樋が、鳴り終わり、升が、鳴り終わり、日の落ちきる頃には、最後の一滴が、外れ町の、いちばん低い水盤に、落ちて…都は、生まれて初めての、静けさの中に、置き去られた。


 万の民は、家々から、出て、耳を、澄ませた。


 何も、聞こえなかった。それが、報せだった。月は、一語も、費やさなかった。…答えを、待ちなさい、と、あの声は、言った。これが、答えだった。


 悲鳴は、上がらなかった。悲鳴より、深いものが、都を、浸した。水の音の絶えた都で、人の立てる音だけが、妙に、大きく、響いた。戸の軋み。子の、ぐずる声。甕の蓋を、確かめる、幾千の小さな音。


 真夜中を、待たず、壇が、鳴った。


「…南の民よ。慌てるな。**勘定は、済んでおる**」


 倦まぬ声は、倦まぬままだった。昨日の朝と、同じ、帳面を読む声で、それは、続けた。


「上の水は、断たれた。月の答えである。余は、これを、量りに、入れてあった。…聞け。この都の水は、上からだけ、来るのではない。**地の底に、根の水がある**。旧き世より、糸の筋を、流れ続けた水が。幾星霜、余の帳の外に、置かれてきた水が。…今宵より、それを、帳に、載せる。奪うためでは、ない。**配るために、載せる**。…宮の蔵の水も、残らず、序に、載せる。余の水では、ない。初めから、そうであった。…水は、誰のものでもなく、渇く者のものである」


 そして、声は、名を、呼んだのだった。幾星霜、触れの中で、罪人の名しか、呼ばなかった壇が。


「…元、量り手、ナイラ。量り手で、あった者、サミア。…**汝らの帳面を、貸せ**。上の帳の書かなんだ側を、識る者の量りが、要る。今宵の量りは、渇かせるための量りに、あらず。**行き渡らせるための量りである**」


 根の戸は、その夜、幾星霜ぶりに、地の上へ、開いた。


 雫の民が、迷わなかったと、言えば、嘘になる。幾百年、地の上に、隠れ、量りに、追われ、骨を、皿の水に、映してきた民である。その水を、地の上の都へ…追った側の幾万の喉へ、開くのだ。評定は、短かった。皿の番の年嵩の女が、言ったのだ。うちの七人が、渇いてた時、上の子らが、椀を、置いたんだ、と。**帳尻なら、とうに、合ってるよ**、と。


 糸の筋から、汲まれた水が、渠の口という口から、地の上へ、上がり始めた。


 …その夜のことを、後の世の書き手は、**誰のものでもない水の夜**、と、呼ぶことになる。だが、その只中に、いた者らにとって、それは、名の付くようなものでは、なかった。それは、ただ、途方もない、手仕事だった。


 外れ町の、いちばん大きな辻に、量りの卓が、出された。


 ナイラとサミアが、帳面を、開いた。上の帳の書かなんだ側…どの路地に、幾人が、住み、幾人が、烙印で、水を、減らされ、どの家に、病人が、いて、どの井戸が、涸れて久しいか。二十年の、こめかみの中身と、三枚の写しの裔とが、初めて、隠れずに、卓の上で、働いた。サミアの焼かれた右手が、配りの帳の最初の頁に、日付を、入れた。書き出しの一行は、こうだった。**汲まれた水と、飲まれた水は、今宵、同じでなければならない**。


 そして、列の差配は…二人に、預けられた。


 ジャベが、卓の脇に、立ち、ミラが、列に、沿って、歩いた。誰が、決めたのでもなかった。翁が、杖を突いて、序を、宣し始め、市の娘が、籠を、提げて、顔を、読み始めた時、それが、いちばん、正しい形であることを、誰もが、黙って、認めたのだった。


「…序を、申し渡す」と、ジャベは、言った。しわがれた声は、辻の端まで、よく、通った。「一に、乳呑み子と、その母。二に、病みたる者。三に、老いたる者。…四に、その他の渇く者。椀は、一人、一椀。汲み手と、運び手は、務めの後に、飲む。…**渇きの序は、身分の序に、あらず**。垣の内も、外も、烙印も、無い。あるのは、渇きの、深さだけじゃ」


 列は、長かった。長い列は、生き物である。ほどけかけ、軋み、時に、牙を、剥く。それを、夜通し、二人の囁きが、縫い続けた。


「爺さま」と、ミラが、列の中程から、戻ってきて、耳打ちする。「三筋目の路地の奥。椀を、出してない家が、二軒。…たぶん、烙印の。列に、並ぶのが、怖いんだ。**昼間の顔を、覚えられてるから**」


「…序に、載らぬ渇きか」翁の二又の舌が、ちろりと、出た。「掟はな、並んだ者しか、量れぬ。…よし。運びの椀を、二つ、殖やせ。届ける先は、汝が、決めよ。**訊くな。届けて、置いて、戻れ**。名は、帳に、要らぬ」


「はいよ」


 半刻の後、今度は、翁が、娘を、呼び止めた。


「涙の娘。五番手の、あの爺…三度目じゃ。並び直して、孫の分と、抜かしおる。…序が、緩めば、列が、牙を剥く。締めねばならぬ。が」


「あのおじいちゃんちの孫、あたし、知ってる」と、ミラは、言った。「双子なの。それと、嫁さんが、身重。…つまりさ、あの家、**ほんとに、四人ぶん、要る**の。並び方が、下手なだけで」


「…ふむ。渇きは、まこと。並びが、偽り、か」ジャベは、髭の奥で、唸った。「ならば、こうじゃ。家の頭数で、椀を、量る帳を、一枚、立てる。ナイラ殿の、こめかみなら、路地ごとの、頭数は、諳んじておろう。…偽らずとも、足りる、と、判れば、人は、偽らぬ。**偽らせておるのは、渇きではのうて、足りぬという、思い込みじゃ**」


「それ、いいね。あたし、触れて回る。…怒鳴らないでよ、爺さま。あのおじいちゃん、悪気は、ないんだから」


「怒鳴らぬわ。…序を、言い渡すだけじゃ。**莞りながらな**」


 そんな、囁きが、夜通し、幾十も、交わされた。技が、情に、耳を貸し、情が、技に、形を、借りる。掟だけなら、怯えた家を、取りこぼした。情だけなら、水が、先に、尽きた。二人は、どちらでもなく、どちらでもあった。列は、夜が、更けるほどに、静かに、なっていった。


 キサーラは、運び手の一人として、働いた。


 黄金の衣の袖を、括り、水甕を、担いで、渠の口と、辻とを、往復した。奇瑞も、ほどきも、要らぬ夜だった。要るのは、担げる肩と、こぼさぬ足だった。…一度だけ、力が、要った。外れ町の西の外れ、根の水の糸の筋から、遠すぎる一角があり、ナイラが、古い帳の記憶から、幾星霜前に、封じられた樋の継ぎ目を、探し当てたのだ。量りのために、殺された道だった。キサーラは、その、錆びた栓の前に、膝をつき、十指を、当て…**ほどいた**。縛めを、解く、いつもの手つきで。栓は、呆気なく、緩み、死んでいた樋の底を、根の水が、幾星霜ぶりに、走った。乾いた一角の闇の中で、細い、水の音が、生まれ直した。…誰も、拝まなかった。皆、忙しすぎた。それが、心地よかった。


 列の、いちばん、末尾に…青が、並んでいた。


 破門された審問官は、夜通し、水盤の割れ目を、検めて回り、務めの果てた明け方に、黙って、列の最後尾に、立った。運び手と、汲み手の、さらに、後ろに。誰かが、先を、譲ろうとし、彼は、静かに、首を、振った。**序は、正しい**、と、それだけを、言った。


 …夜明けが、近づいた頃。


 キサーラは、甕を、下ろして、束の間、卓の傍らに、立った。そして、看た。


 看る目で、では、ない。ただの、目で。ジャベの宣する序を。ミラの届ける椀を。二人の突き合わされる、額を。ナイラの諳んじる頭数を。サミアの焼かれた手の書く帳を。…そして、彼女の内で、七日、疼き続けたものが、音もなく、ほどけていったのだ。


 (…手口、と、あの方は、言った)


 欠けに、指を、掛ける。開け方の技だと。では、掟とは、何か。目の前で、翁が、幾万の渇きに、序を、立てている、あの掟とは。…あれは、技だ。紛れもなく。万年、磨かれた、配りの技だ。**そして、あれは、情なのだ**。渇く者に、背を、向けるなという、たった一つの、痛みが、幾星霜を、渡り切るために、おのれに、着せた…器なのだ。掟とは、情が、時を、渡るための、器。技とは、情が、人に、届くための、手。…別の帳面では、なかった。初めから、一冊だった。両側から、読む、一冊だった。


 欠けの無い、あの白いうつろには、それが、二冊に、視えた。技は、技の帳に。情は、情の帳に。…**それが、あの方の、たった一つの、量り違えだ**。看えていないのは、私では、なかった。


「…どうした、娘御。突っ立って」


 ジャベが、卓の向こうから、閉じた瞼を、寄越した。キサーラは、少し、迷って、それでも、訊いた。訊ける夜は、今夜しか、ないような、気がした。


「翁。…今夜、どちらが、正しかったのですか。掟と、情と」


「ほ」と、翁は、言った。夜通し、宣し続けて、掠れきった声で。「両側から、読む帳面に、決まっておろうが。…情の無い掟は、渇く。掟の無い情は、こぼれる。**椀と、水よ**。どちらが正しいかと、椀と水に、訊く阿呆が、おるか」


 ミラが、空になった籠を、提げて、戻ってきた。足を、引きずるほど、疲れて、それでも、笑っていた。キサーラの顔を、一目、視て、それから、何かを、察した顔になった。この娘は、いつも、察するのだ。


「…まだ、気にしてたの。**手口**、ってやつ」


「…はい。いえ。…もう」


「あのさあ」ミラは、籠を、地面に、置いて、腰に、手を、当てた。「塩の原の最初の日。あんた、あたしに、何か、開け方とか、使った?」


「…いいえ」


「でしょ。あんた、なーんにも、しなかったよ。ただ、震えてた。手を、取ったのは、**あたし**。…開け方なんてさ、あんたが、後から、覚えたんだよ。看てるうちに、勝手に、手が、覚えたの。あたしが、椀の置き場所を、覚えたみたいに」


 彼女は、キサーラの水仕事で、ふやけた手を、取った。あの日と、同じように。


「…**先に、あったのは、手のほうだよ**。…順番、間違えないでよね」


 夜が、明けた。


 渇きは、消えなかった。上の水は、戻らず、椀は、一人、一椀のままで、都の喉は、三日、細いままだった。列は、毎夕、立った。だが、列は、崩れなかった。運びの椀は、路地の奥まで、届き続け、根の水は、細く、絶えず、昇り続けた。…そして、四日目の帳が、締められた時、ナイラとサミアの帳面は、一つの、途方もない勘定を、載せていた。


 **死者、なし**。


 月は、水を、断てば、都が、跪き直すと、量った。渇きが、恐れを、産み、恐れが、争いを、産み、争いの果てに、万の民が、帝を、恨んで、月を、呼び戻す、と。…その、盤の上の駒が、一つ、動かなかったのだ。都は、渇いた。恐れもした。**それでも、分け合った**。月の量りには、その目が、無かった。欠けの無い者の帳面に、技と情が、載らなかったように。


 水の音は、都に、戻りつつあった。


 ただし、前と、同じ音では、なかった。高い樋を、渡る、あの、天下りの音は、絶えたままだった。代わりに、聞こえるのは、低い音だった。渠の口を、上がってくる、汲みの音。椀から椀へ、注ぎ渡す音。戸口の椀に、注ぎ足す、朝ごとの、小さな音。…水の音は、**人の手の高さに、降りてきた**のだった。


 その、低い水音の中で、キサーラは、北の空を、仰いだ。


 欠け始めた月が、白々と、残っていた。答えは、渡した。答えは、返された。…この先は、触れと壇の届く高さでは、ない。あの、優しい声の膝元まで、まことを、担いで、昇らねばならない。


 西へ、放った風は、まだ、帰らなかった。


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