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第十三章 まことの前 七節

挿絵(By みてみん)


七節


 満ちる夜は、静かに、来た。


 都は、その日、朝から、口数が、少なかった。宮は、七日、黙っていた。量り直す…あの一語のほか、触れは、何も、出ていない。だが、万の民は、忘れていなかった。ひと巡り前の、あの夜を。壇という壇が、あやすような声で、告げたことを。…次の満ちる夜、検めが、参ります、と。


 だから、誰もが、水を、汲み置いた。竈の火を、早めに、落とし、子らを、早めに、寝かせた。そして、寝かせた後で、親たちは、戸口の椀に、水を、張った。誰のためとも、言わずに。なみなみと。祈りとも、備えともつかぬ、都の新しい作法だった。


 月が、柱の白い肩を、離れて、天心へ、昇りきった刻…


 柱が、光った。


 遥かな高み、雲の帯より、なお上。人の目には、届かぬはずの、白い喉の、どこかで、一つの門が、開いたのだ。冷たい、白い光が、一条、夜空に、こぼれ、そして、光の中を、白いものらが、降りてきた。翼も、なく。音も、なく。ただ、まっすぐに、糸を、垂らすように。


 都は、寝床から、起き出して、それを、視た。


 柱の裾の前庭に、降り立ったのは、十と二の白だった。


 白い衣。白い面。顔の、あるべき所に、目も、口も、彫られていない、滑らかな、卵のような面。腰には、細い、青白い光を、鞘に、収めて。…根の里の灯りの端で、その報せを、聞いた者らには、その、装束の意味が、判った。月神殿の審問官。それも、地の神殿に、席を持たぬ、月直々の…**白の審問官団**。


 壇は、貸されなかった。


 幾星霜、都の声で、あり続けた、あの壇という壇は、その夜、一つも、鳴らなかった。帝が、貸さなかったのだ。白らは、壇を、求めもしなかった。先頭の一人が、前庭の白い砂の真ん中に、立ち、面の口のない口で、語り始めた。その声は、面から、出ているのでは、なかった。**聞く者の、めいめいの、肩の後ろから**、囁くように、届いた。万の民が、一斉に、身を、竦めた。都の隅々にまで、同じ声が、同じ近さで、届いていた。


「…月は、看ています」


 と、声は、言った。あの夜と、同じ、優しい言葉を。


「月は、南を、看て、憂えました。ゆえに、検めに、参りました。…南の帝、マルドゥク。月の量りは、汝に、三つを、求めます」


 白い指が、一本、立った。


「一つ。帳外の星の子を、月へ、差し出すこと。母の御許へ」


 万の目が、動いた。人垣の、どこかを、探して。…キサーラは、隠れなかった。ミラとジャベを、後ろに、庇い、人垣の割れ目へ、一歩、出て、看える場所に、立った。黄金の衣が、月光を、受けて、静かに、灯った。白い面が、いっせいに、そちらを、向いた。目のない面に、視られるのは、幾百の狩人の目に、視られるより、寒かった。


「二つ。量りの外で、綴られし、異端の帳を、残らず、焼くこと」


 人垣の別の暗がりで、ナイラの手が、懐の綴りを、押さえた。傍らの、サミアの焼かれた右手が、その手の上に、重なった。


「三つ。南の不始末…失われし獲物、英傑への刃、垣の上の水の乱れ…その、咎人らを、月の裁きへ、引き渡すこと」


 声は、そこで、僅かに、間を、置いた。そして、続けた。優しさの、器が、傾いて、底の冷たいものが、覗く間だった。


「…月は、慈悲です。されど、慈悲にも、器が、あります。…南の民よ。識りなさい。西に、古い、大きな堰が、あります。旧き世の大いなる普請。その、向こう側には、**眠れる海**が、湛えられています。汝らの、この、乾いた盆地を、縁まで、満たして、なお余る、海が。…その、堰の栓に、月の指は、掛かっています。地が、月の量りを、拒む朝は…**海が、地を、量り直すでしょう**」


 前庭が、凍った。


 海。物語の言葉だと、思っていた。塩の原の白い骨だと。それが、いま、頭上に、吊るされた刃として、万の民の真上に、初めて、公然と、掲げられたのだ。ざわめきは、起きなかった。ざわめきにも、ならぬ恐れが、白い砂の上に、降り積もった。…人垣の中で、ジャベの閉じた瞼だけが、微動もしなかった。翁は、後に、言った。あの脅しの内でな、娘御、熱の通わぬ箇所が、一つだけ、あったのじゃ、と。…智の魔王の警めのとおりに。だが、それは、後の話である。


「…今宵、最後に、一つ」


 白の先頭が、懐から、一枚の白い書き付けを、取り出した。


「月神殿、最上位審問官、アズライール。…在るならば、出なさい」


 人垣が、静かに、割れた。


 青は、初めから、そこに、いた。灰色の量り手らの、後ろ。烙印の民の隣。彼は、歩み出て、白らの、前に、立った。青い髪が、夜風に、流れた。白の面と、ルビーの双眸とが、向かい合った。かつて、同じ、月の刃で、あった者らが。


「アズライール」と、肩の後ろの声が、言った。「月は、汝を、看て、悼みました。汝の剣は、月の剣で、あった。汝の正しさは、月の正しさの、順であった。…その、汝が、地の側に、立った。…**名を、月の帳より、削ります**」


 白い書き付けが、差し出された。破門の状。彼の幾星霜が、一枚の紙に、畳まれて。


 アズライールは、それを、両手で、受け取った。神器を、卓に、置いた、あの夜と、同じ、静かな、両の手で。そして、言った。


「…確かに、受け取った」


 声に、震えは、なかった。


「一つだけ、旧き、同輩らに、伝えておく。…名は、削れる。**量った事実は、削れぬ**。私の検めた帳は、私の名の消えた後も、勘定として、残る。…そして、私の名は、これより、地の帳面に、在る。…**読む者の、いる帳面だ**」


 白い面らは、答えなかった。答えぬことが、彼らの、作法だった。先頭の白が、面を、宮のほうへ、向けた。


「…南の帝。答えは、朝までに。第一の鐘を、もって、期限とします。…月は、看ています」


 そして、白らは、動かなくなった。前庭の真ん中に、十と二の白い柱のように、立ったまま。待つ、という行いすら、彼らがすると、量りの、静けさに、なった。


 …その夜、都で、眠った者は、少なかった。


 根の里では、雫の民が、皿の水面を、囲んで、黙っていた。外れ町では、戸口の椀に、水を、注ぎ足す手が、いつもより、多かった。渠の口では、一行が、額を、寄せ、されど、打つ手の、ない夜を、ただ、共に、起きて、過ごした。ミラは、キサーラの袖を、握っていた。宮を、出た、あの日から、握り方を、覚えた手だった。


 そして…後に、帳の殿の灰色の衣らが、声を、低くして、伝え合ったことが、ある。


 あの夜、玉座の間の坐した貌の足元で。厚い、固い、封書は…**夜のうちに、封を、破られていた**、と。誰が、破ったのか。問うだけ、詮のないことだった。あの間に、居る者は、一人しか、いない。…中に、何が、書かれていたのか。それを、識る者は、宮の内にも、ない。ただ、朝の検めの手が、視たのは、破られた封と、丁寧に、畳み直された紙とが、貌の膝の上に…**置き直されていた**、その、形だけだった。


 第一の鐘は、夜明けと、共に、鳴った。


 鐘の最後の余韻が、消えるか、消えぬかの、その、間で…


 **壇が、鳴った**。


 都じゅうの、壇という壇が。幾星霜、月の触れと、水の量りだけを、読み上げてきた、あの、倦まぬ声で。だが、その朝の第一声は、触れの、決まり文句では、なかった。


「…**南の民よ。聞け**」


 と、声は、言った。


「幾星霜、一度も、語らなんだことを、今朝、語る。…余の勘定の話だ」


 万の民が、立ち止まった。白の審問官らの、卵の面も、宮のほうへ、向いたまま、動かなかった。


「空が、壊れた頃…余は、まだ、帝では、なかった。ただの、量る者だった。溜め、量り、配った。呑まれる者を、堤で、生かし、涸れる者を、量りで、生かした。…やがて、月が、値を、示した。跪かねば、地に残る、幾千の命が、断たれる、と。治す術も、水の鍵も、月の手の内。抗う力、なし。…余は、量った。一晩でだ。誇りは、目方に、ならぬ。死人の目方だけが、目方だ。…**余は、跪いた**。あの朝の、あの皿の上で、あれが、最少の死であった」


 声は、淡々と、進んだ。詫びる声でも、誇る声でも、なかった。帳面を、読み上げる声だった。ただ、その帳面は、幾星霜、誰にも、読ませなかった頁だった。


「余は、毎朝、量り直してきた。跪きが、最多を、生かすか、否か。幾星霜、毎朝だ。答えは、変わらなんだ。…**昨夜、変わった**」


 前庭の白い砂の上で、朝の光が、伸びた。


「勘定を、言う。一つ。月の値は、一度きりに、あらず。**年ごとに、取り立てられる値であった**。狩りに、消えた名。治せる病に、間引かれた数。烙印に、断たれた水。…跪きは、買い切りでは、なく、永代の貢ぎであった。余は、古い皿の古い数で、量り続けておった。それは、勘定では、ない。習いだ。…二つ。あの朝の皿には、月の外に、道なし、と、載っておった。**その前提が、崩れた**。月の刃は、地の側に、立ち、星の彼方は、生きて、応える。跪く以外の道が、天に、在る。…ゆえに、余は、幾星霜ぶりに、答えを、書き替える」


 そして、倦まぬ声は、一語ずつ、置くように、言った。


「**跪きは、最多を、生かす手で、あった。…もはや、そうでは、ない**」


 都の、どこかで、椀の水面が、震えた。


「月の三つの求めに、答える。…一つ。星の子は、渡さぬ。あれは、余の帳面を、書き替えた者。勘定の済むまでは、余の客である。…二つ。帳は、焼かぬ。あれに、書かれておるのは、余の帳の書かなんだ側の、まことである。焼けば、余の帳が、嘘に、なる。…三つ。咎人は、渡さぬ。**南に、不始末は、ない。…在ったのは、狩りである**。余の民を、余の帳から、断りもなく、間引いた狩りである。その勘定は、こちらの帳に、貸しとして、立ててある」


 白の審問官らは、動かなかった。ただ、先頭の一人の指先が、腰の青白い鞘に、触れて…触れたまま、止まった。抜く、という答えを、月は、まだ、与えていないのだった。


「…最後に」


 と、声は、言った。初めて、僅かに、低くなった。


「南の律法の話を、する。…水は天のもの、と、汝らは、教えられてきた。雨は、盗むな、と。量りは、帝のもの、と。…**違う**。それは、後から、継ぎ足された行だ。余の最初の律法は、そうでは、なかった。空の壊れた頃、最初の配りの朝に、余が、集まった民に、宣した言葉は…」


 人垣の中で、ジャベが、杖を、握り直した。閉じた瞼が、壇の声のほうへ、まっすぐに、上がった。


「…**水は、誰のものでもなく、渇く者のものである**」


 と、都じゅうの壇が、言った。


「**序を、守れ。量りを、違えるな。水を、独り占めにする者は、明日の、おのれの喉を、裂く者である。…約定された水は、必ず、来る**」


 ジャベの、しわがれた声が、重なっていた。一語も、違わずに。万年、砂が、守り抜いた抑揚で。…そして、翁だけでは、なかった。外れ町の戸口で。渠の暗がりで。烙印の焼き痕を、負った者らが、椀と、共に、覚えた、あの一行目を、口々に、(とな)え始めたのだ。水は、誰のものでもなく…声は、低く、揃わず、途切れがちで、それでも、都の隅から隅まで、確かに、渡った。壇の声と、地の声とが、幾星霜ぶりに、同じ言葉を、語っていた。


「これが、余の最初の律法。余の量りが、まことに、救いであった頃の。…**今日より、南の律法は、これへ、還る**」


 倦まぬ声は、そこで、止んだ。


 誰も、跪いていなかった。


 万の民は、立っていた。壇の声を、額ずいて、聞くのが、この都の幾星霜の作法だった。その朝、誰に、命じられたのでもなく、誰に、許されたのでもなく、万の民は、ただ、立ったまま、聞いていた。恐れは、消えていなかった。頭上の海の刃も。前庭の白い面も。…それでも、立って、聞いた。それが、答えだった。


 …**跪かぬ、朝だった**。


 白の審問官団は、何も、言わなかった。


 先頭の一人が、面を、天へ、向けた。肩の後ろの声が、最後に、一度だけ、都に、渡った。もう、優しくは、なかった。優しさを、装う要が、済んだ声だった。


「…記録しました。一語、違えず、月へ、上がります。…南の帝。星の子。地の民。…**答えを、待ちなさい**」


 白い光が、柱の遥かな高みから、降り、十と二の白は、来た時と、同じに、音もなく、糸を、引かれるように、昇っていった。門が、閉じ、光が、消え、柱は、ただの、白い柱に、戻った。


 朝の都に、水の音が、満ちていた。


 樋が、鳴り、泉が、鳴り、量りの水が、幾千の椀へ、注がれる、あの、絶え間ない、細かな音。幾星霜、都の民が、空気のように、聞き流してきた音。…キサーラは、前庭の白い砂の上で、その音に、耳を、澄ませた。額の琥珀が、鈍く、疼いていた。答えを、待て、と、あの声は、言った。月の答えが、剣で、来ないことを、彼女は、識っていた。月は、剣を、使わない。月が、使うのは、いつも…


 ミラが、隣に、来て、空の椀を、掲げてみせた。


「…汲んどこう。いっぱい。…なんか、そんな気がする」


 都は、まだ、水の音に、満ちていた。


 その音を、惜しむことを、誰も、まだ、識らなかった。



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