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第十三章 まことの前 六節

挿絵(By みてみん)


六節


「勘定の話、と、申したな」


 倦まぬ声に、僅かな、間が、あった。量る者が、皿の上のものを、置き直す間だった。


「良かろう。…ならば、先に、余の勘定を、聞かせておく。幾星霜前の、あの朝のものだ。汝は、智の子の文でも、読んで来たのであろう。**子の側の帳面**をな。…親の側のも、揃えておくがよい。帳面は、両側から、読むものだ」


 白いうつろが、静かに、語り始めた。


「月が、値を、示した朝。余の皿には、こう、載っておった。…跪かねば、地に残る、幾千の命が、断たれる。治す術も、水の鍵も、月の手の内。抗う力、なし。逃げる船、残りなし。…跪けば。幾千は、生きる。管理の下で。間引かれながら。**それでも、生きる**。…余は、量った。一晩でだ。一晩で、幾星霜ぶんの、誇りを、皿から、下ろした。誇りは、目方に、ならぬ。**死人の目方だけが、目方だ**。――余は、跪いた。あの朝の、あの皿の上で、あれが、最少の死であった。…**幾星霜、経ったいまも、あの朝の勘定に、誤りは、無い**」


「…**あの朝の勘定には**」


 キサーラは、静かに、引き取った。


 看る目は、使わなかった。使えなかった、のではない。使わない、と、決めたのだった。この方の前では、情は、皿に、載らない。載るのは、数だけだ。ならば、数で、参ります。…手口、と、言われた傷が、まだ、内側で、疼いていた。疼いたまま、彼女は、懐から、写しの綴りを、取り出した。


「では、王よ。**今朝の勘定を、いたしましょう**。あの朝の皿では、なく。…まことの帳面。あなたの帳面の書かない側の帳面です。跪きが、買ったはずの命の、その後の目方」


 数字が、白いうつろに、置かれていった。


 狩りの勘定、七百と十一…都の内外、幾年ぶん。触れに、消された名。治せる病で、間引かれた数。務めを終え、柱に召された数。烙印で、水を、断たれた数。…一つずつ。乾いた声で。「あの朝、あなたは、一度きりの、大きな死を、避けられました。ですが、王よ。月の値は、一度きりでは、なかった。**年ごとに、取り立てられる値でした**。跪きは、買い切りでは、なく…**永代の貢ぎ**だったのです。あの朝の勘定に、誤りは、ない。ですが、あの朝の勘定は、**あの朝で、終わっていない**。幾星霜ぶんの、この、緩やかな取り立てを、皿に、載せ直したことが、おありですか。…毎朝、量り直しておられる、と、仰った。**皿に、載せる数のほうが、古いままなら、量り直しは、量り直しに、なりません**」


 うつろは、黙っていた。


「二つ目です」と、彼女は、続けた。「あの朝の皿には、**月の外に、道なし**、と、載っていた。…いま、その前提が、崩れています。狩人らは、還り、房は、落ち、月の刃は、地の側に、立った。そして…」彼女は、額の琥珀に、指を、当てた。「…星の彼方は、生きています。**きこえる**、と、応えました。跪く以外の道が、まだ、天に、在るのです。あの朝には、無かった道が。…前提の変わった皿で、同じ答えが、出続けるなら、王よ、それは、勘定では、ありません。**習いです**」


「…口の減らぬ」と、倦まぬ声が、言った。怒りでは、なかった。皿の揺れる音だった。「じゃが、星の子。汝の数は、まだ、軽い。月の外の道、とやらは、遠い。遠い道は、渇く者を、生かさぬ。目の前の水だけが、生かす。…**その水を、月が、握っておるかぎり、勘定は、変わらぬ**」


 その時だった。


「…**水は、誰のものでもなく、渇く者のものである**」


 しわがれた声が、白いうつろに、渡った。


 ジャベだった。翁は、杖を突き、閉じた瞼を、玉座の像へ、向け、砂の民の、あの、乾いた抑揚で、(とな)え始めたのだ。「序を、守れ。量りを、違えるな。…水を、独り占めにする者は、明日の、おのれの喉を、裂く者である。…約定された水は、必ず、来る」


 倦まぬ声が…**止まった**。


 都の一滴ごとに居る、と言った声が。幾星霜、途切れたことのない声が。白いうつろの、どこからも、何も、鳴らなかった。長い、長い、静寂の後、声は、戻ってきた。これまでと、違う、低さで。


「…翁。**その文言を、どこで、覚えた**」


「どこで、じゃと」ジャベは、二又の舌を、震わせた。「儂らの、(とな)えじゃ。砂の民の。万年、口から口へ、一語も違えず、伝えてきた…」


「――**それは、余の言葉だ**」


 静寂が、今度は、こちら側に、落ちた。


「…空が、壊れた頃の話だ」と、倦まぬ声は、言った。初めて、量りの音のしない声で。「堰が、成り、海が、涸れ、雲の巡りが、狂った。呑む季と、涸れる季とが、暴れ、氾濫が、(むら)を、呑み、ひでりが、残りを、殺した。…余は、まだ、帝では、なかった。ただの、量る者だった。溜め、量り、配った。呑まれる者を、堤で、生かし、涸れる者を、量りで、生かした。…その、最初の配りの朝、集まった民に、余が、宣した言葉が…**それだ**。水は、誰のものでもなく、渇く者のものである、と。序を守れ、と。量りを違えるな、と。…**余の最初の律法だ。余の量りが、まことに、救いであった頃の**」


 キサーラは、息を、呑んだ。ミラが、ジャベを、視た。翁は、杖を握ったまま、化石のように、動かなかった。…万年、砂が、守り抜いた(とな)えの、まことの筆者が、目の前の白いうつろだった。


 そして、翁は、動いた。


 一歩、玉座へ、進み出たのだ。閉じた瞼の翁が、統べる魔王の身の内の、いちばん深い所で、まっすぐに、顔を、上げた。


「…そうか。あんたの、言葉か」


 しわがれた声は、静かだった。静かなまま、砂漠の真昼のように、灼けていた。


「なら、王よ。帳面を、両側から、読もうかの。…**あんたの言葉を、万年、一語も違えずに、守り抜いたのは、儂ら、砂の民じゃ**。石に、彫られ、彫り潰され、鋳直され、それでも、口から口へ。…**違えたのは、誰じゃ**。水は天のもの、と、継ぎ足したのは。量りを、渇く者のためから、渇かせるための道具に、造り替えたのは。…あんたの、最初の律法に照らして、この幾星霜、**いちばんの咎人は…あんた自身じゃよ、量る者**」


 白いうつろは、答えなかった。


 どれほどの、静寂だったか。やがて、キサーラは、懐から、最後のものを、取り出した。厚い、固い、封書。父上へ、の四文字。彼女は、玉座の段を、静かに、上り、坐した白い像の…話しかけられるために、置かれた貌の…その足元に、それを、置いた。


「…三つ目のまことです。私からでは、ありません。読ませてくれ、とも、申しません。ただ、目の届く所に、置いてくれ、と。…**幾星霜ぶりの、量らぬ一手だそうです**」


 段を、下り、彼女は、一礼した。ジャベが、ミラが、続いた。


 白いうつろは、三人が、扉に、達するまで、何も、言わなかった。扉が、開き、廊の灯が、点った、その時…倦まぬ声が、背中へ、届いた。幾星霜、変わらなかった声が、初めて、掠れて、聞こえたのは、気のせいだったかもしれない。


「――退がれ。…**量り直す**」



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