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尾声

挿絵(By みてみん)


尾声


 幾年かが、過ぎた。


 西の門の坂の上には、港が、ある。新しい海の最初の港。かつて、嘘の織物で、栄えた市の真上に、開かれた、風通しの良い、賑やかな港だ。桟橋には、帆柱が、林をなし、荷が、上がり、荷が、降り、値切る声と、笑う声とが、潮の匂いに、混じっている。


 市の、いちばん良い辻には、一枚看板の卓が、出ている。曰く…**正直の卓**。仕入れの値も、口銭も、帳に、書いて、卓の上に、開いてある。初めての客は、みな、疑う。「…で、まことの儲けは、どこに、隠してあるんだね」。卓の主は、そのたびに、目もとまで、莞って、答えるのだ。「…**信用に、隠してございます**。世界で、いちばん、値の上がる、隠し場所で」。…その隣の帳場では、烙印を、看板にした男が、港じゅうの、荷の帳を、束ねている。二人の商いは、繁盛している。港でいちばん、と、もっぱらの評判である。


 桟橋の日だまりでは、齢、幾つとも、知れぬ翁が、子らに、囲まれている。翁は、船に、三度、乗った。いまは、汀の語り部である。子らに、せがまれて、翁は、今日も、あの、長い長い、待つ話を、語る。乾いた海と、地の底の里と、万年の(とな)えの話を。子らにとって、それは、もう、遠い、昔語りだ。海の、ないことのほうが、この子らには、御伽噺なのだった。


 岸の学び舎には、幾百の写しが、納まっている。青い髪の師が、検めの作法を、教えていて、灰色の衣の老人が、読みに来た者と、飽きずに、議論を、している。学び舎の、いちばん奥の棚には、一冊の分厚い帳が、あって、誰でも、読める。狩りの帳と、触れの帳と、水の帳と…それから、栓の前で、語られた、一つの答えとが、一語も、違えずに、綴じてある。


 その日の夕暮れ、桟橋の突端に、三つの影が、あった。


 二つの黄金と、市の娘と。…いや、市の娘、という呼び名も、もう、古い。ミラは、いまや、港の椀組合の束ね役である。港じゅうの、戸口の椀の水を、切らさぬための、小さな、賑やかな組合の。手首には、色の褪せた、赤の名残と、白い編み紐とが、並んで、揺れている。


 三人の少し先の浅瀬に、二つの人影が、屈んでいた。


 無骨な、北の男と、その妹だった。二人の寄せた掌の上に、白い札が、一枚、載っている。塩を、固めた、渡り手の札。縁に、銅の色。…北から、南へ、南から、月へ、月から、北へ…長い、長い旅を、して、持ち主の妹の胸元で、幾年を、過ごした札。渡り手の組合は、もう、ない。乾いた海を、渡る稼業は、海と共に、仕舞いになった。役目を、終えた札を、汀の水に、還すのが、元・渡り手たちの、作法になっていた。


 兄と妹は、札を、そっと、水に、置いた。


 白い札は、浅瀬の澄んだ水の中で、揺れて、透きとおって、縁の銅の色だけを、最後まで、細く、残して…**溶けた**。六年ぶんの、這い登った日々が、約定の水に、混じって、消えた。ドレクは、暫く、水面を、視ていた。それから、言った。


「…いい待遇じゃねえか。俺の六年」


 波の音の向こうで、日が、落ちきった。


 港に、灯りが、点り始める。汀の灯は、剣にならずに、今夜も、船を、招いている。戸口の椀には、夕立の名残の水。…そして、宵の空に、星々が、灯った。瞬かぬ、静かな星々が。


 最初に、気づいたのは、ミラだった。彼女は、いつも、最初に、気づくのだ。


「…ねえ。あれ」


 東の空の低いところに、光が、一つ、あった。星々の、どれとも、違う光。瞬かず、揺らがず、そして…**動いている**光が。宵ごとに、育つことになる光が。


 キサーラとサーラの二つの琥珀が、同じ律動で、あたたかく、灯った。言葉は、要らなかった。青は、星々から、視える。世界が、青くなること、それが、帰っておいで、の、報せになる…幾年前、降りる道で、交わした、あの約定の返事が、いま、空の、いちばん遠いところから、始まったのだった。氷の褥は、開けられたのだ。眠っていた者らは、目を、覚まし、故郷の色を、視たのだ。


「…来ます」


 と、サーラが、言った。


「…来ますね」


 と、キサーラが、言った。


 ミラは、二人の間で、伸び上がるようにして、その、小さな光を、視ていた。それから、笑って、言った。港の椀組合の束ね役らしい、言い草で。


「…**椀、増やしとかなきゃ**」


 波が、寄せて、返した。灯りの点る港の上に、帰ってくる者たちの、最初の光が、静かに、育っていった。


 世界は、青い。


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