第十三章 まことの前 四節
四節
満ちる夜まで、七日、という朝だった。
キサーラは、頭布を、被らなかった。黄金の衣のまま、ジャベとミラを、左右に、外れ町から、宮への、長い大路を、歩いた。
都は、跪かなかった。
それが、変わったことの、すべてだった。人々は、道を、空け、立ち止まり…そして、幾人かが、おのれの戸口の椀に、指先を、浸した。濡れた指を、胸に、当てる者もいた。誰が、始めた作法かは、判らない。拝みでは、なかった。誓いに、近かった。彼女が通るたび、水に触れる指が、通りの両側に、さざ波のように、続いた。御使いへの、額ずきは、消えた。代わりに、**掟への、目配せ**が、生まれていた。
宮の大門で、彼女は、灰色の衣の門衛に、告げた。
「…**量り直しを、受けに、参りました**。…お約定の刻から、二た月、遅れましたことを、まず、帳面に」
門衛らは、凍りついた。上へ、伺いを、走らせる間も、なかった。彼らの、背後で、大門が…**ひとりでに、開いた**のだ。誰の手も、触れぬまま。軋みの、一つもなく。開いた門の奥の長い、白い廊に、灯が、一つ、点り、続いて、その先に、もう一つ。招くように。
「…待って、おられたのじゃな」と、ジャベが、低く、言った。
案内は、付かなかった。**宮が、案内した**。
三人が、進むと、行く手の灯が、点り、過ぎた背後の灯が、消えた。廊は、幾度も、折れ、扉は、触れる前に、開いた。迷いようが、なかった。選びようも、なかった。歩かされている、のではない。…**歩きながら、量られている**のだと、キサーラは、思った。歩幅を。息の数を。左右の二人との、間合いを。この宮の、どこかにある秤が、廊ごと、皿になって、三人を、載せている。
帳の殿を、抜けた。
それは、殿というより、崖だった。天井まで、否、天井の闇の彼方まで、帳面の棚が、聳え、幾百の灰色の衣が、梯子と、桟とに、取り付いて、筆を、走らせていた。雨のような音が、していた。幾百の筆先の雨。都の一日が…生まれた者、務めた者、飲まれた水の一滴までが…ここで、紙に、写し取られてゆく。ミラが、圧倒されて、首を、反らし、それから、ふ、と、眉を、寄せた。
「…ねえ。…この宮、**台所の匂いが、しないんだけど**」
市の娘の鼻だった。人の集う所、必ず竈があり、竈の匂いがする。この宮には、それが、なかった。書き手らの、弁当の匂いが、僅かに。それだけ。宮の主の食事の匂いが…**どこにも、ない**。
「熱もな」と、ジャベが、応じた。閉じた瞼が、廊の奥のほうを、向いていた。「書き手らの熱は、視える。門衛の熱も。…じゃが、奥へ行くほど、熱が、絶える。この宮の芯はな、娘。…**丸ごと、白い**のじゃ。柱と、同じ白が、壁の向こうに、詰まっておる。儂らは、いま、建物の中を、歩いておるのでは、ないぞ」
翁は、そこで、言葉を、切った。切って、言い直した。
「…**何かの、身の内を、歩いておる**」
廊の白が、進むほどに、深くなった。
石が、絶え、漆喰が、絶え、やがて、壁も、床も、天井も、あの、継ぎ目のない、旧き叡智の白に、変わった。渠の白。柱の白。根の門の白。…ナブーの黒い館を、キサーラは、思った。無数の声の主の身体であった館を。ならば、この、白い宮は。玉座の白い像は。…父子は、**同じ造りの、同じ根の二つの家**なのだ。色だけを、違えた。
最後の廊の突き当たりに、扉が、あった。
白い、巨大な、一枚の扉。飾りは、ない。紋も、ない。ただ、その、白い肌の中央に、小さく、一つだけ、刻まれているものが、あった。**秤の印**。皿が、二つの、古い、古い、天秤の形。
三人は、その前で、足を、止めた。
キサーラは、懐の封書に、衣の上から、触れた。父上へ、の四文字の厚みに。それから、右のジャベと、左のミラを、視た。翁は、杖を、突き、いつもの、砂の静けさで、立っていた。ミラは、一度、大きく、息を、吸って、吐いて、それから、にっ、と、笑ってみせた。
「…あたしの、得意なやつ、やっとくから」
「はい」
「**あたしのまんまでいる**」
扉の向こうから、声が、した。
都じゅうの壇で、幾星霜、鳴り続けてきた、あの、倦まぬ声が…初めて、壇を通さずに、扉一枚の向こうから、直に。それは、思いのほか、静かで、そして、壇の声より、僅かに、低かった。
「…**入れ**」
白い扉が、音もなく、開き始めた。




