第十三章 まことの前 三節
三節
北から、戻った三人を、根の里で、待っていたのは、白い、小さな客だった。
膝ほどの丈の塩の膚の人の形。塩ノ原の精靈だった。渠の民の童らに、囲まれても、微動もせず、白い床に、行儀よく、座って、三日、待っていたという。その、両の腕に、抱えられていたのは、黒い、艶やかな、文筒…**塩の果ての、黒い館の色**だった。
キサーラが、前に、膝を突くと、塩の客は、深々と、一礼し、文筒を、捧げた。中には、二通。一通は、彼女へ。いま一通は、厚く、固く、封蝋で、閉ざされ、表に、ただ四文字…**父上へ**。
その夜、彼女は、灯りの下で、おのれ宛ての文を、開いた。仲間たちが、少し離れて、囲んでいた。読み進めるうち、キサーラの指が、止まった。
「…筆跡が」と、彼女は、囁いた。「…**変わってゆくのです**。幾行かごとに。別の手に。幾つもの、幾つもの、手に」
無数の声、と、名乗った御方だった。紙の上でも、彼は、無数だった。学者の手。書記の手。老いた手。若い手。…けれど、どの手も、同じ一つのことを、書き継いでいた。彼女は、声に出して、読んだ。翁が、ミラが、皆が、聴けるように。
…**金の目の星の子へ。ナブーである。**
…**父の裁きの日が、来ると、風のずっと手前で、識った。わしの耳は、まだ、遠くまで、届く。届いて、幾星霜、届いた先へ、何も、言わずに来た。汝は、わしの言い淀みを、覚えていよう。滅びの真相を、わしは、汝に、半分しか、渡さなんだ。今宵、残りの半分を、渡す。それは、滅びの話ではない。…敗北の話だ。**
…**滅びの後、生き残った我らは、割れた。月へ退き、すべてを、管理の内に置かんとする者ら。地に残り、傷ついた地を、癒やさんとする者ら。わしは、後の側だった。星へ発つ学者らも。柱を守る民も。…そして、勘定の上では、父も、後の側で、あったはずなのだ。**
…**月は、戦を、せなんだ。月には、その要が、なかった。月は、ただ、値を、示した。治す術も、水の鍵も、月の手にあった。地に残る、弱り切った、幾千の命…その、生殺しの鍵を、卓に載せて、月は、言うた。復興を、捨てよ。跪け。さもなくば、この幾千を、見捨てる、と。**
…**我らは、優しさゆえに、地に残った者らだった。ゆえに、その優しさを、そのまま、人質に、取られた。星へ発てる船は、発たせた。柱は、守り抜かせた。それが、退き際に、我らの購えた、すべてだった。そして、父は…**
そこで、筆跡が、変わった。
これまでの、どの手とも、違った。整わぬ、大きな、拙い…**童の手**だった。幾星霜の無数の声の、いちばん底に、まだ、残っていた手。たった一行だけ、その手が、書いていた。
…**ちちうえは、ふりかえらなかった。**
灯りの下が、静まり返った。ミラが、口元を、押さえていた。次の行から、筆跡は、また、大人の手に、戻っていた。
…**跪ぎの日の前夜、父は、一度だけ、わしの館に、来た。そして、言うた。「おまえは、跪くな。一人は、跪かぬ者が、残らねばならぬ。それも、勘定の内だ」と。わしは、その言葉を、憎んだ。わしの、跪かぬ誇りまでもが、父の帳面の一行に、過ぎぬのかと。幾星霜、憎んで…近頃、ようやく、量れるようになった。あの言葉は、勘定の形をした、遺言であったのだ、と。父は、おのれの誇りを、殺して跪き、殺した誇りを、わしに、預けて行ったのだ。…わしは、それを、預かったまま、幾星霜、礼の一つも、言うておらぬ。**
…**言い淀みの、正体は、これだ。滅びの真相を語れば、敗北の真相に、行き着く。敗北の真相を語れば、父の跪きが、犠牲であったと、明かすことになる。明かせば、わしの幾星霜の怒りは、行き場を、失う。…怒りとは、寄る辺なのだ、星の子よ。智の魔王ともあろう者が、寄る辺を、手放すのが、恐ろしかった。それだけの話よ。笑うがいい。**
…**同封の文を、父へ。読ませてくれ、と、頼みはせぬ。ただ、卓に、置いてくれ。父の目の届く所に。開くか、開かぬかは、父の量りだ。…幾星霜ぶりの、わしの、量らぬ一手である。**
…**最後に、一つ、警めておく。月の言うた、西の堰の「検め」を、恐れよ。あの堰は、閉じるためだけの普請では、ない。まことの姿を、わしは、半分しか識らぬ。わが父すら、恐らく、識らぬ。半分だけ、記す。…堰の鍵は、月が、握っておるのではない。月は、握っておると、皆に、思わせておるだけだ。では、まことの鍵は、どこに在るのか。…それを識る者は、この地には、もう、おらぬ。星の彼方には…おるやもしれぬ。**
文は、そこで、結ばれていた。無数の手の最後に、一つだけの署名で。
読み終えて、長い、静けさが、あった。
ジャベが、杖の先で、床を、こつ、と、突いた。「…跪かぬ者を、一人、残す、か」と、翁は、唸った。「…砂にも、似た掟が、あるぞ。渇きの果ての、最後の水はな、いちばん、健やかな者が、飲むのじゃ。老いた者でも、幼い者でも、なく。**歩き続けられる者が**。…酷い掟よ。酷くて、まことの掟じゃ。あの白き王は、幾星霜前に、その、最後の水を…**息子に、飲ませた**のじゃな」
キサーラは、封をされた、厚い文を、両の掌に、載せていた。
父上へ、の四文字。幾星霜ぶんの、重さだった。彼女は、それを、胸の帳面の、いちばん深い頁に、挟むように、懐へ、収めた。三つ目のまことは、届いた。あとは、卓に、置くだけだ。開くか、開かぬかは…あの、欠けておらぬ王の量りだ。
白い塩の客は、まだ、行儀よく、座っていた。セレナが、読むと、客は、こう、伝えているのだった。
…返事は、裁きの、後に。それまで、ここで、待つ。
…主に、似た客だった。
満ちる夜まで、あと、十と、五日。




