第十三章 まことの前 二節
二節
緑の海は、雨の季に、入りかけていた。
北へ、辿る祈りの道は、湿った土と、若い葉の濃い匂いに、満ちていた。道々、焼かれた祠の焦げの跡が、まだ、残っていた。そして、その、焦げの傍らに…**椀が、置かれていた**。素焼きの、欠けた椀が、雨水を、受けて。祠は、建て直されていなかった。像も、無かった。ただ、水だけが、供えられていた。誰へ、とも、なく。…都の答えは、道を、伝って、北へも、歩き出しているのだった。
川の関は、五日目の昼に、見えた。
関は…**萎びて**、いた。
月の荷が、消えた関は、ただの、古い橋と、詰所に、還っていた。灰色の衣の関守らは、三人を、認めると、槍を、構えるでも、跪くでもなく、ただ、困ったように、顔を、見合わせた。年嵩の関守頭が、進み出て、白髪頭を、掻いた。
「…金の目の御方だな。触れは、聞いとる。名を、読んだ審問官様の話も、宴の話も、なにもかも。…関は、月の荷を、一つ、預かっとった。月は、引き取りに、来ん。誰も、指図に、来ん。儂らは、あれの、飼い方も、識らん」
彼は、詰所の裏を、顎で、示した。
「…**好きに、せい**」
檻は、そこに、あった。
あの日のままに。光の輪の幾重もの編みが、詰所の裏の日陰に、置かれ、その中で、灰色の風の形が…あの日よりも、小さく、薄く、萎れて…蹲っていた。湿りを嗅がされた、青い灯とは、違う。こちらは、**匂いを、嗅がせられていた**のだと、セレナが、読んだ。関を、越える者らの、風上に立ち、隠した荷を、隠れた人を、嘘の匂いを、嗅ぎ分けさせられていた。風で、あることを、幾星霜、鎖に、使われて。
キサーラは、檻の前に、膝を、突いた。
十の指の傷跡が、光の編み目に、映った。彼女は、あの日と、同じ場所に、同じように、身を、低くし…そして、あの日と、違うことを、した。まず、言葉を、置いたのだ。
「…あの日、私は、あなたを、視て、通り過ぎました」
風の形は、動かなかった。
「解けば、関が、破れ、務めが、破れる。そう、量って、指を、畳みました。量りは、恐らく、正しかった。…ですが、量りが正しいことと、あなたが、檻の中で、待たされたこととは、別の帳面です。幾月も、遅れました。…**清算に、参りました。私の借りの**」
二本の指が、伸ばされた。
あの日、畳まれた、同じ二本が。結び目は、二つ。指は、もう、迷わなかった。光の輪が、花の萎むように、開き…灰色の風が、檻の、あった場所に、ぽつんと、残された。
風は、すぐには、飛ばなかった。
それが、いちばん、痛かった。開いた檻の輪郭を、なぞるように、小さく、円を、描いて、回るのだ。幾月も、その広さしか、許されなかった円を。空は、頭上に、際限もなく、開いているのに。…烙印の民が、封印の解かれた戸口から、すぐには、出て来られなかったように。檻は、破れても、身の内に、残るのだった。
セレナが、歌い出した。
低く、長い、精靈読みの歌。風の生まれた日の歌。谷を、渡り、梢を、鳴らし、誰の指図も、受けずに、千里を、翔けた日の。…歌が、二巡り目に、入った時、灰色の円が、ふ、と、大きくなった。三巡り目で、詰所の屋根を、越えた。四巡り目…**風は、空の大きさを、思い出した**。
轟、と、緑の海が、鳴った。
梢という梢が、波のように、うねり、川面が、逆立ち、三人の髪と、衣が、煽られた。灰色の風は、天へ、駆け上がり、雲を、一つ、丸ごと、掻き回して、笑うように、乱し…それから、矢のように、舞い戻ってきて、キサーラの周りを、一度だけ、ぐるりと、回った。金の髪が、ふわりと、浮いた。仔犬が、じゃれるような、回り方だった。
「…喜んでいます」と、セレナが、笑った。頬が、濡れていた。「…それから、訊いています。**何か、御用は**、と。…借りを、返された側が、御用を、訊くなんて、おかしいのに。…この子、あなたが、好きなんです」
キサーラは、風の中で、目を、閉じ、それから、西を、視た。
「…御用では、ありません。お願いです。断って、くださって、構わない。…**西へ**。世界の果ての、大きな門まで。門の袂の坂の上の館に、報せの織り手が、います。灰色の目の醒めた方です。その方に、伝えてください。…**月が、堰を、検めると、言った。あなたの、嘘の帳尻を、合わせに来る者が、いる。私たちは、南の裁きの後、西へ向かう**、と。…そして、あの方が、いま、どうしておられるか、視てきていただけますか」
風は、答えの代わりに、もう一度、大きく、緑の海を、鳴らした。
そして、飛んだ。西へ。低く、速く、梢の波を、一直線に、割って。夕暮れの、雲の下を、見る見る、小さくなってゆく、灰色の一条を、三人は、いつまでも、見送っていた。関守頭が、いつの間にか、隣に、来て、ぼそりと、言った。
「…関ってのはな、御方。**通すのが、務め**なんだ。本当はな。…止めるのが務めになっちまってから、儂ら、ずっと、居心地が、悪かった」
帰りの、道すがら、キサーラは、胸の帳面を、開いた。
風の精靈の檻…**取り立て、完済**。頁が、一枚、静かに、閉じた。開いたままの頁は、まだ、幾枚も、ある。けれど、閉じられる頁を、閉じられる日に、閉じること。それが、載せ忘れぬ、ということだった。
南の空で、欠けてゆく月が、薄く、昼の名残に、透けていた。
満ちる夜まで…あと、二十日余り。




