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第十三章 まことの前 一節

挿絵(By みてみん)


一節


 欠けはじめの朝、都は、妙に、静かだった。


 壇は、夜明けとともに、戻っていた。倦まぬ声が、いつもの通り、今日の水の量りを、読み上げている。何も、変わっていない…そう、装うことも、できたはずだった。だが、通りを行く人々の足取りが、違った。誰もが、時折、足を止めては、壇を、見た。声の、**向こう側**を、見ようとするように。生まれた時から、敷かれていた声の、そのまた下に、別の、もっと柔らかい声が、敷かれていたことを、都は、もう、識ってしまったのだった。


「…妙な話だよ」と、ナイラが、根の里の卓で、言った。「怒鳴られたんなら、忘れられる。脅されたんなら、憎める。…**あやされた**んだ、あたしらは。世界ごと。…あれの、どこが恐ろしいのか、誰も、言葉にできない。言葉にできないまま、みんな、骨の髄で、震えてる」


 卓の上には、胸の内から、書き写された帳面が、開かれていた。キサーラの道順の頁だった。


 **南。西。月。**


「南が、先です」と、彼女は、言った。「月の検めは、次の満ちる夜。白き王の裁きの日でもあります。…その前に、私は、果たしていない約定を、果たします。量り直しの、召しに…**こちらから、参ります**。囚われ人として、では、なく。貸し手として。量りの前ではなく、**まことの前で**、お会いすると、申し上げた。その、まことを、持って」


「持って行く、まこと、ってのは」と、ドレクが、訊いた。


「三つ。まことの帳面。月の外の道が、まだ在るという証。そして…」彼女は、そこで、言葉を、切った。「…三つ目は、まだ、こちらに、届いていません。届く、と、信じている、まことです」


 誰も、問い返さなかった。彼女の帳面の信じる、という記載を、疑う者は、この卓には、もう、いなかった。


 道順の前に、済ませるべき取り立てが、一つ、あった。


「…北へ、寄ります」と、キサーラは、言った。「川の関へ。…幾月も、待たせてしまった借りが、あります。**取り立ては、必ず**、と、記した借りが」


 ロウの耳が、立った。ガルドが、髭の奥で、にやりとした。あの、緑の海の水の関。鎖に繋がれ、湿りを嗅がされていた、風の精靈。彼女が、指を、畳んで、通り過ぎた、あの檻。…狩人は、月へ、還った。関の縛めの主は、もう、いない。


「それにな」と、ガルドが、付け足した。「解いた風にゃ、頼みたい用も、ある。…**西だ**。月の子守唄は、西の堰を、名指しした。堰の袂には、あの、報せの織り手が、いる。あいつが、いま、何を、識ってて、何を、されようとしてるのか。…風より速い使いは、いねえ」


 北行きの、小隊が、組まれた。キサーラ、ロウ、セレナ。往きて、五日。解いて、還って、五日。満ちる夜までの、勘定の内に、十分に、収まる。


 散会の間際、キサーラは、二人を、呼び止めた。


「ジャベ(おう)。ミラ…」


 二人が、振り向いた。彼女は、珍しく、言い淀み、それから、まっすぐに、言った。


「…宮へ、参る日。玉座の間へ、私と、共に、入っていただきたいのです。お二人に」


(わし)と…この娘に、か」と、ジャベの閉じた瞼が、僅かに、上がった。「刃の立つ者を、連れてゆく場では、なかろうが。…儂ら二人に、何を、させる気じゃ」


「何も」と、キサーラは、言った。「していただくことは、何も。…ただ、立っていて、ください。私の右と、左に。あの方は、勘定で、立っておられる方です。私の看る目は、恐らく…**効きません**。効かない私が、それでも、持ち込めるまことが、二つだけ、ある。…**掟と、情です**。翁は、律法より古い掟が、生きて歩いている姿。ミラは、量りに載らないものが、生きて笑っている姿。…お二人が、そこに、**在る**こと。それが、私の連れてゆける、いちばん強い、まことなのです」


 ミラは、目を、丸くし、それから、頬を、掻いた。


「…あたし、突っ立ってるだけで、いいの?」


「はい。あなたの、いちばん得意なことを、していてください。…**あなたのままでいること**を」


「…それ、褒めてる?」


「この世の何よりも」


 卓の隅で、青が、顔も上げずに、筆を、走らせていた。


 アズライールは、あの日から、根の里の灯りの端に、居場所を、得ていた。誰も、彼を、赦してはいない。誰も、彼を、追いもしない。彼は、毎日、書いていた。検めの記録。裁きの経緯。名の帳の写し。誰に、命じられたのでもない、報せを。…ナイラが、一度、訊いたという。誰に、読ませる気だい、と。青は、筆を、止めずに、答えたという。


 …**読む者の、いる帳面に、綴じてもらう**。それだけで、あの御方と、私は、別の道だ、と。


 夕刻、北行きの三人は、根の戸を、出た。


 渠を、抜け、地の上に、出ると、外れ町の戸口という戸口に、椀が、並んでいた。もう、隠されても、いなかった。夕日を、映した水面が、通りの、両側に、点々と、灯りのように、続いていた。検めの朝から、椀は、罪だった。子守唄の夜から、椀は…**答え**に、なっていた。誰も、示し合わせては、いない。ただ、優しい声に、あやされた骨の髄が、めいめいに、震えながら、同じことを、していた。


 キサーラは、その、水の灯りの並ぶ道を、北へ、歩き出した。


 欠けてゆく月が、昇り始めていた。次に、あれが、満ちる夜…南の王は、裁かれ、あるいは、裁き返す。その日までに、返す借りが、一つ。届けたい風が、一つ。そして、届いてほしい文が…一通。


 (…ナブー様。聞こえていますか)


 と、彼女は、北の空の、その遥か東の果てへ、胸の内で、呼びかけた。


 (あなたの、お父上の裁きの日が、来ます。…幾星霜、言い淀んでこられた言葉の出番が、来たのです)


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