第十二章 銀の観客 九節
九節
真夜中…都が、目を、覚ました。
音で、では、ない。**音が、消えたから**だった。
夜半の壇の倦まぬ声。生まれた時から、都の民の眠りの底に、敷かれていた、あの、寸分揺れぬ読みの声が…途切れたのだ。誰も、命じていないのに。都じゅうの壇が、同じ刹那に、一斉に、黙った。幾星霜、途切れたことのない声の、その不在は、どんな轟音よりも、大きく、都に、響いた。戸が、開き、人々が、夜の通りへ、出た。灰色の量り手らが、壇を、見上げ、立ち尽くした。壇は、沈黙していた。**取り上げられて**、いた。
根の里から、地の上へ、駆け上がった一行が、視たのは、その、夜の都だった。
そして…**柱が、囁き始めた**。
白い、天へ届く道の、その全体が、月の光を、吸ったように、淡く、内から、灯り、都を、囲む夜気そのものが、震えた。声は、壇からでは、なかった。上から、来た。柱を、伝って。奪われた水の走る脈を、伝って。世界の、いちばん高い喉が、いま、月の口に、なっていた。
声が、した。
「…**地の子らよ**」
それは、恐ろしい声では、なかった。
それが、いちばん、恐ろしかった。
柔らかく、温かく、静かで…**子守唄のような声**だった。幾星霜、眠らぬ者が、幾星霜、眠らせ続けてきた者の声。都の民の幾人かは、その声を聞いた刹那、覚えのない涙を、こぼした。身体の、どこか、深い所が、その声を、識っていたからだ。
「…哀しいことが、ありました。庭に、病が、入りました。惑わす星の子が、迷い込み、忠実な見張りは、斃れ、月の子らは、傷つき、還りました。…案じては、なりません。**月は、看ています**」
キサーラの背筋を、氷が、降りた。
…**看ている**。
その言葉を。その言葉だけは。観ると看るの、間の、あの、遠い遠い道のりを、一歩も、歩いたことのないものが、口にしていた。彼女の旅の、いちばん深い場所にある言葉が、いちばん高い所から、**盗まれて**、降ってきた。
「南の子よ」と、子守唄は、続けた。壇を、取り上げられたまま、白い帳の内で、聞いているであろう、地上で最も古い王へ。「そなたの量りは、永く、良い量りでした。…ですが、近頃、目減りが、多い。狩りを、預かり。刃を、留め。荷を、失い。頁を、増やしましたね。…**次の満ちる夜。月より、検めが、参ります。庭の帳尻を、合わせに**」
検め。…その言葉が、審問官の口から出た時とは、まるで違う冷たさで、夜に、沈んだ。
「星の子へ」
声が、初めて、まっすぐに、彼女へ、向いた。柱の白い光が、微かに、脈打った。
「…よく、来ましたね。遠くから。ひとりで。…疲れたでしょう。傷ついたでしょう。地の子らの、渇きと、灰とを、その身に、負って。…**おいでなさい。月へ**。すべての、答えの、ある所へ。すべての、痛みの、終わる所へ。…次の満ちる夜まで、待ちましょう。母の、ように」
そして、子守唄は、最後に、こう、言った。何の抑揚の変化もなく。慈しみの、続きのように。
「…ああ、それから。庭の皆へ。…永い間、検めておらぬものが、一つ、ありました。…**西の古い堰**。…**そろそろ、検めどきです**」
声は、それきり、絶えた。
柱の光が、退いてゆき、壇は、沈黙のまま、返され、夜は、ただの夜に…戻らなかった。戻れなかった。都の民は、通りに、立ち尽くしたまま、互いの顔を、見合わせていた。何かを、言われた。優しい声で。とても、優しい声で。…なのに、なぜ、こんなにも、寒いのか。
識る者だけが、識っていた。
ガルドの髭の中の顔から、血の気が、引いていた。ジャベの杖を握る手が、鳴っていた。西の古い堰。世界を、堰き止める門。崩れれば、大洋が、逆巻き、盆地の、すべてが…。**検めどき**。あの、子守唄は、世界の頭上に吊るされた水の刃を、蔵の掃除の話のように、口にしたのだ。
キサーラは、白い柱を、視上げていた。
欠け始めた月が、その、遥かな頂の彼方に、あった。琥珀は、氷のように、冷えたまま、動かなかった。彼女は、長いこと、黙って、それから、誰にともなく…あるいは、いちばん高い所の、あの声へ…静かに、言った。
「…参ります」
帳面が、胸の内で、開いた。順番が、あった。南の白き王への、まことの前の約定。西の堰の、まことの検め。そして、月へ。…頁を、繰る指は、もう、震えていなかった。
それは、この物語で…**いちばん、優しい声**だった。




