第十二章 銀の観客 七節
七節
白昼の盤の上で、誰も、動けずにいた。
動いたのは、青だった。
アズライールは、白い砂を、渡り、萎びた、小さなものの前に、立った。審問官の正装のまま。手順の崩れぬ足取りで。彼は、桟敷の十と四つの銀を、見上げ、静かに、命じた。
「…検めの、最後の証。**札の帳を、供せよ**」
銀たちは、動かなかった。動けなかった。彼らの、幾星霜の頂が、童ほどの、干からびたものとして、砂の上に、在る。その、まことの姿は、彼ら自身の、まことの姿でもあった。銀の衣の下の、おのれを、誰もが、初めて、思っていた。
高欄から、一つの影が、離れた。
薄衣の狩人だった。彼女は、賭けの卓から、骨の札の帳を、取り上げ、幾重もの薄衣を、朝の風に、遊ばせながら、盤へ、降り…**アズライールの足元に、それを、置いた**。
「…妾は、あの日、手首を、取られた」
と、彼女は、誰にともなく、言った。
「取られて…**ほどかれなんだ**。妾は、幾星霜、初めて、量った。おのれの命が、他人の指の先に、載る、ということを。…この帳の勘定の一つ一つが、**それ**であったのだと。…今、量り終えた」
彼女は、それきり、盤の隅へ、退いた。銀たちの、誰も、彼女を、咎めなかった。
アズライールは、札の帳を、開き、検め、閉じた。そして、宣した。彼の生涯の、すべての手順の、その頂点を。
「…検め、これに、結す。罪状は、すでに、読み上げたり。**七百と、十一の名**。…英傑の間が主、名無き最古の者。月の法に、汝を、裁く。…裁きは、**死**」
桟敷が、ざわめいた。月の法で。月の民を。誰の権で…と、新しい銀の一体が、声を、上げかけ、アズライールの次の言葉が、それを、断った。
「権を、問うたな。…答えよう。我が師、イラリオンは、最期に、私に、問うた。**汝の剣は、地を守るためか。月が、地から、奪い続けるためか**、と。…私は、師を、斬った。答えを、持たなかったからだ。幾星霜…否、九年、私は、その問いを、焼いて、埋めて、逃げてきた」
ルビーの目が、上がった。
「今、答える。師よ。…**我が剣は、地を、守るための剣である**。月の法の、まことの根は、そこにしか、ない。…ゆえに、この裁きは、月の法において、正しい。正しくないと言うなら、月の法のほうが、偽物だったのだ」
そして、彼は、キサーラを、視た。
問いは、口にされなかった。されずとも、盤の上の誰もが、識っていた。刑の刻…汝は、どこに立つ。止めるのか。止めぬのか。殺さぬ剣の主は、他者の剣の前で、何であるのか。
キサーラは、歩いた。
青と、萎びたものとの、間へ…では、なかった。盤を、回り込み、砂の上の小さな灰色のものの、**正面へ**。生きた目が、視上げる、その、視線の先へ。そこに、彼女は、膝を、突いた。裂けた十指の血の滴る両手を、膝の上に、置いて。
「…看える場所に」
と、彼女は、言った。アズライールへ、とも、おのれへ、とも、つかぬ声で。
「…**看える場所に、立ちます。それが、私の立ち位置です**」
止めなかった。庇わなかった。逃げなかった。ただ、目を、逸らさぬ場所を、選んだ。それが、殺さぬ剣の刑の刻の答えだった。誰かが、それを、冷たいと、呼ぶかもしれなかった。誰かが、優しいと、呼ぶかもしれなかった。彼女は、どちらの名も、受け取るつもりで、そこに、膝を、突いていた。
萎びたものの、生きた目が、彼女を、視た。
幾星霜、観ることしか、しなかった目が。観られることを、捨てた者の目が。いま、まっすぐに、看られていた。桟敷からでは、なく。演目としてでは、なく。逝く者として。一個の古い、憐れな、人であったものとして。
紙の擦れる声が、囁いた。
「…金の。…一つ、訊いて、よいか」
「はい」
「…儂の報せは」
干からびた声が、初めて、揺れた。幾星霜の観客の声が。
「…異状なし、異状なし、と、書き続けた、あの、誰にも読まれなんだ報せは。…**届いたか。誰かに。…一度でも**」
キサーラは、血の滴る手を、伸ばし、砂の上の小さな、干からびた手に…幾星霜ぶりに、死の内側に、還った手に…そっと、重ねた。塩の原で、取られた手の温もりの、遠い、遠い、末端を、その手へ。
「…**きこえました**」
と、黄金の観察者は、言った。
「いま、私が、聞きました。…あなたの報せは、いま、届きました」
生きた目が、見開かれ…それから、ゆっくりと、細められた。笑ったのかも、しれなかった。目だけしか、残っていない者の目だけの、笑いだった。萎びた貌が、天を、仰ぎ、紙の声が、最後に、こう、言った。もう、誰への、演目でもない声で。
「…ああ。…**良い、幕だ**」
剣は、一度だけ、閃いた。
手順の男の一段も飛ばさぬ、正確な、慈悲のような、一太刀だった。
白い砂の上に、静寂が、降りた。歓声は、なかった。万の民は、声もなく、立ち尽くしていた。泣いている者が、いた。それは、あの、小さなもののための涙では、なかった。七百と十一の名のための、そして、名を持つ前に消えた童のための、長い、長い、ようやく許された涙だった。
キサーラは、膝を、突いたまま、動かなかった。
重ねた手の下で、古い手は、もう、動かなかった。彼女は、最後まで、目を、逸らさなかった。約定の通りに。…両の手の十の指から、赤い血が、白い砂へ、滴り続けていた。殺さぬ剣は、今日も、誰も、殺さなかった。
**そして、無垢だけが、そこで、死んだ**。




