第十二章 銀の観客 六節
六節
「…観るために、降ろされた」
キサーラは、その言葉を、繰り返した。繰り返すことで、辛うじて、立っていた。
「然り」と、鈍色の形は、言った。「月が、この庭を、手に入れた、その後よ。月は、恐れておった。地の底の復興の残り火を。そして…**星の彼方からの、帰りの兆しを**。ゆえに、見張りを、一つ、地へ、降ろした。何も、聞き洩らさぬ耳と、何も、見逃さぬ目を、持たせてな。…それが、儂よ」
観るためだけの目が、遠くを、視た。幾星霜の彼方を。
「儂は、観た。来る日も、来る日も。残り火は、燻るばかりで、燃え上がらず。星からの、帰りは…**来なんだ**。儂は、報せを、上げ続けた。異状なし。異状なし。異状なし。…幾百年目で、あったかな。気づいたのは。**上では、誰も、儂の報せを、読んでおらなんだ**。読む必要が、なかったのよ。何も、起こらぬのだから。…金の。汝、識っておるか。**誰にも読まれぬ報せを、幾星霜、書き続けるのが、どういうものか**」
前庭は、静まり返っていた。万の民も、十と四つの銀も、青も。誰もが、聞いてはならぬものを、聞いていた。
「観ることは、務めであった。務めは、やがて、刑になった。刑は、退屈になった。そして、退屈はな、金の…**飢えになる**のよ。儂は、飢えた。何でもよい、盤の上で、何かが、**起これ**、と。…起こらぬなら、起こせば、よい。札を、作った。値を、付けた。退屈した若い連中に、盤を、貸してやった。狩りは、儂の演目。触れは、幕間の仕立て。…そうして、儂の盤は、ようやく、観るに値するものに、なった」
「…あなたの見張るはずだったものが」と、キサーラは、言った。声が、震えるのを、隠さなかった。「墜ちてきた時。…あなたは、月へ、報せなかった」
鈍色の形が、初めて、笑った。息のない、乾いた、紙の擦れるような音で。
「**報せるものか**」
と、銀の観客は、言った。
「幾星霜、待った、幕開けぞ。報せてみよ。月は、汝を、初日のうちに、摘む。演目は、序幕で、終わる。…儂は、黙った。黙って、桟敷に、深く、座り直した。…**汝の旅が、続いたのは、儂が、黙っておってやったからよ、金の**。月が、汝の正体を、量りかねておったのも。告死の青いのが、切れ切れの報せしか、持たされなんだのも。皆、儂の差配よ。…礼には、及ばぬ。**良い舞台への、木戸銭**であった」
キサーラの膝が、崩れそうになった。
自由だと、思っていた。選んできたと、思っていた。北の森も、火の山も、灰の夜も。…その、すべての幕が、この桟敷の指の先で、**開けられていた**。彼女は、目を、閉じ、開けた。そして、幾星霜の観客を、まっすぐに…**看た**。
「…あなたを、看た者は、いなかったのですね」
観るための目が、微かに、揺れた。
「誰にも、読まれない報せ。誰にも、聞かれない声。…幾星霜。あなたは、観続けて、一度も、観られなかった。**きこえる**、と、誰も、言ってくれなかった。…私と、あなたの、分かれ目は、才でも、齢でもない。私には、手を、取る人がいて、あなたには…いなかった。それだけです」
静寂。
それから、鈍色の形は、ゆっくりと、手を、打ち鳴らした。乾いた、乾いた音が、二つ、三つ。
「…**良いぞ、金の**」
心の底からの、賞賛だった。それが、いちばん、恐ろしかった。
「儂を、看るか。憐れむか。この、幾星霜の観客をか。…良い。実に良い。看てみよ、幾らでも。**それも、演目よ**。汝の憐れみごと、儂は、観て、味わう。…ああ、金の汝は、判っておらぬな。儂には、もう、**観られぬものが、無い**のだ。情も、看取りも、憐れみも、皆、盤の上の絵柄よ。…だが、一つだけ。一つだけ、まだ、観ておらぬ演目が、ある」
気配が…**立ち上がった**。
幾星霜、座り続けた者が、立った。それだけのことに、十と四つの銀が、一斉に、後退った。鈍色の形は、桟敷の高欄を、音もなく、越え、白い砂の盤へ、**降りてきた**。
「儂の演目よ。…**最後の一場は、儂が、演じよう**」
そして、幾星霜の観客は、初めて、観客であることを、やめた。
その、初手が、どこへ、向いたか。…盤の上の黄金へでは、なかった。青へでも。鈍色の腕が、上がり、指の先が、示したのは、人垣の縁。荷運びの、装束のままの、一人の娘。
「幕開けと、同じ絵で、閉じるが、**芝居の作法**よ」
と、銀の観客は、言った。
「…**手を取った娘から、退場させよう**」
光が、走った。素の銀の針より、速く、孔雀の鏃より、鋭い、鈍色の一条が…ミラへ。
キサーラの内で、刻が、止まった。
止まった刻の中で、彼女は、視ていた。走る光を。その光の編み目を。そして、放った腕の…**鈍色の身体の全部を**。幾千の糸。幾万の結び目。古い、古い、あまりに古い編み物。薄衣の手首で視たものと、同じ構造が、齢を、重ね、綻び、それでも、幾星霜、主を、死の外側に、置き続けてきた、その、**衣の全体が**。
(…ほどける)
今度は、指を、畳まなかった。
両の手が、伸びた。十の指が、走った。放たれた光の結び目を、まず、二本の指が、空中で、拾い…光は、蛍の粒に、散った。ミラの鼻先で。そして、残る八本の指が、そのまま、**放った者の衣へ、届いた**。
音は、なかった。
ただ、白昼の盤の上で、鈍色の人の形が…**ほどけていった**。
糸が、一筋ずつ、光の粒に、還ってゆく。腕から。肩から。貌の無い貌から。傷つかぬ身。死の外側の衣。幾星霜、観客を、観客のままに、しておいた、その、借り物の一切が、昼の光の中で、静かに、静かに、剥がれ落ち…
…**あとに、残ったものを、万の民は、視た**。
白い砂の上に、小さな、萎びた、灰色のものが、いた。
人、だった。かつて、人であったもの、だった。幾星霜に、痩せ細り、縮み、干からびて、童ほどの、大きさしかない、老いの、極みの、剥き出しの、生身。銀の衣の中で、幾星霜、死なずに、死の外側に、吊るされていたもの。…その、萎びた貌の中で、**目だけが、生きていた**。観るためだけの、あの目だけが、爛々と。
十と四つの銀が、彫像になった。万の民が、声を、失っていた。彼らの、英傑がたの、その頂の、まことの姿が…昼の光の真ん中に、置かれていた。
キサーラは、両腕を、垂らして、立っていた。十の指が、すべて、裂け、赤い血が、白い砂へ、滴っていた。腕の内の淡い光の糸が、明滅していた。身の内が、空だった。…殺しては、いない。あの、萎びたものは、生きている。息をしている。彼女の刃は、誰も、殺さなかった。ただ…**死の外に居た者を、死の内側へ、連れ戻した**。それだけ、だった。それだけの、ことの、重さで、彼女は、立っているのが、やっとだった。
砂の上の小さな、灰色のものが、動いた。
萎びた首が、軋みながら、持ち上がり、生きた目が、己の、干からびた手を、視、それから、黄金を、視上げた。そして、紙の擦れる声が、白昼の静寂に、言った。
心の底からの…**歓喜**の声で。
「…ああ。…**素晴らしい**」




