第十二章 銀の観客 五節
五節
最後の名が、読まれた。
「…………………………渠の名も無き童。名を、持つ前に、消えた。ゆえに、名の代わりに、これを、読む。**在った**、と」
アズライールは、綴りを、閉じた。青い朝が、いつの間にか、高い日に、変わっていた。前庭の万の民は、額ずくことを、忘れて、立っていた。泣いている者が、いた。名を、呼び返している者が、いた。静けさは、もう、恐れの静けさでは、なかった。
審問官は、盤の中央から、桟敷の銀たちへ、向き直った。
「…検めを、続ける。英傑の間に、命ずる。その桟敷の卓に、朝より、載せられたる**札の帳**…狩りの勘定を、汝ら自身の手で、付けたる帳を、検めに、供せよ」
桟敷の賭けの卓の上で、骨の札が、朝日を、受けていた。銀たちは、顔を、見合わせ…そして、堪えかねたように、**笑った**。息の混じらぬ笑いが、幾重にも、高欄から、降ってきた。孔雀が、羽を、優雅に、一振りして、言った。
「…審問官どの。長い読み物、ご苦労であった。だがな、根本が、可笑しい。…**地の獣の数を、誰が、何の法で、咎めるのだ**」
隠しも、しなかった。恥じも、しなかった。万の民の聞いている前で。それは、否認より、遥かに、雄弁な、白状だった。彼らには、咎の形が、**視えていない**のだ。前庭の静けさが、質を、変えた。深く、暗く、大きなものへ。
その時…垣の裏手から、灰色の衣が、転がるように、駆け込んできた。曳きの、頭だった。彼は、桟敷と、盤との間で、膝を、突き、上ずった声で、叫んだ。
「…も、申し上げます! 備えの、荷が…**引き渡しの、二十四が、消えましてございます**!」
盤が、割れた。
嗤いの面が、真っ先に、立ち上がった。面の切れ込みから、洩れる光が、強くなった。「…**金の目**」と、その声は、言った。歓喜と、憤怒の混ざった声で。「またしても、餌を。…この、演目の裏でか! 良い、実に良い、実に…**赦し難い**!」
銀たちが、高欄を、蹴った。十と四つの、光が、盤へ、降る。得物が、抜かれ、青白い燐光が、朝の空気を、裂き…その、降下の只中へ、アズライールが、踏み出した。神器を、抜かぬまま。両腕を、広げて。
「…**検めは、終わっておらぬ**」
「退け、審問官」薄衣の鞭が、警めるように、彼の足元の砂を、薙いだ。「月の刃が、月の民に、牙を、向けるか」
「向けるのは、牙ではない。**法だ**」
「ならば、その法ごと…」
鞭が、上がった。青は、動かなかった。万の民が、悲鳴を、呑み。帝の御座の白い帳は、閉じたまま、動かず…**月の法と月の民を、月同士で、争わせる**その静観こそが、あの御方の量りなのだと、識る者だけが、識っていた。
鞭は…振り下ろされなかった。
「…**やめよ**」
声は、大きくなかった。
なのに、前庭の誰の耳にも、届いた。否…**誰の耳の、すぐ傍でも、囁かれた**。万の民が、一斉に、身を、竦ませたのは、その声が、遥かな高みからではなく、めいめいの、肩の後ろから、聞こえたからだった。幾星霜の観客は、桟敷から、囁けるのだった。
十と四つの銀が、その場に、凍りついた。得物が、下ろされ、頭が、垂れた。振り上げた鞭のまま、薄衣が、彫像になった。
「…興が」と、白い座の主は、言った。乾いた、静かな、どこか、愉しげですらある声だった。「…**削がれる**」
そして、その声は、盤の上を、ゆっくりと、渡り…青を、通り過ぎ、人垣の、ある一点で、止まった。
「…それと。…袋の中の金の」
キサーラの心の臓が、止まりかけた。
「隠れ場所の見立ては、誉めてやろう。**退屈の中**、とはな。幾星霜ぶりに、膝を、打ったわ。…だがの、金の。汝は、一つだけ、量り違えておる。汝は…**儂にとって、一度も、退屈であったことが、ない**。…出てくるがよい。**汝の段だ**」
袋の中、とまで、言い当てられて、隠れ続ける道は、なかった。…いや。彼女が、進み出たのは、それゆえでは、なかった。この声の主を、視ねばならぬ、と…観察者の、いちばん深い性が、言ったのだ。
人垣が、割れ、黄金が、盤へ、出た。
「…荷は、返しません」と、彼女は、白い座を、視上げて、言った。「取り立ては、済みました」
「荷など」と、声は、言った。心底、どうでもよさそうに。「幾らでも、補える。…だが、この演目は、幾星霜に、一度よ。名を読む審問官。盗む黄金。額ずかぬ万の民。…**荷の二十四と、引き換えで、安い、安い**」
寒気が、キサーラの背を、駆けた。策は、破られたのでは、なかった。**上演を、許されていた**のだ。二十四の命は、この観客にとって、良き演目の木戸銭ですら、なかった。
白い座の上で、初めて、気配が、動いた。
立ち上がったのでは、ない。ただ、身を、僅かに、乗り出した…それだけの動きが、視えた。飾りの、一切ない、銀。素の銀よりも、なお、素の。古すぎて、光ることにも、倦んだような、鈍色の、人の形。その、貌の在るべき所に、貌は、なく、ただ、二つの…**観る、ためだけの、目**が、あった。
「汝が、墜ちる所から、観ておったよ、金の」
と、銀の観客は、言った。
「塩の原の、あの夜からだ。娘が、手を、取ったろう。良い、幕開けであった。北の森。火の山。乾いた海の底。西の門。祈りの道。白い喉。…**皆、観た**。一場も、逃さずにな。汝の旅はの、金の…幾星霜の、この盤の上で、**最も、上等の演目**であったよ」
キサーラは、立っていた。立っている、ということに、力の、すべてが、要った。ミラの手も。ディンガの声も。灰の広場も。ミラの離れて眠った夜も。…**すべて、観られていた**。桟敷から。木戸銭も、払わずに。彼女の生きた、その一切を、退屈しのぎとして。
「…なぜ」と、彼女は、問うた。声が、掠れるのを、抑えられなかった。「なぜ、あなたは、観るだけなのですか」
「ほう」
観るためだけの目が、僅かに、細められた、気がした。
「…良い問いだ。実に、良い。誰も、儂に、それを、問わなんだ。幾星霜もだ。…教えてやろう、金の。汝にだけは、教えてやる価値が、ある。なぜなら…」
鈍色の人の形が、囁いた。前庭の万の耳の、すぐ傍で。けれど、キサーラ、ただ一人に、向けて。
「…**儂も、昔は、観察者で、あったからよ**。…汝と、同じ。**観るために、この地へ、降ろされた者**であったからよ」




