第十二章 銀の観客 二節
二節
降り口で、アズライールは、神器を、サミアに渡した。
鞘ごと。両手で。月の権能の青白い重みを、烙印の娘は、受け取り損ねかけ、慌てて、抱え直した。焼いた者の刃を、焼かれた者が、背負って先を歩く…世にも奇妙な、道行きだった。
「…よろしいのですか」と、サミアは、一度だけ訊いた。「あたしが、これで、あなたを」
「量り違えぬ者に、預けるのだ」と、青は、言った。「…それに。焼いた者の前に、剣を、提げて立つ作法を…私は、識らぬ」
渠の、三つ辻の広間には、灯が、幾つも、揺れていた。
そして、灯の数より、多くの、目が。雫の民。烙印の民。腕に、額に、手の甲に、新しい焼き痕を、負った者たち。その、真ん中に、ナイラが、腕を、組んで、立っていた。傍らの卓…欠けた石の卓の上に、一冊の綴りが、置かれている。**まことの帳面**が。
青が、灯の輪に、入った刹那、闇が、唸った。
進み出た男が、いた。中年の痩せた男。額の焼き痕は、まだ、赤い。男は、審問官の前に、立ち、震える息を、二度吸い…**拳を、振るった**。
青は、避けなかった。
乾いた音がして、美貌の口唇の端が、切れた。男は、二度目を、振り上げ、振り上げたまま、おのれの手を、視…崩れるように、嗚咽した。女房を…と、男は言った。連れてかれた。月の裁きに。あんたの、宣で。あんたの…。アズライールは、端の切れた口のまま、立っていた。拭いもしなかった。
「…帳面が、先だ」
ナイラの声が、広間を、鎮めた。彼女は、審問官を、顎で、卓へ、招いた。
「殴るのは、あたしらの、勝手だ。けどね、殴って、済むなら、帳面は、要らない。…座りな、月の刃。**あんたの帳面を、見せてもらう。あたしらのも、見せてやる**」
卓を、挟んで、二冊の帳面が、開かれた。
アズライールの側からは…幾年ぶんの、触れと、巡遊の突き合わせ。魔獣の害、二十と三名、御巡遊の三日後。流行り病、四十と一名、五日後。北の山裾。東の川筋。西の街道。**都の外にも、及んでいた**のだ。狩りは。幾年も。幾百の名も。
雫の民の側からは…サミアの写しと、消えた者らの覚え書き。渠の七人の証言。銀の客人。嗤う面の房。札の音。六十と四つ、の勘定。
二冊は、卓の上で、噛み合った。歯車のように。欠けた歯を、互いに、埋め合いながら。読み進むほどに、広間の怒りの温度が、変わっていった。熱い怒りが、冷たい、深い、静かなものへ。…敵は、一人の審問官では、なかったのだ。もっと、高く、もっと、古く、もっと、退屈した、何かだった。
一行が、輪に、加わったのは、その、読み合わせの、半ばだった。
キサーラと、アズライールの目が、灰の広場以来、初めて、合った。青は、綴りから、顔を上げ、短く言った。
「…読み違いが、あれば、正せ。金の目。…今宵は、そのための卓だ」
「正すところは、ありません」と、彼女は、言った。「…ですが、埋めるところは。二十四人の月の裁き…**あれは、いつ、どこで、開かれるのですか**。月神殿の手続きを、識るのは、この卓で、あなただけです」
アズライールの綴りを、繰る手が、止まった。
「…それを、調べた」と、彼は言った。声が一段、低くなった。「調べて…**裁きの、記録が、無い**のだ。過去に、遡っても。月の裁きへ…と、触れられて、都から上へ、送られた者らの、その後の、裁許の書が、月神殿の、どの帳面にも、無い。異端の裁きは、必ず、書に残る。私が…私自身が、幾百と書いてきた。…送られた者らの分だけが、**一枚も、無い**」
「…裁かれて、ないんだ」と、ナイラが、掠れた声で、言った。「じゃあ、あの人らは、どこへ」
「送り先の求めの書だけが、在った」青の声は、平らだった。平らであろうと、していた。「求めたのは、月神殿では、ない。…**英傑の間**だ。文言は、こうだ。…**宴の備えの、補いとして**」
広間が、凍った。
月の裁き、という触れは、嘘ですら、なかった。仕立てられた、体裁ですら。ただの、**荷札**だった。連れて行かれた者らは、裁きの庭へでは、なく…蔵へ、送られていたのだ。宴の備えとして。額を殴った男が、声もなく、頽れた。ロウの喉の唸りが、広間の石を、低く、震わせた。
「…満ちる夜」と、アズライールは、続けた。「預かりが明け、狩人らが、月より戻る。宴は、催し直される。備えの、引き渡しは、その、宴の朝だ。…刻限は、それで、定まった」
そして、彼は、二冊の帳面の上に、両の掌を置き、卓を囲む、焼かれた顔たちを、順に、視た。
「私は、月神殿、最上位審問官の権をもって…**英傑の間に、検めを、立てる**。宴の場で。月の民と、地の民の万の目の前で。この、二冊を、証として。…教えられたのだ、若い時分に。間の奥の御座にだけは、審問の光を、当ててはならぬ、と。**理由は、教えられなかった**。…当ててはならぬ場所こそ、当てるべき場所だと、識るのに、私は、生涯を…使った」
「…奥の御座」と、キサーラが、静かに、問うた。「どなたが、おられるのですか」
アズライールは、初めて、言い淀んだ。
「…名は、無い。月の誰も、名を、呼ばぬ。ただ…**観覧の君**、と。最古の御方。狩らず、争わず、動かず。ただ、久遠の時を超えて、観ておられる、と。…私が、識るのは、それだけだ。それと、もう一つ。教練の折の老師の戯れ言だ。笑えぬ、戯れ言だった」
彼は、ルビーの目を、上げた。
「…**あの御方の桟敷から、視えぬ盤は、無い**、と」
その言葉が、落ちた、刹那だった。
キサーラの額の琥珀が…**疼いた**。
下からでも、傍らからでも、ない。遥かな、上から。糸のように、細く、静かで、そして、途方もなく、古い、視線。西の門の館で。第七の垣の白い房で。感じたものと、同じ質の…けれど、あれらより、遥かに、深い所から、注がれる、一条。彼女は、渠の闇の天井を、視上げた。石と、土と、白い普請の幾重もの、彼方を。
(…観て、いらっしゃる)
と、黄金の観察者は、思った。
(この卓も。この帳面も。…**幾星霜、こうして**)




