第十二章 銀の観客 一節
一節
灰の広場の夜から、三日…告死天使は、都を、出ていなかった。
彼は、記録殿に、いた。
帝都の触れという触れが、写しとなって、眠る、石の殿。灰色の衣の書き手らは、青い髪の審問官が、三日三晩、殿の奥に、籠もっていることを、識っていた。誰も、咎めなかった。月神殿の最上位審問官に、写しを、拒む権は、地上のどの殿にも、ない。…彼が、**何を**、読んでいるかまでは、誰も、識らなかった。
卓の上には、触れの写しが、積まれていた。
魔獣の害。流行り病。天の裁き。…幾年ぶんもの、死の触れ。彼は、それを、日付の順に、並べ替え、別の帳面と、突き合わせていた。彼自身の務めの記録。月神殿の巡察の記録。そして…**英傑がたの、御巡遊の記録**と。
並べ終えた時、彼の手は、冷えていた。
重なるのだ。魔獣の害の触れは、御巡遊の三日後に、立つ。流行り病の触れは、五日後に。幾年も。幾十件も。寸分、同じ間合いで。…偶然と、呼ぶには、あまりに、行儀のよい間合いで。
一枚の写しの前で、彼の指は、長く、止まった。
北の山裾の邑。九年前。魔獣の害、邑人二十と三名。…彼は、この邑を、識っていた。**彼が、浄めた邑**だった。害の後、邑に、月を疑う声が、立った。月の御加護は、どこに、あったのか、と。彼は、赴き、疑いの根を、質し、二人に、烙印を、焼いた。手順の通りに。正しさの、順の通りに。…その、魔獣の害の触れの、三日前に、英傑がたの、一行が、邑の街道を、通っていた。
(…私は)
と、彼は、思った。石の殿の静けさの中で。
(…嘘の上を、浄めていたのか。狩りの痕の縫い目の上を。…縫い目を、疑った者に、火を、焼いて)
疑いは、崖を掘る…彼は、久しい太古より、そう、教えられ、そう、教えてきた。ゆえに、疑う前に、焼いた。今、彼は、崖の底に、立っていた。掘ったのは、疑いでは、なかった。**確かめなかったこと**が、掘ったのだ。
翌る朝、彼は、量りの殿に、正式の求めを、出した。
第七の垣の上の水帳を、検めたい、と。月神殿、最上位審問官の権をもって。
返答は、その日の夕に、来た。灰色の衣の上位の量り手が、青い顔で、目を、伏せたまま、一言、告げた。
「…その頁は、無いのです、審問官様。…**無い頁を、お探しに、なりませぬよう**」
アズライールは、その量り手の目の伏せ方を、長く、視ていた。嘘を、つく目では、なかった。**恐れている目**だった。彼の権よりも、上位の何かを。…月の刃にすら、閉ざされる頁。それこそが、彼の突き合わせの帳面の最後の空欄への、答えだった。無い、ということが。
…その夜、外れ町の朽ちた量りの詰所に、小さな、灯りが、忍び込んだ。
サミアだった。
浄めで、封じられた、古巣の詰所。その、床下に、控えの綴りが、まだ、眠っている。まことの帳面を、太らせるための、糧だった。彼女は、床板を、二枚、外し、埃の中から、綴りを、引き上げ…振り向いて、**凍りついた**。
闇の卓の向こうに、青が、座っていた。
灯りも、持たずに。積み上げた、綴りの山を、前に。窓から、差す、痩せた月の光だけで、頁を、繰っていた。ルビーの双眸が、闇の中で、静かに、彼女を、捉えた。
「…量り手で、あった者だな」
サミアは、動けなかった。逃げる、という考えすら、凍っていた。腕の中の綴りが、鳴った。彼女の右手の甲の焼き痕が…**この男の宣が、焼かせた印**が、疼いた。
「…その手の印は」と、審問官は、言った。彼女の視線の先を、辿って。「…私の検めの手が、焼いたものか」
「…あなたの、宣が」
声は、掠れていた。掠れて、それでも、途切れなかった。量り手は、問われれば、正確に、答えるのだ。
「…焼かせました。罪状は、量り違え。印の者に、あたしの量りから、三杯。…悔いては、いません。**もう一度でも、注ぎます**」
沈黙が、詰所の埃の上に、降り積もった。斬られる、と、サミアは、思った。焼かれる、と。…だが、青は、動かなかった。代わりに、彼は、卓の上の繰りかけの綴りを、指で、押さえ、言った。
「…外れ町の水帳。汲まれた水と、飲まれた水の間に、目減りがある。目減りの、辿り着く先を、遡ると、勘定は、第七の垣の上で、切れる。…**切れた先の頁が、無い**」
サミアの目が、見開かれた。それは、彼女が、幾晩もかけて、辿った道、そのものだった。この男は、三日で、同じ道を、独りで、歩いていた。
「…あなたが。…どうして、それを」
「量ったからだ」と、彼は、言った。「…私は、幾年も、嘘の縫い目の上を、浄めてきた。縫い目を、疑う者に、火を、焼いてきた。…それが、まことなら、私の正しさの順は、初めの一段から、腐っている。**確かめねば、ならぬ**。何を、措いても。…だが、頁は、私の権にも、閉ざされた」
彼は、立ち上がった。そして、サミアが、生涯、忘れられぬことを、した。
腰の神器を…精靈を、命じ、並の身を、断つ、月の権能を…鞘ごと、外し、卓の上に、**置いた**のだ。二人の間に。灯りのない闇の中で、それだけが、微かに、青白かった。
「…無い頁の写しを、取った者が、いると、聞く。焼かれる前に。…そして、焼かれても、消えぬ場所に、写した者が、いると」
ルビーの目が、彼女の、こめかみを、視た。それから、まっすぐに、目を。
「…**無い頁の話を、聞かせてもらおう**。量り手であった者。…審問では、ない。私には、もう、何が、審問に、値するのかが…**量れぬ**のだ」
窓の外、痩せていた月が、また、太り始めていた。




