第十一章 白い喉 九節
九節
その夜、根の里で、キサーラは、帳簿を、締めた。
紙の帳面では、ない。胸の内の、あの帳面である。灰の広場から、戻り、皆が、寝静まった、白い静けさの中で、彼女は、独り、頁を、繰った。
烙印…六十と七。取り返せない。焼き痕は、消えない。
連れ去られた者…二十と四。行き先、月の裁き。**取り立て、未済**。
こと切れた老人…二人。…取り返せない。何をもってしても。
頁を、繰る手が、そこで、止まった。取り返せないものを、帳面は、どう、記せばよいのか。貸しでもない。借りは、借りだが、返す先が、もう、ない。…彼女は、長く、考え、それから、静かに、記した。**負い続けるもの**、と。返せぬ借りの、正しい記し方は、それしか、なかった。
少し、離れた、灯りの下では、二人の量り手が、働いていた。
ナイラと、サミア。年の離れた、同じ罪の二人が、額を、寄せ合い、サミアの三枚の写しと、彼女の、こめかみの中身とを、頼りに、紙の上に、勘定を、起こしていた。外れ町の水帳。消えた頁の前と、後。第七の垣の上へ、吸われてゆく水の尻尾。
「…**まことの帳面**を、作るのさ」と、ナイラは、言った。「上の帳面が、書かないことを、ぜんぶ、書く帳面を。烙印の者の名。消えた者の名。消えた日付。量られなかった水。…いつか、誰かが、帳尻を、突きつける日のために。**帳面ってのはね、いちばん、燃えにくい火なんだ**」
サミアの焼かれた右手が、筆を、握っていた。焼かれた手は、もう、量りの手ではない。けれど、書く手では、あった。
ジャベは、皿の列の傍らに、座っていた。
キサーラが、隣に、腰を、下ろすと、翁は、問われる前に、口を、開いた。閉じた瞼は、糸の水の細い煌めきのほうを、向いていた。
「…誦えにはな、娘御。灰のための行が、無いのじゃ」
しわがれた声は、静かだった。
「水の行は、ある。序の行も、量りの行も、約定の行も、ある。…焼かれたものの、ための行だけが、無い。幾星霜、砂の民は、それを、こしらえなんだ。…なぜか、判るか」
「…いいえ」
「言葉が、届かぬ場所が、あると、識っておったからじゃよ」翁は、二又の舌で、乾いた唇を、湿した。「言葉の尽きた先はな、行いしか、無い。…あの、婆さまの、椀のようにな。あれが、灰のための、誦えじゃ。言葉の無い誦え。…儂ら、旅の者に、できることも、同じよ。**次の灰を、減らす行い**…それだけじゃ」
キサーラは、頷いた。頷いて、翁の隣で、長く、黙っていた。
ミラが、来たのは、その、静けさの、いちばん深い刻だった。
何も、言わずに、隣に、座った。白い喉の、あの夜と、同じに…いや、違った。今度は、離れなかった。そして、彼女の手が、キサーラの手を、探し、見つけ、**取った**。
塩の原で、初めて、取った手だった。震える手を、取ったのは、あの日は、キサーラのほうだった。今、取られた手は…**震えていた**。細かく、止めようもなく。灰の広場から、ずっと。誰にも、見せずに。ミラは、その震えを、掌に、包んだまま、揺すりも、さすりも、しなかった。ただ、言った。
「…止まらなくても、いいよ」
夜の底の小さな声だった。
「…**持ってるから**」
キサーラは、目を、閉じた。琥珀の奥の遠い声が、きこえる、と、言った。近くの手が、持ってる、と、言った。取り返せないものの、頁の上に、この二つだけが、灯っていた。…やがて、彼女は、震えの、止まらぬ声のままで、誓いを、口にした。ミラにだけ、届く声で。改鋳された、新しい誓いを。
「…置き去りにした火は、消せません。どれほど、償っても。…私に、できるのは、一つだけ。…**次の火を、置き去らないこと**。それだけです。…観ます。看ます。そして、もう、載せ忘れません。**どんなに、小さな借りも**」
ミラは、頷いた。手は、朝まで、離されなかった。震えは、明け方近く、いつの間にか、止んでいた。
発ちの朝、一行は、外れ町を、抜けた。
封の印の戸は、ぽつり、ぽつりと、開き始めていた。焦げの輪は、灰ごと、掃き清められ…そして、キサーラは、視た。一軒の戸口の脇に。
**椀が、戻っていた**。
素焼きの、欠けた椀。なみなみと、水を、湛えて。彼女が、足を、止めると、戸の内から、あの、老女が、顔を、出した。老女は、跪かなかった。拝みも、しなかった。ただ、椀を、目で、示して、莞りと、笑った。
「…御使いさまの、じゃ、ないよ」
と、老女は、言った。焼き痕の残る手を、ひらひらと、振って。
「誰のでも、ないんだと。…渇いた者の、だとさ。**あんたが、そう、言ったんだろ**」
キサーラは、深く、深く、頭を、下げた。火は、消せなかった。けれど、火は…**竈に、変わろうとしていた**。それが、赦しでないことは、識っていた。それでも、それは、灰の中から、人の手が、拾い上げた、最初のものだった。
地平は、四方に、開いていた。
西には、報せの織り手の未決の選択が、待っている。南には、白き王への、増え続ける貸しが。頭上には、欠けてゆく月と、きこえる、と言った声が。そして、告死天使の消えた方角は…誰にも、量れなかった。ロウの鼻も、ジャベの熱の眼も、あの青の行方を、都のどこにも、見つけられずにいた。量れぬ、と言い残した男は、量れぬまま、どこかで、おのれの帳面と、向き合っているのだろう。
一行は、歩き出した。
戸口の椀の水面に…欠け始めた月が、静かに、映っていた。




