第十一章 白い喉 八節
八節
五日目の夕、灰の広場へ、キサーラは、独りで、歩いた。
独りで、とは、いえ…広場を、囲む、路地の口という口に、影は、あった。ガルドの炉は、昨夜、一晩、燃えた。打ち直された鱗は、三枚、目を、覚まし、そのうちの一枚を、杜瓦夫は、別れ際、無言で、キサーラの掌に、押し付けた。彼女は、それを、断らなかった。帯の内に、収めた。断ることが、優しさでないことくらい、もう、識っていた。
広場には、灰の匂いが、まだ、居座っていた。
椀の山の、あった場所。祠の残骸の焦げの輪。そして、その、真ん中に…**青が、立っていた**。
夕闇の底で、その青は、際立っていた。青き長髪。白い、審問官の装束。ルビーの双眸が、近づく黄金を、まっすぐに、捉えていた。傍らに、異形の騎獣が、伏せている。供は、いない。彼もまた、独りだった。
「…来たか」
と、告死天使は、言った。乾いた海の底、以来の声だった。
「参りました」
「死んだと、量っていた」彼の声に、抑揚は、なかった。あろうと、して、なかった。「私の量りは、誤っていた。…誤りは、正さねば、ならぬ。ゆえに、聞く。金の目の異端…**申し開きを**」
広場の縁に、人が、集まりつつあった。烙印の民。封の印の下から、出てきた者たち。危ういと、識って、なお、来ずには、いられなかった者たち。アズライールは、それを、一瞥もしなかった。彼の審問は、始まっていた。
「汝が、この都に、問いを、撒いた。汝が、偶像と、なった。民は、汝を、御使いと、呼び、量りの外で、水を、施し、祠を、結い…そして、焼かれ、焼き印を、負った」
ルビーの目が、細められた。
「…**汝の火が、彼らを、焼いたのだ**」
灰の広場が、静まり返った。路地の口の影たちが、息を、詰めるのが、キサーラには、判った。反論を。申し開きを。誰もが、それを、待った。
「…**はい**」
と、黄金の観察者は、言った。
アズライールの片眉が、微かに、動いた。
「…はい、と」
「はい。あの問いを、撒いたのは、私です。読み違いを、訂正せず、隠れ蓑に、借りたのも、私です。火が、放たれると、報せを、受けて…**それでも、昇ることを、選んだ**のも、私です。その、選びの日数のぶん、この方々は、焼かれました。…あなたの手が、火を、掛けた。ですが、火の種を、置き去りにしたのは、私です。申し開きは、ありません。あるのは、それだけです」
審問官は、黙った。
長く、黙った。彼の審問の手順は、否認から、始まるように、できていた。異端は、否む。泣く。喚く。偽る。彼は、その、すべての崩し方を、識っていた。…**認める者**の、崩し方だけを、識らなかった。
「…欺瞞だ」と、やがて、彼は、言った。声が、僅かに、速くなっていた。「罪を、認めて、みせることで、裁きの、刃を、鈍らせる…」
「あなたも、そうなのですか」
静かな問いが、彼の言葉を、断った。
「…何、だと」
「認めることが、刃を、鈍らせるなら」キサーラは、彼のルビーの目を、視ていた。逸らさずに。「否み続けることは、刃を、研ぐのでしょう。…アズライール様。あなたの火は、道々の祠を、焼いてきました。私は、あの火を、白い喉の窓から、視ました。そして、読みました。…**あの火は、私たちを、獲るための火である前に、あなたご自身の疑いを、焼くための火だ**、と。…読み違いなら、正してください。あなたの、量りで」
騎獣が、低く、からくりめいた唸りを、上げた。主の内の何かに、応えて。
アズライールの右手が、神器の柄に、掛かって…掛かったまま、動かなかった。彼の美しい顔から、審問の型が、剥がれ落ちかけていた。その、剥がれの、狭間から、覗いたのは、怒りでは、なかった。もっと、幼い、剥き出しの…
「…師も」
と、彼は、言った。言うつもりの、なかった言葉が、こぼれる、あの、こぼれ方で。
「…師も、最期に、そのような、目で、私を、視た」
…その時だった。
「…**やれやれ。審問とやらは、いつも、こう、辛気くさい**」
声は、広場の上手から、降ってきた。
夕闇に、青白い、燐光が、二つ、三つ…**五つ**。屋根の上に、銀色が、並んでいた。孔雀の羽が、燃え、嗤いの面が、光を、洩らし、薄衣が、夜風に、遊んでいた。狩人たちは、隠れもせず、装いも、解かず、劇場の桟敷に、着くように、屋根の縁に、腰を、下ろした。
「**我らの獲物だ**、審問官どの」と、孔雀が、言った。気軽な、咎めだった。「狩りは、帝預かり。預かりが、明ける日まで、その金の目には、傷一つ、付けてもらっては、困る。…賭けが、流れる」
「六十と四つに、上乗せした、賭け金がな」と、嗤いの面が、愉しげに、続けた。「まったく、宴を、預かられ、退屈しておったところに、貴公が、来て、下々を、焼き始めるものだから…**興が、削がれて、かなわぬ**」
アズライールが、ゆっくりと、屋根の上を、見上げた。
「…六十と、四つ、とは」
「ん?」面が、小首を、傾げた。「…**獲物の数よ**。緑の海と、あとは、まあ、あちこちの。なあ、審問官どの、貴公も、月の刃なら、判ろう。数を、伸ばすのは、良いものだ」
広場が、凍った。
烙印の民は、識っていた。消えた者たちが、どこへ、消えたか。魔獣の仕業と、触れの立った死が、何であったか。…識らなかったのは、ただ一人。月の正しさを、焼くことで、確かめ続けてきた、月の刃、その人だけだった。
「…獲物、とは」と、アズライールの声が、言った。彼自身の声とは、思えぬほど、平らな声だった。「…地の民の、ことか。月の裁きも、経ぬ、命の、ことを…**数**、と」
「他に、何と、数える」
面の嗤いは、揺るがなかった。悪びれもしなかった。悪と、思っていないのだ。それが、答えの、すべてだった。アズライールは、屋根の銀たちを、視上げたまま、動かなかった。彼の右手は、まだ、神器の柄に、あった。その手が…**震えていた**。彼が、十何年も、いや、師を、斬った日から、ずっと、焼き続けてきた問いが、いま、屋根の上から、燐光を、まとって、彼を、見下ろしていた。汝の剣は、地を、守るためか。それとも…。
「…**都の内の量りは、帝のものである**」
声は、都じゅうで、鳴った。
広場の壇も、辻の壇も、遠い坂の壇も、一斉に、同じ言葉を、同じ抑揚で。跪く波が、広場を、渡った。倦まぬ声は、続けた。
「客人の狩りは、預かりのまま。審問官の火は、今宵かぎり、留め置く。金の目の申し開きは…**聞き届けられた**。帳尻は、帝が、量る。…散ずるがよい」
屋根の上で、孔雀の羽が、苛立たしげに、一度、震え…銀たちは、しかし、逆らわなかった。芝居がかった一礼を、広場へ、投げて、夜の高みへ、消えていった。面の声だけが、名残のように、落ちてきた。…**次の満ちる夜にな、金の目**。
灰の広場に、青と、黄金だけが、残された。
アズライールは、長いこと、神器の柄から、手を、離さなかった。離した時、彼は、キサーラを、視なかった。灰の焦げの輪を、視ていた。おのれの、掛けた火の跡を。
「…申し開きは、聞いた」
と、やがて、彼は、言った。審問の型に、声を、戻そうとして、戻し切れていなかった。
「裁きは…」
言葉が、止まった。手順の男の言葉が。一段も、飛ばしたことのない男の次の一段が、そこに、なかった。彼は、騎獣に、跨がり、手綱を、取り、それから、背を、向けたまま、最後の言葉を、灰の上に、落とした。
「…裁きは、まだ…**量れぬ**」
騎獣が、夜へ、駆けた。青は、闇に、溶けた。
キサーラは、灰の広場の真ん中に、独り、立っていた。帯の内の蜂蜜色の鱗は、一度も、目を、覚まさずに、済んだ。…勝ったのでは、なかった。誰も、勝たなかった。ただ、量る者が、一人、量れなくなって、夜の中へ、消えた。それだけの、夕だった。
それだけの夕が…永劫の果て…の何かの、始まりであることを、灰の匂いだけが、識っているようだった。




