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未読の人生図書館  作者: 臥亜


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第5章:反転する地獄、そして再生

1. スイートルームのノイズ

 激しい頭痛とともに、樹は目を開けた。

 こめかみを、ハンマーで内側から殴られているような鈍痛が走る。

 ――ザーッ、ザーッ。

 耳に届くのは、雨の音だった。

 だが、安アパートのトタン屋根を叩くような、あの騒々しい雨音ではない。分厚く、遮音性の高いガラスの向こう側で、都市の雨が静かに流れている、ひどく上品で遠い音だった。

(……ここは、どこだ?)

 樹は、ゆっくりと身体を起こした。

 背中を支えていたのは、安物のパイプベッドではなかった。ふかふかの、上質な羽毛のキングサイズベッド。シーツからは、微かにベルガモットとシダーウッドの高級なルームフレグランスの香りが漂っている。

 部屋の中を見渡す。

 間接照明に照らされた、広大で豪奢な空間。壁一面のガラス窓からは、東京タワーを中心に、雨に濡れて煌めく大都市の夜景が見下ろせた。

 ここは、高級ホテルの最上階にあるスイートルームだ。

「なんだ、これ……どうなってる……」

 自分の手を見た。

 文字の塵になって消えかけていた手は、しっかりと実体を取り戻している。だが、それはあの「事務員の指」ではなかった。

 爪は綺麗に切り揃えられ、左手の指先には、長年ギターの弦を激しく押さえ続けてきたことによる、分厚く硬いタコがいくつも形成されている。

 着ているのは、仕立てのいいシルクのパジャマシャツ。

 ベッドから滑り降り、大理石の床を踏む。

 足は、床をすり抜けることなく、ひんやりとした確かな質量を捉えた。

 ふと、部屋の中央にあるガラスのローテーブルに目が止まった。

 そこには、真鍮とクリスタルで作られた重厚なトロフィーが転がっていた。台座には『Best Artist of the Year - ITSUKI ASAHINA』と刻まれている。

 そして、そのトロフィーのすぐ横には。

 小さなプラスチックのピルケースと、そこからぶちまけられた「大量の白い錠剤」が散乱していた。

 強い睡眠導入剤だ。致死量には十分な数が、ウイスキーのグラスの横に並べられている。

「あ……」

 その光景を見た瞬間。

 樹の脳を覆っていた分厚い膜が、ベリッ、と音を立てて剥がれ落ちた。

 すべての記憶が、濁流となって脳髄に流れ込んでくる。それは、図書館の本で読んだような「幻の記憶」ではない。血肉に刻まれた、痛みと熱を伴う「本当の現実」だった。

2. ほんとうの現実

 朝比奈樹は、二十九歳の冬にバンドを辞めてなどいなかった。

 仲間たちの引き留めに応じ、泥水をすするような努力を続け、ついにメジャーデビューを果たした。

 彼の書く曲は、時代を撃ち抜いた。

 デビュー曲はミリオンセラーを記録し、瞬く間にスターダムを駆け上がった。ドームツアーは即日完売、メディアは彼を「時代の代弁者」と持て囃し、彼の言葉一つ一つがSNSで何百万回と拡散された。

 誰もが羨む、輝かしい成功。

 だが、その現実は、彼にとって息の詰まる地獄だった。

 大衆の期待という巨大な化け物は、常に「次の傑作」を要求してくる。少しでも前作を下回れば、手のひらを返したように「劣化した」「才能が枯れた」と石を投げつけられた。

 共に夢を追っていたバンドメンバーとも、音楽性の違いと金銭感覚のズレから亀裂が入り、修復不可能なほど関係は冷え切っていた。マサはもう、あの頃のように無邪気に笑いかけてはくれない。ビジネスパートナーとしての作り笑いを浮かべるだけだ。

 外を歩けば週刊誌に追われ、ネットを開けば謂れのない誹謗中傷が目に入る。

 孤独だった。

 何万人の歓声の真ん中に立っていても、彼を本当の意味で理解してくれる人間は、もうどこにもいなかった。

 極度のプレッシャーと人間不信から、樹は精神を病んだ。

 睡眠薬と酒がなければ、一時間も眠れなくなった。曲のアイデアは枯渇し、ギターを持つことすら恐怖に変わった。

 そして今夜。

 彼はこのスイートルームに一人で籠り、大量の錠剤を酒で流し込んで、すべてを終わらせようとしていたのだ。

「……ははっ」

 樹の喉から、乾いた笑いが漏れた。

 本物のロックスターの、艶やかで、深い絶望を帯びた声。

 あの掠れた事務員の声ではない。

 死ぬ直前。

 あまりの恐怖と苦しみから逃れるため、彼は現実逃避の妄想に耽った。

 もしも、あの時。二十九歳の冬に、俺がバンドを辞めていたら。

 音楽なんて捨てて、地味で、退屈で、誰の記憶にも残らない「平凡な事務職」になっていたら。

 数字の入力だけをして、毎日決まった時間に帰り、雨の日は安いビニール傘を差して、路地裏を歩く。そんな、何者でもない人生を送れていたなら――どんなに楽だっただろう。

 樹は、ベッドの足元に転がっている「一冊の本」に目を落とした。

 それは、深い藍色の革装丁の本だった。

 ただし、表紙に金文字で刻まれていたタイトルは『朝比奈 樹』ではない。

 『もしも、音楽を選ばなかったら』。

 その本は、樹自身が死の直前に妄想し、逃げ込んだ「都合のいい幻の逃避行ファンタジー」だったのだ。

 だから、あのオフィスの日常はあんなにも薄っぺらかった。

 同僚の顔がのっぺらぼうだったのは、スターである彼が「架空の事務員の同僚の顔」など、いちいち想像して設定していなかったからだ。

 キーボードを打つ指が勝手にプロのタッピングを刻んだのも、頭の中で未完成の曲が完璧なアレンジで鳴り響いたのも、現実の肉体が超一流のミュージシャンだったからに過ぎない。

 彼が「現実」だと思い込み、守ろうとしていたあの泥臭い事務職の生活こそが、傷ついたスターの心が作り出した「分岐点の図書館」で読まれていた本の中の世界だったのだ。

3. 未読の人生からのメッセージ

「……全部、逆だったのか」

 樹は、床に落ちている藍色の本を拾い上げた。

 その本は、表紙から裏表紙に至るまで、中央から真っ二つに引き裂かれていた。

 妄想の中の「偽物の自分(事務員)」は、図書館で、ロックスターとしての自分の人生を読み、魅了された。

 しかし、最後にその男は、スターの華やかな世界を拒絶し、泥臭い事務員の現実いまを選んで、本を引き裂いた。

 偽物の自分が、本の中で命懸けで本を破いたからこそ、この現実世界で死のうとしていた本物の樹は、すんでのところで意識を取り戻し、睡眠薬を飲むのを思いとどまることができたのだ。

『俺は、俺の不格好な人生を引き受ける!』

 幻の自分が叫んだあの言葉が、胸の奥で鮮烈に響いていた。

 ふと、樹は図書館で出会った「水瀬栞」という少女のことを思い出した。

 彼女もまた、この世界のどこかに実在し、この本の世界に迷い込んだ人間だったのだろうか。それとも、彼と同じように何かに絶望し、救いを求めていたファンの誰かの意識が、偶然あの妄想の図書館で交差しただけなのだろうか。

 真相は分からない。だが、彼女が消えゆく間際に残した『私を現実に繋ぎ止めて』という言葉は、間違いなく、死に急ごうとしていた樹自身を、この世界に引き留めるための強烈ないかりとなっていた。

 樹は、ガラスのテーブルの前に立った。

 ばら撒かれた何十錠もの白い睡眠薬。これを飲めば、すべての苦痛から解放され、永遠の眠りにつくことができる。

 音楽のプレッシャーも、孤独も、ファンからの期待も、何もかもを捨てられる。

 樹は手を伸ばし、錠剤を一つ、指先でつまみ上げた。

 ……本当に、それでいいのか?

 妄想の中の自分は、こんなにも華やかで誰もが羨むロックスターの人生を、「都合のいい幻の楽園」だと一蹴し、自分が生きるべきは「泥臭くて不格好な現実の方だ」と叫んだ。

 だとしたら、俺はどうだ。

 こんなホテルのスイートルームで、酒と薬に逃げて、不格好に死んでいくのが、俺の選んだ「現実いま」の結末なのか?

「……ふざけるな」

 樹は、つまみ上げた錠剤を、テーブルの上へと放り投げた。

 そして、両腕でテーブルの上の錠剤をすべて掻き集めると、備え付けのゴミ箱の中へ、躊躇なくぶちまけた。

 バラバラバラッ、というプラスチックの音が部屋に響く。

 全身を苛むプレッシャーが消えたわけではない。

 明日になれば、またマサたちとの冷え切ったリハーサルがあり、ネットの悪意に晒され、新しい曲を生み出さなければならないという地獄のような日々が再開する。

 現実は、相変わらず泥泥としていて、息苦しく、重たいままだ。

 だが、それでも。

 あの幻の世界の自分が、これほどまでに焦がれ、憧れ、そして命を賭けて現実に引き戻してくれた、愛おしい「現在の足場」が、ここにはあるのだ。

 樹は、部屋の隅に置かれた一本のギターケースに歩み寄った。

 それは、本の中で見た「ホコリを被った赤いエレキギター」ではない。今、彼がメインで愛用している、使い込まれたアコースティックギターだ。

 ケースを開け、ネックを握りしめる。

 木と、金属の弦の確かな感触。

 ベッドの端に腰掛け、軽く弦を弾いてみる。

 ――ジャーン。

 静まり返ったスイートルームに、少しだけチューニングの狂った、しかし確かな生の音が響き渡った。

 樹は目を閉じ、ゆっくりとペグを回して音を合わせていく。

 頭の中に、新しいメロディの欠片が、雨粒のようにぽつり、ぽつりと落ちてくるのを感じた。それは、あの完璧だったバラードとは違う。傷だらけで、泥臭くて、もがき苦しんでいる人間にしか書けない、不格好な旋律だった。

 五線譜とペンを引き寄せ、コードを書き留め始める。

 何ヶ月ぶりだろうか。純粋に「音」を紡ぐことに、没頭できているのは。

 窓の外の雨は、いつの間にか上がりかけていた。

 雲の切れ間から、薄っすらと白み始めた東京の街に、新しい朝の光が差し込もうとしている。

 樹はペンを止め、傍らに落ちている、引き裂かれた藍色の本を見た。

 彼は少しだけ自嘲気味に、しかし、久しぶりに柔らかな微笑みを浮かべて呟いた。

「……手厳しいな。あっちの俺は、この地獄みたいな現実が、羨ましくて仕方ないらしい」

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