第4章:不格好な現在(いま)を選ぶ
1. 崩壊へのカウントダウン
図書館のドアを激しく蹴り開けると、カラン、カラン、と、鈴が悲鳴のような音を立てて床に落ちた。
館内の景色もまた、崩壊の最中にあった。
あれほど整然と並んでいた無数の本棚が、足元からじわじわと黒いインクの液体へと融け出し、床一面に漆黒の海を形成している。背表紙の金文字たちが、まるで溺れる者のように明滅しながら、インクの底へと沈んでいく。
その崩壊の中心、唯一無事なカウンターの奥に、永遠が変わらぬ姿で立っていた。
「お戻りですね、朝比奈様。いかがですか、あなたの愛した『不格好な現実』の居心地は」
永遠の口元に、嘲るような笑みが浮かぶ。
「もう、あちらの世界には、あなたを繋ぎ止めるインクは残っていません。このまま世界と共に無に還るか、あるいは……」
永遠が、カウンターの上の藍色の本をトントンと指先で叩いた。
本からは、今や濁流のような大歓声と、胸を焦がすメロディが、目に見えるほどの光の奔流となって溢れ出していた。
「この本を開き、本当のあなたの居場所へ行くか。選択の時です」
「……ああ、選択してやるよ」
樹は、背負っていた赤いギターを床に降ろした。
彼の身体は、すでに胸のあたりまで透明になり、文字の破片が絶え間なく宙へ舞い上がっている。残された時間は、あと数分もないだろう。
樹はカウンターへ歩み寄り、迷うことなく、その藍色の本を両手で強く掴んだ。
「おや、ようやく受け入れる気になりましたか」
永遠が満足そうに目を細める。
「勘違いするな」
樹は、永遠の目を真っ向から睨み返した。
その瞳には、現実を諦めた者の絶望ではなく、すべてを賭けて戦う者の強い光が宿っていた。
「あの本の中の俺は、成功して、大勢の人間に囲まれて、一見幸せそうだった。……だけどな、あの世界の裏側から、ひどく惨めで、寂しくて、死にたがっている奴の悲鳴が聞こえるんだ。……お前は『至高の幸福が約束された世界』って言ったが、大嘘だ。どんな道を選んだって、そこには必ず、新しい地獄が待っている」
樹の両手に、グッと力がこもる。
文字の塵を吐き出しながらも、彼の指の筋肉は、長年培ってきたギターの握力で、本の表紙をギリギリと締め付けた。
「俺は、あの退屈で、数字ばかりの日常が嫌いだった。だけどな、あの世界で俺は、自分の足で立ち、自分の力で息をしていたんだ。不格好で、情けなくても、あれこそが俺が必死に選んできた『現在』なんだよ!」
「な……何を……」
永遠の顔から、初めて余裕が消え去った。
「俺は、お前が作った都合のいい幻の楽園なんかには行かない。俺の『現在』を、俺の魂を、こんなインクの染みみたいな場所で終わらせてたまるかッ!!」
樹は咆哮した。
そして、半透明になった両腕に、人生のすべての力を込めて、その藍色の本を――自分自身の最高の成功が描かれた物語を、中央から力任せに引き裂いた。
バリバリバリバリッ!!!
世界が、絶叫した。
2. 世界の破断
バリバリバリバリッ!!!
極上の皮革と羊皮紙が引き裂かれる、耳をつんざくような悲鳴。
その瞬間、破れた藍色のページの断面から、目を焼くような白光が爆発的に噴き出した。
「な、なんてことを……ッ!!」
常に冷徹だった永遠の顔が、驚愕と恐怖に大きく歪む。
図書館の空間そのものが、激しい地震に見舞われたかのようにグラグラと揺れ始めた。本棚が次々と倒壊し、収蔵されていた無数の「選ばれなかった人生」の本が、漆黒のインクの海へと雪崩れ込んでいく。
「あなたは、自分が何を引き裂いたのか分かっているのですか!」
永遠が、光の暴風に抗いながら叫んだ。
「それは、あなたの魂の最高到達点! あなた自身の完全なる理想像だ! それを破棄すれば、あなたの意識は行き場を失い、この次元の狭間で永遠に千切れたまま漂うことになるぞ!」
「上等だ!!」
樹は、吹き荒れる光の嵐の中で、破れた本の半分をさらに強く握りしめた。
身体を構成していた文字の砂が、暴風に煽られて凄まじい勢いで剥がれ飛んでいく。それでも、彼の瞳の光だけは決して消えなかった。
「完璧な人生なんて、どこにもない! 逃げ込んだ先の楽園が、本当の地獄かもしれないじゃないか!」
脳裏に響いていた、あの白い錠剤を前に泣き崩れる「もう一人の自分」の姿。
彼がなぜ泣いていたのかは分からない。だが、あの成功した自分もまた、何かと戦い、傷つき、そしてギリギリのところで呼吸をしていたのだ。
「俺は、俺の不格好な人生を引き受ける! あの雨漏りのする部屋で、安いコーヒーを飲んで、名前も思い出せない同僚と頭を下げて……。それがどんなに泥臭くても、俺が選んだ『現在』だ!!」
樹は、残った半分のページも力任せに引き千切った。
パァァァァァァァンッ!!
空間を支えていた最後の楔が弾け飛ぶ音がした。
琥珀色のランプが割れ、永遠の姿が光の中に溶け、床も天井もすべてが真っ白な虚無へと還元されていく。
(帰るんだ。あの退屈な、俺の現実に――)
視界が完全に白く染まり、重力が消失した。
樹の意識は、底なしの暗闇へと真っ逆さまに墜落していった。




