第3章:世界の輪郭が滲むとき
1. 透明な絶望
真昼間だというのに、あの住宅街の路地裏だけは、深い夜のように薄暗く、そして冷たい雨が降っていた。
息を切らして『分岐点の図書館』の前に辿り着く。
ドアを押し開けると、カランという鈴の音とともに、いつものインクと古い紙の匂いが樹を包み込んだ。
「……朝比奈様。本日はずいぶんと早いご来館ですね」
カウンターの奥で、永遠がわずかに目を細めた。
営業時間という概念すら、この場所には存在しないらしい。
「本を……俺の本を出してくれ!」
樹はカウンターにすがりつき、ぜえぜえと息を吐きながら叫んだ。
「もう、あっちの世界にはいられない。俺の身体も、他人の顔も、全部透けて見えやがる! 俺はあの本の中で生きる。あそこが俺の現実だ!」
「それは賢明なご判断です。現実とは、自分が最も強く信じた世界のことですから」
永遠は滑らかな動作で、あの藍色の本をカウンターに置いた。
樹が狂ったように本に手を伸ばそうとした、その時だ。
「……あさ、ひな、さん……」
館内の奥から、かすれるような、ガラスが割れる寸前のような細い声が聞こえた。
樹が弾かれたように振り返る。
閲覧席の最も奥まった影の場所に、水瀬栞がいた。
だが、その姿は、もはや「人間」の形を保っていなかった。
彼女の身体は9割方透明になり、背景の本棚に完全に溶け込んでいる。髪の毛の一本一本、衣服のシワまでが、光の粒子となって空気中に分解され、チラチラと宙を舞っていた。
彼女は、深紅の本の表紙にすがりつくようにして泣いていた。
「栞さん……!?」
樹は藍色の本を放り出し、彼女のもとへ駆け寄った。
「どうして……どうしてですか……」
栞は、透明な涙をこぼしながら、虚空を見つめていた。彼女の焦点は、もう樹には合っていない。完全に本の世界の中の幻影を見ているのだ。
「お姉ちゃんが生きてる。私が車椅子に乗っている代わりに、お姉ちゃんが笑ってくれてる。……なのに、どうして、お姉ちゃんは泣いているの?」
栞の言葉に、樹は息を呑んだ。
栞が読んでいる本の世界は「自分が身代わりになって事故に遭い、車椅子生活になる代わりに、姉が生き残った世界」だ。
栞はそれを「ハッピーエンド」だと信じ込んでいた。だが。
「私が……歩けないから。私の介護をするために、お姉ちゃん、仕事も辞めて、恋人とも別れて……毎日、毎日、疲れた顔をして……」
栞の透明な身体が、激しく明滅し始めた。粒子がパラパラと剥がれ落ちていく。
「お姉ちゃんが、私に隠れて泣いてるの。私が生きているせいで、お姉ちゃんの人生が、地獄になってる……。こんなの、こんなのってない……ッ!」
それは、想像力に欠けた彼女が思い至らなかった、冷酷な「もう一つの現実」の続きだった。
選ばなかった方の道にも、当然のように新しい悲劇や苦労が続いている。人生とは、一つの選択で永遠の幸福が約束されるほど甘いものではないのだ。
「嫌だ……帰りたい……! あの、お姉ちゃんが死んじゃった現実に……私が、一生十字架を背負って生きるあの世界に……帰りたいよぉッ……!!」
栞が、深紅の本から手を離そうともがく。
だが、透明になった彼女の手は本をすり抜けてしまい、ページを閉じることすらできない。
「栞さん! 待ってろ、俺が今……!」
樹は彼女の本を閉じようと手を伸ばした。
しかし、カウンターから永遠の冷たい声が響いた。
「無駄ですよ、朝比奈様。彼女の意識はすでに、物語のインクとして定着する直前です。あの本は今、彼女の魂を喰らって、最後のページを書き上げている最中なのです」
「ふざけるなッ! 彼女は帰りたいと言ってるんだぞ!」
樹の怒鳴り声も虚しく、栞の身体は足元から凄まじい勢いで「文字の羅列」に変換され始めていた。
あ、あ、い、う、え、お、といった無数のひらがなと漢字の塵となって、竜巻のように深紅の本の中へと吸い込まれていく。
「朝比奈、さん……たす、けて……」
声だけが、虚空に響く。
「私を……忘れないで……」
その言葉を最後に、水瀬栞の姿は完全に消滅した。
後には、パタンと閉じた深紅の本だけが、誰のぬくもりも残さずに机の上に横たわっていた。
2. 魂のインク
「栞さん……! 嘘だろ、栞さん!」
樹は、彼女がいたはずの虚空に向かって何度も手を伸ばした。しかし、指先が触れるのは冷たい空気と、机の上にぽつんと取り残された深紅の革装丁の本だけだった。
つい数十秒前まで、彼女は確かにそこにいて、涙を流し、樹の袖を掴んでいた。その温もりも、掠れた声も、すべてが嘘のように消え去ってしまった。
カウンターの奥から、静かな足音が近づいてくる。
司書の永遠が、白い手袋をはめた手で、机の上の深紅の本をそっと拾い上げた。その動作には、一粒の同情も、一片の戸惑いもなかった。
「素晴らしい結末です」
永遠は、愛おしそうに本の表紙を指先でなぞった。
「彼女の魂は完全にインクとなり、この物語の最後の1行として定着しました。これでもう、彼女が現実で後悔にむせび泣くことも、お姉様への罪悪感に苛まれることもありません。彼女の望んだ『お姉様が生きている世界』で、彼女は永遠の幸福を手に入れたのです」
「これが……幸福なわけがあるか!」
樹は永遠の胸ぐらを掴もうと、激昂して手を突き出した。
だが、樹の手は永遠の衣服に触れる直前で、ツルリと奇妙な感覚で滑り、空を切った。
「な……っ」
驚いて自分の右手を見る。
樹の指先から、パラパラと、何かが零れ落ちていた。
それは皮膚の剥脱ではなかった。黒い、ごく微小な「文字の断片」だった。「あ」「い」「う」といった文字の破片が、砂時計の砂のように指先から溢れ出し、空気中に融けていく。
首から下を見ると、着ているビジネススーツの生地が、オフィスのグレーのパーテーションのように半透明になり、向こう側にある図書館の床の木目を透かして見せていた。
「言ったはずです、朝比奈様」
永遠は、乱れた衣服を整えることもなく、冷徹な瞳で樹を見つめた。
「あなたももう、手遅れの段階に入りつつある。あなたが現実を拒絶し、あの藍色の本の中の『成功した自分』を望むたびに、あなたの現実における存在確率は削り取られていく。指先から溢れる文字の砂は、あなたの存在が『虚構』へと書き換わっている証拠です」
「俺が……消える……?」
「いいえ、消えるのではありません。物語の一部になるのです」
永遠は、カウンターの上に置かれたままの藍色の本――『朝比奈 樹』と金文字で刻まれた本を指さした。
「さあ、お座りなさい。そして続きを紡ぐのです。あなたの魂をすべてインクに変えてあの本に注ぎ込めば、あなたはあのまばゆい東京ドームのステージで、万雷の拍手を浴びる本物のロックスターとして、永遠に生き続けることができるのですよ」
誘惑の言葉が、樹の鼓膜を甘く叩く。
そうだ、あそこへ行けばいい。栞のように、本の中の世界に完全に移住してしまえば、こんな恐怖も、身体が消えかける苦痛も、すべてから解放される。あの完璧な世界が、俺を待っている。
樹は、吸い寄せられるように藍色の本へ一歩を踏み出そうとした。
――その時、彼の脳裏に、強烈な「ノイズ」が走った。
カチ、カチ、カチ、カチ。
それは、本の中で見た「白い錠剤(睡眠薬)」の記憶。
そして、それと同時に蘇ってきた、胸が押しつぶされそうなほどの「孤独」と「恐怖」。
なぜだろう。なぜ、あの成功した世界を思い出そうとすると、喉の奥がカラカラに渇き、息ができなくなるほどの絶望感が、同時に押し寄せてくるのか。
『忘れないで……私を、現実に繋ぎ止めて……』
消え去る間際に、栞が遺した悲痛な叫びが、樹の心臓を強く繋ぎ止めた。
彼女は最後に、本の中の世界ではなく、あの残酷な「現実」へ帰りたいと願ったのだ。選ばなかった方の道にも、必ず別の地獄がある。あの華やかなロックスターの世界の裏側にも、俺の知らない致命的な破滅が隠されているのではないか。
「……いやだ」
樹は、一歩後ろへ下がった。
「俺は、あっちには行かない」
「ほう?」
永遠の眉が、微かにピクリと動いた。
「俺は、現実に帰る。どんなに退屈で、不格好で、泥臭くても……俺がこれまで生きてきた、あのオフィスの日常へ帰るんだ!」
樹は藍色の本から目を背け、図書館の重い木製の扉へと走り出した。
「無駄な足掻きを」という永遠の冷ややかな声を背中に浴びながら、樹は全力でドアを押し開け、外の雨の中へと飛び出した。
3. 偽りの楽園の裂け目
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
土砂降りの雨が、樹の全身を叩きつける。
激しい寒さと水の冷たさを感じて、樹は一瞬、安堵した。五感が機能している。俺はまだ、現実にいる。
しかし、路地裏を抜け、大通りに出ようとした樹は、その場で凍りついた。
「な……んだよ、これ……」
街が、死んでいた。
行き交う車も、ビル群も、スクランブル交差点の大型ビジョンも、すべてが「書き割り」のように平坦だった。
走っている車のボディには、光沢や金属の質感などなく、ただ黒いインクで『乗用車・黒』と、信じられないほど小さな文字がびっしりと敷き詰められて構成されている。
街を行き交う人々――かつて黒い影に見えていたサラリーマンたちは、もはや影ですらなかった。彼らの身体は、新聞の三面記事の活字が人型に集まったような、不気味な「文字の塊」と化していた。
『〇〇〇〇、〇〇、〇〇〇』
すれ違う文字の塊たちが、かすれたノイズのような声を上げる。
樹は自分のアパートへ向かって、がむしゃらに走った。
自分の部屋なら、自分が暮らしてきた確かな証拠があるはずだ。
悲鳴を上げる足に鞭打ち、薄暗い階段を駆け上がり、ワンルームのドアを開ける。
だが、絶望はそこでも彼を待っていた。
部屋の中の家具はすべて、色彩を失っていた。
パイプベッドの上には、布団の代わりに『安い羽毛布団・紺色』という文字列が浮かんでいる。机の上にあるマグカップには『陶器のコップ・ヒビあり』と書かれているだけ。
世界から「実体」が完全に消失し、ただの「設定説明文」へと退化していた。
「あ、あああ……っ!」
樹は頭を抱えて床にへたり込んだ。床に触れた自分の手のひらを見ると、すでに手首のあたりまでが、文字の塵となってサラサラと崩れ始めていた。
この事務職の現実は、もう維持できない。
彼の脳が、この世界を「偽物」だと認識してしまったからだ。このままここに留まっても、世界そのものが文字の海の藻屑となり、自分も虚無の中に消え去るだけだ。
その時、樹の視界の端に、部屋の隅に置かれた「あるもの」が飛び込んできた。
それは、ホコリを被った古いギターケースだった。
バンドを辞めたあの日から、一度も開けることなく、現実の象徴として放置していたはずのケース。
なぜか、そのギターケースだけは、文字に退化することなく、生々しい黒い革の質感と、真鍮の金具の鈍い光沢を放ち、圧倒的な「現実味」を持ってそこに存在していた。
樹は這うようにしてケースに近づき、震える手で金具を外した。
バチン、と重い音が部屋に響く。
蓋を開けると、中には彼が二十代のすべてを捧げた、赤色のフェンダー・テレキャスターが横たわっていた。
樹は、文字の砂がこぼれ落ちる右手で、そのネックを握りしめた。
その瞬間。
――ガツン! と、脳髄に強烈な衝撃が走った。
頭の奥で、あの完璧なバラードの旋律が、鼓膜が破れんばかりの大音量で鳴り響く。
そして、それと同時に、あの「白い錠剤」を大量に飲み干そうとしている、絶望に満ちた男の「泣き声」が、はっきりと耳に届いた。
『助けてくれ……誰か、俺を、この地獄から……』
その声は、他人のものではなかった。
紛れもない、**朝比奈樹**の声だった。
(違う。何かがおかしい)
樹は、激しい目眩に襲われながら、必死に思考を巡らせた。
なぜ、このギターだけが、こんなに生々しい現実の感触を持っている?
なぜ、本の中のロックスターの自分が、これほどまでに苦しみ、泣いている?
真相は分からない。だが、一つだけ確信できることがあった。
すべての答えは、あの『分岐点の図書館』にある。あの藍色の本を、この手でどうにかしなければ、俺の人生は本当の意味で終わってしまう。
樹は赤いギターを背負い、再び、あの文字の砂嵐が吹き荒れる外の世界へと飛び出した。




