第2章:もしも、あのステージに立てていたら
1. 陶酔のインク
藍色の本を開いた瞬間、再び世界が反転した。
今度はステージの上ではなかった。薄暗く、煙草と機材の匂いが染み付いた、都内の地下にあるレコーディングスタジオだった。
『――今のテイク、最高だったな! 樹、お前の声、バッチリ録れてるぞ!』
分厚い防音ガラスの向こう側から、プロデューサーが興奮した声で叫んでいる。
樹は防音ブースの中でヘッドホンを外し、汗ばんだ前髪を乱暴に掻き上げた。肺には、歌い切った後の心地よい疲労感と、熱い酸素が満ちている。
ブースを出ると、ソファに深く腰掛けていたマサが、ニヤリと笑ってコーラを投げ渡してきた。
『お疲れ。お前の書く曲は、やっぱり化け物だな。さっきのサビ、弾きながら鳥肌立っちまったよ』
『お前がベースラインを勝手に変えるからだろ。でも、悪くなかった』
『だろ?』
マサと拳を突き合わせる。その手のひらの熱、コーラの缶の冷たさ、炭酸が喉を焼く痛覚。すべてが圧倒的な解像度を持って、樹の脳髄を揺さぶる。
これは、あの時バンドを辞めず、インディーズで泥水をすすりながらも這い上がり、ようやく掴み取ったメジャーデビューアルバムのレコーディング風景だった。
ページをめくる(という感覚はないが、物語が進む)たびに、樹は「成功への階段」を駆け上がっていった。
初めて自分たちの曲がラジオから流れた日の、小さな居酒屋での狂喜乱舞。
大型フェスに出演し、最初は誰も立ち止まらなかったステージの前に、曲が進むにつれて数千人の波が押し寄せてきたときの、あの全身の産毛が逆立つような万能感。
そして、憧れだった音楽番組に出演し、スポットライトを一身に浴びながら、全国の視聴者に向けて自分の魂を叩きつけた夜。
すべてが、甘美だった。
承認欲求が、これ以上ないほどの極上の形で満たされていく。自分の才能が世界に認められ、愛され、求められている。
音楽だけではない。長年付き合って、貧乏時代を支えてくれた恋人との同棲生活。彼女に初めて、高級なレストランで指輪を渡したときの、涙ぐんだ笑顔。
人生のすべてが、まばゆい光に包まれていた。
「朝比奈様。本日は、ここまでです」
突然、鼓膜を劈くようなノイズとともに、視界が乱れた。
永遠の冷たい声が、強引に樹の意識を「現実」へと引き戻したのだ。
「……っ、あ……」
樹は机に突っ伏したまま、肩で激しく息をした。全身が汗だくになっていた。
手元には、パタンと閉じられた藍色の本がある。
永遠が、静かにアンティークの懐中時計を仕舞うところだった。時刻は深夜零時を回っている。
「もっと……読ませてくれ。まだ、ツアーの初日が終わったばかりなんだ」
樹はすがるような目で、永遠を見上げた。
「お願いだ。あそこには、俺のすべてがある。俺が本当に生きたかった時間が、全部詰まってるんだ!」
「お気持ちは分かりますが、閉館時間は絶対です。ここはあくまで、可能性を一時的に『閲覧』するだけの場所。のめり込みすぎれば、隣の彼女のようになってしまいますよ」
永遠の視線の先を追うと、少し離れた席で、水瀬栞が突っ伏して眠っていた。
いや、眠っているのではない。深紅の本に顔を押し当てたまま、ピクリとも動かない。そして、彼女の背中や肩の輪郭は、昨日よりもさらに薄く、向こう側の本棚の木目がはっきりと透けて見えていた。
「帰宅なさいませ、朝比奈様。あなたの帰るべき『現実』へ」
永遠の言葉は、氷のように冷たく、そして残酷だった。
2. 空白の同僚たち
翌朝、樹は這いずるようにして出社した。
睡眠時間は十分に取ったはずなのに、身体の芯に鉛が入っているように重い。
だが、身体の重さ以上に彼を苛んだのは、オフィスの「異様さ」だった。
パソコンの電源を入れ、社内システムにログインしようとする。
キーボードを打とうとした指先が、ふいに止まった。
パスワードが、思い出せない。
毎日、何十回と打ち込んできたはずの英数字の羅列が、頭のどこを探しても見つからないのだ。
「……おい、嘘だろ」
それだけではない。
周囲を見渡すと、同僚たちが忙しなく歩き回り、電話の応対をしている。
『はい、お世話になっております。株式会社〇〇の……』
『午後の会議の資料ですが……』
彼らの声が、ひどく遠い。まるで、水底から水面の上の会話を聞いているように、輪郭がぼやけ、くぐもっている。
そして、何より恐ろしいのは、彼らの顔だった。
目、鼻、口。パーツは確かにそこにある。だが、それが誰の顔なのか、どうしても認識できない。のっぺらぼうに見えるわけではないのに、「個性」という情報がすっぽりと抜け落ちているのだ。マネキンにスーツを着せて、機械仕掛けで動かしているような、得体の知れない不気味さがあった。
(現実が……崩れかけている?)
永遠の言葉が脳裏に蘇る。
『人間の存在の確かさとは、その世界への執着の強さに比例します』
樹の心は、すでにあの藍色の本の中――「音楽で成功した華やかな世界」に囚われている。退屈で惨めなこの事務職の現実に、一切の未練も興味も失ってしまったのだ。
だから、世界が解像度を下げている。
どうでもいい端役の顔など、脳が処理するのを拒否しているかのように。
「朝比奈くん」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、初老の男性が立っていた。恰幅が良く、白髪混じりの頭。おそらく自分の部署の課長だろう。だが、名前が出てこない。
「あ、はい……」
「君、先週頼んでおいたB社の見積もり、まだ上がってきてないんだけど。どうなってる?」
「え……あ、すみません。今、確認を……」
「困るよ。君にはもう少し、責任感を持って仕事に取り組んでもらわないと」
課長の口が動いている。説教をしている。
だが、樹の心には何の感情も湧かなかった。怒りも、申し訳なさも、焦りも。ただ、「背景のノイズがうるさい」としか感じられない。
それよりも、樹の右手は無意識のうちに、デスクの端を激しく叩いていた。
タタタタ、タタタタタタ、タンッ。
親指でベース音を弾きながら、残りの指でメロディを奏でる、高度なスラップ奏法の動き。
それは、ただのアマチュアが真似できるレベルの動きではなかった。何万時間と楽器に触れ、血の滲むような反復練習を繰り返し、プロのステージで幾度も極限のパフォーマンスをこなしてきた人間だけが持つ、筋肉と神経の反射だった。
「おい、朝比奈。聞いてるのか?」
課長が眉をひそめる。
「……あ。はい、聞いてます。すぐに出します」
樹は無理やり右手を太ももの下に敷き、謝罪の言葉を口にした。
時計の針が、異常に遅く感じられた。
早く夜になってほしい。早く、あの図書館へ行きたい。
この薄っぺらい現実なんてどうでもいい。俺の本当の居場所は、あの本の中にあるんだ。
樹の心は、完全に甘美な毒に侵され始めていた。
3. 共犯者の少女
その日の夜も、樹は雨の降る中を駆け抜け、『分岐点の図書館』の重い扉を開けた。
カラン、という鈴の音が響く。
「いらっしゃいませ」
永遠がカウンターの奥から一礼する。その手元には、すでに藍色の本が置かれていた。
樹は一目散にその本へ向かおうとしたが、ふと、閲覧席に目をやった。
水瀬栞がいた。
今日もまた、深紅の本を抱きしめるようにして読んでいる。
樹は彼女の隣の席に座り、恐る恐る声をかけた。
「……栞さん」
栞がゆっくりと顔を上げた。
彼女の顔を見た瞬間、樹は息を呑んだ。
彼女の左頬のあたりが、ごっそりと「透けて」いたのだ。後ろにある本棚の背表紙の文字が、彼女の顔の皮膚を通して、逆さまに読み取れるほどだった。
「あ……朝比奈、さん」
栞の声も、ノイズが混じったラジオのように途切れ途切れだった。
「君、その身体……もう、限界じゃないのか。それ以上読んだら、本当に消えちまうぞ」
樹の警告に、栞は薄く、ひどく悲しそうな微笑みを浮かべた。
その笑顔すら、輪郭がブレて二重に見える。
「……いいんです」
彼女は、深紅の本の表紙を愛おしそうに撫でた。
「私が読んでいるのは、『もしもあの雨の日、お姉ちゃんの代わりに私がスーパーに行っていたら』という本です。……現実の私は、面倒くさがって、お姉ちゃんに行かせました。そして、お姉ちゃんは飲酒運転の車に撥ねられて、死んだんです」
栞の目から、透明な涙がこぼれ落ちる。
それは机に落ちる前に、光の粒子となって空中で消滅した。
「でも、この本の中では、私が車に撥ねられます。私は大怪我をして、ずっと車椅子生活になってしまうけど……お姉ちゃんは、生きてる。無傷で、元気に笑って、私の車椅子を押してくれるんです。……そんな幸せな世界があるのに、どうして、お姉ちゃんが死んだ現実に帰らなくちゃいけないんですか?」
樹は言葉に詰まった。
彼女にとって、現実は「耐えがたい地獄」であり、本の中の『もしもの世界』こそが、唯一呼吸ができる場所なのだ。
「朝比奈さんの本は……どんな世界なんですか?」
栞が、樹の手元にある藍色の本を見つめて尋ねた。
「俺の本は……」
樹は本に手を置いた。
「音楽を辞めずに、夢を叶えた俺の人生だ。大勢のファンに囲まれて、最高の仲間がいて、自分の作った歌が世界中に届いている。……今の、底辺で惨めな事務職の俺とは、まるで違う」
「そうですか……」
栞は、少しだけ安堵したように目を細めた。
「朝比奈さんも、私と同じですね。この狂った現実から逃げ出したい『共犯者』」
共犯者。
その言葉が、樹の胸に重く響いた。
互いに、帰るべき現実を憎み、存在しない虚構の幸せに魂を売ろうとしている。
「ねえ、朝比奈さん」
栞は、透けかけた手を伸ばし、樹の袖を軽く掴んだ。指先の感触は、ほとんどなかった。冷たい空気が触れたような感覚だけ。
「もし、私が完全に消えて、あの本の中の世界に行ってしまったら。……朝比奈さんは、現実で、私のことを忘れてしまいますか?」
その問いに、樹は胸を締め付けられた。
永遠の言葉によれば、彼女が本の世界に取り込まれれば、現実世界からは彼女の存在そのものが消去される。誰の記憶にも残らない。
「忘れない」
樹は、衝動的に彼女の透けた手を、自分の両手で包み込んだ。
「俺だけは絶対に忘れない。君がここで、お姉ちゃんのために泣いていたことを。俺が、君の存在を現実に繋ぎ止める」
栞は少し驚いたように目を見開き、それから、今までで一番綺麗な笑顔を見せた。
「……ありがとうございます。朝比奈さんって、本当に優しい人なんですね」
栞は手を引き抜き、再び深紅の本へと視線を落とした。
樹もまた、藍色の本を開いた。
(そうだ。俺が彼女を止めるんだ。二人で、こんな狂った図書館から抜け出して、現実に帰るんだ)
そう決意しながらページをめくったはずだった。
だが、次の瞬間には、東京ドームの鼓膜を破るような大歓声が、樹の決意も、栞との約束も、すべてを真っ白に塗り潰してしまった。
スポットライトの熱狂の中で、樹は自分でも気づかないうちに、恍惚の笑みを浮かべていた。
4. 狂熱と一錠のノイズ
――ズァアアアアアアアアアッ!
数万人の歓声が、巨大なスタジアムのすり鉢状の空間で反響し、鼓膜を物理的に殴りつけてくる。
藍色の本の中の世界。
樹は、全国アリーナツアーの最終日、そのアンコールのステージの中央に立っていた。
全身から汗が噴き出し、着ているTシャツは重く肌に張り付いている。だが、疲労よりもアドレナリンが勝り、身体は羽のように軽かった。
『愛してるぜ、東京! 最後の曲だ、全部置いていけ!』
マイクスタンドを蹴り倒す勢いで叫ぶと、歓声はさらに一段階上の絶叫へと変わった。
イントロのギターリフをかき鳴らす。マサのベースが内臓を震わせ、ドラムのキック音が心臓の鼓動と完全にリンクする。
無数のペンライトが、闇の中で青や赤に明滅し、まるで宇宙の星屑の海に浮かんでいるような錯覚を覚えさせた。この星の海を統べる神は、間違いなく今の自分だった。
歌うたびに、言葉が光の矢となって数万人の心に突き刺さっていく感覚。
誰一人として自分から目を離さない。誰もが自分の存在を全肯定し、涙を流して名前を呼んでいる。
(最高だ。これ以上の幸せなんて、この世に存在しない――)
樹は恍惚の笑みを浮かべ、高音のロングトーンを完璧に歌い切った。
その瞬間、銀テープがキャノン砲から打ち出され、スタジアムは光と音の洪水に呑み込まれた。
数時間後。
熱狂が嘘のように静まり返った楽屋で、樹はソファに深く沈み込んでいた。
シャワーを浴びた濡れ髪をタオルで拭きながら、冷えたミネラルウォーターを一気に煽る。
『お疲れ、樹』
マサが隣にどっかりと座り、スポーツドリンクのペットボトルをぶつけてきた。
『最高のツアーファイナルだったな。お前、最後のサビでちょっと泣いてただろ』
『泣いてねぇよ。汗が目に入っただけだ』
『強がるなって。俺も危なかったんだからよ』
マサが快活に笑う。その笑顔には、雨の日の路地裏で見かけたあの惨めな面影は微塵もない。
彼もまた、樹の音楽によって救われ、共に頂点へと登り詰めた「最高の相棒」なのだ。
『……でもさ』
ふと、マサが少しだけ声を落とした。
『お前、最近ちょっと顔色悪いぜ。目の下のクマ、メイクで隠しきれてない。曲作りで根詰めるのもいいけど、ちゃんと寝てるか?』
『え?』
樹は首を傾げた。
本の中の自分は、絶好調のはずだ。愛する音楽を奏で、大衆に受け入れられ、何一つ不満のない完璧な日々を送っている。
だが、マサに言われて鏡を見ると、確かに自分の顔は青白く、目の奥にはひどく疲弊したような濁りが沈殿していた。
『あー……ちょっと、アドレナリンが出すぎて、夜うまく眠れなくてさ』
自分の口が、勝手に言い訳を紡ぎ出す。
『ほら、これ。医者に処方してもらった睡眠導入剤。これ飲めば一発だから心配すんなって』
樹の右手は、無意識のうちにポーチから小さなピルケースを取り出していた。
中には、真っ白な錠剤がいくつか入っている。
それを見た瞬間、樹の脳内に「ノイズ」が走った。
――ジリッ。
視界が一瞬だけ、テレビの砂嵐のように乱れた。
薬の白い色を見た途端、猛烈な吐き気と、重く冷たい「孤独感」が背筋を駆け上がってきたのだ。何万人に囲まれていても絶対に埋まらない、底なし沼のような虚無。心臓を鷲掴みにされるようなプレッシャー。
(なんだ、これ……?)
樹は胸を押さえた。
この本の中の自分は「幸せの絶頂」にいるはずなのに、なぜこんな得体の知れない恐怖が湧き上がってくるのか。まるで、この完璧な世界の裏側に、恐ろしい地獄が口を開けて待っているような――。
「朝比奈様」
不意に、上から声が降ってきた。
と同時に、楽屋の景色も、マサの顔も、白い錠剤も、すべてが煙のように吹き飛んだ。
「本日は、ここまででございます」
気がつくと、樹は古びた図書館の机に突っ伏していた。
荒い息を吐きながら顔を上げると、司書の永遠が、白手袋の手で藍色の本を閉じるところだった。
時計の針は、またしても深夜零時を指している。
隣の席に目をやると、水瀬栞はすでに帰った後なのか、姿がなかった。
「……永遠」
樹は、脂汗の浮かんだ額を拭いながら尋ねた。
「俺の、本の中の俺は……本当に、幸せなんだよな?」
永遠は、無表情のまま樹を見下ろした。
「もちろんです。その本は、あなたが手に入れるはずだった『最高の成功』を記録したものですから。大衆の賞賛、富、名声。すべてを手に入れた、選ばれし者の人生です。……なぜ、そのようなことを?」
「いや……なんでもない」
気のせいだ。幻覚に幻覚を重ねているせいで、脳が混乱しているだけだ。
樹はふらつく足で立ち上がった。
早く帰って、寝なければ。明日もまた、あの退屈で無意味な「現実」の仕事が待っているのだから。
5. 融解する世界
しかし、「現実」はすでに、樹の帰る場所ではなくなりつつあった。
翌朝。
マンションの部屋で目を覚ました樹は、ベッドから起き上がろうとして、床に足をついた。
――その足が、フローリングの床を「すり抜けた」のだ。
「え……?」
くるぶしの辺りまでが、木製の床下に沈み込んでいる。
痛みはない。まるでゼリーの中に足を踏み入れたような、奇妙な浮遊感があった。
「ひっ……!」
樹が慌てて足を引っ込めると、足はズボリと音を立てて抜け出し、今度はちゃんとフローリングの固い感触を捉えた。
冷や汗が全身から噴き出す。
震える足で洗面所へ向かい、鏡の前に立った。
「あ、あ、あああ……」
鏡に映っていたのは、もはや人間の顔ではなかった。
輪郭がピクセル状に崩れ、目も鼻も口も、ドロドロに溶けた絵の具のように混ざり合っている。首から下は、ワイシャツを通して向こう側の洗面台のタイルが微かに透けて見えていた。
栞と同じだ。
俺は今、現実世界から消えかけている。
パニックになりながらも、樹はどうにか身支度を整え、逃げるように部屋を飛び出した。
すがるような思いでオフィスへ向かった。会社に行き、仕事をし、同僚と会話をして「社会との繋がり」を実感できれば、この希薄になってしまった自分の存在を繋ぎ止められるかもしれないと考えたからだ。
だが、オフィスは異界と化していた。
自分のデスクに座る。
周囲からは、電話の音やキーボードの打鍵音、話し声が聞こえる。
しかし、視界に入る同僚たちの姿は、完全に「シルエット」になっていた。
顔のパーツがないどころか、立体感すらない。グレーや黒の紙を人型に切り抜いたようなペラペラの影が、オフィスの空間を滑るように動いているだけなのだ。
『〇〇〇〇、〇〇〇?』
隣の席の影が、樹に向かって何かを言った。
声が、人の言語の体を成していなかった。機械のノイズのような、あるいは水中でくぐもったような音。
「な、なんだよ。何を言ってるんだ……?」
樹は恐怖で声を震わせた。
パソコンの画面に目を向ける。
昨日までなんとか読めていたExcelの文字は、すべて「象形文字」か「虫の死骸」のような黒いバグの塊に文字化けしていた。
時計の針を見ても、数字が融けていて何時なのか分からない。
世界から、意味が剥がれ落ちていく。
樹の脳が、この事務職としての現実を「処理不要の不要データ」として完全にシャットアウトしようとしているのだ。
(狂う。頭がおかしくなりそうだ……っ!)
樹は立ち上がった。
その時、自分の右手が、またしてもデスクの上で激しくタッピングを刻んでいることに気づいた。
タタタタタ、タタタタタタタッ!
そのプロフェッショナルな動きだけが、今の彼にとって唯一、圧倒的なリアリティを放っていた。
(そうだ。俺には音楽がある。俺の現実は、あそこにあるんだ……!)
樹は鞄を掴み、オフィスを飛び出した。
背後で影たちが『〇〇、〇〇〇!』と呼び止めるようなノイズを発したが、振り返ることなく駆け出した。
まだ昼休みにもなっていない時間帯だったが、関係なかった。どうせもうすぐ、この世界の誰も自分のことなど認識できなくなる。消えてしまうのだ。だったら、完全に消える前に、あの図書館へ行き、本の中の「本当の自分」の世界へダイブするしかない。
明るい昼間の街を、樹は走り続けた。
すれ違う人々はすべて黒い影に見えた。
信号の赤と青の区別すら曖昧になっていく中、樹は本能と記憶だけを頼りに、あの路地裏を目指した。




