表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未読の人生図書館  作者: 臥亜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/6

第1章:日常のインクと、雨の図書館

1. 輪郭の滲む場所

 カタカタと、爪がキーボードを叩く乾いた音だけが、ひどく静まり返ったフロアに響いていた。

 午後五時四十五分。オフィスの蛍光灯は、どこか青白い病室のような光を放ち、デスクに並んだグレーのパーテーションを冷たく照らしている。

 朝比奈樹あさひな いつきは、パソコンの液晶画面に表示されたExcelのシートを見つめていた。

 並んでいるのは、今月の消耗品費の申請データと、それに対応する勘定科目のコード番号だ。

『104-0021、104-0021……』

 頭の中で数字を反芻しながら、テンキーを叩く。指先は淀みなく動いているはずだった。しかし、ここ一週間ほど、夕方になると奇妙な現象が起きる。

 画面の文字を見つめていると、突然、その輪郭がじわじわと滲み始めるのだ。まるで、水を含んだ習字紙に落としたインクのように、文字の境界線が融けていく。

「……またか」

 樹は眼鏡を外し、眉間を強く揉みほぐした。

 三十二歳。老眼には早すぎる。眼科にも行ったが、眼圧も視力も異常なしと言われた。医師からは「ただの心因性の疲労でしょう」と、気休めのような目薬を処方されただけだった。

 もう一度眼鏡をかけ、画面を見る。文字は元の鋭いデジタルフォントに戻っていた。だが、隣のデスクで同じようにキーボードを叩いている同僚の横顔に目を向けたとき、妙な胸騒ぎがした。

 名前は、確か……。

 毎日席を並べ、昼食を共にしたこともある男だ。なのに、その名字がどうしても思い出せない。佐藤だったか、鈴木だったか。いや、もっと違う、ありふれた名前だったはずだ。

「なぁ、朝比奈」

 突然、その同僚がこちらを振り向いた。

 樹はびくりと肩を揺らす。

「あ、ああ。何?」

「今日の分の小口現金の締め、もう終わった? 課長がさ、早く回してくれって言ってたから」

「あ、うん。あと少しで終わる」

 答えた自分の声が、ひどく掠れていて、まるで他人の喉から出た音のように耳に届いた。

 同僚は「そっか、よろしく」とだけ言って、また画面に向き直る。その瞬間、樹は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 同僚の顔。そのパーツが、なぜか思い出せない。今、確かに数センチの距離で目をつむり、鼻の形を見ていたはずなのに、彼が前を向いた瞬間、記憶の中の彼の顔が「のっぺらぼう」のように平坦なイメージに書き換わってしまうのだ。

(疲れている。本当に、頭がおかしくなっているのかもしれない)

 樹は思考を振り切るように、再びテンキーに指を走らせた。

 そのときだ。

 パチパチパチパチパチ、と、樹の右手が突如として、恐ろしいほどの速度でデスクの木目を叩き始めた。

 それはデータを入力する指の動きではなかった。親指、人差し指、薬指、小指が、まるで独自の意志を持った生き物のように、複雑極まるリズムを刻んでいる。

「っ……!」

 樹は左手で、暴れる右手の手首を強く掴んで抑え込んだ。

 指先がジンジンと熱い。

 今の動きは、かつて彼が命を懸けていたものの名残だった。ギターの指板を激しくタッピングする、高度なソロフレーズの運指。

 樹は、二十代のすべてをバンド活動に捧げていた。

 下北沢や渋谷の小さなライブハウスで、客が数人しかいないステージに立ち、声を枯らして歌っていた。作詞作曲はすべて樹が手がけていた。自分には才能がある、いつか必ずこの世界をひっくり返せる。本気でそう信じていた。

 だが、二十九歳の冬、バンドのメジャーデビューの道が立ち消えになったとき、何かがプツリと切れた。メンバーは「もう一年だけ頑張ろう」と言ってくれたが、樹はこれ以上、未来のない暗闇を歩くことに耐えられなかった。

「俺は降りる」

 そう言い残してバンドを脱退し、ギターをケースに仕舞い込み、ハローワークへ行った。そうして手に入れたのが、この地味で、退屈で、誰の記憶にも残らない事務職という「現実」だった。

(終わったことだ。あの選択は間違っていなかった。これで良かったんだ)

 自分に言い聞かせるように、樹はネクタイを少し緩めた。

 頭の奥で、かすかにメロディが鳴っている。

 それは、樹がバンドを辞める直前に作った、未完成のバラードだった。サビのコード進行がどうしても決まらず、そのままお蔵入りになった曲。

 切なく、しかしどこか圧倒的な広がりを持つその旋律は、不思議なことに、今の樹の頭の中では完璧な形で再生されていた。ベースのラインも、ドラムのフィルインも、ストリングスの美しいアレンジすらも、最初からそこにあったかのように完璧に鳴り響いている。

(まだ誰も知らない、俺だけの名曲……)

 樹は小さく自嘲の笑みを浮かべた。

 どれだけ脳内で完璧な音楽を奏でようと、今の自分はただの数字の奴隷だ。

 時計の針が午後六時を回る。退勤のチャイムが、オフィスの天井から無慈悲に降り注いだ。

2. 土砂降りの境界線

 オフィスビルを出ると、夜の街は激しい雨に見舞われていた。

 梅雨の雨は執拗で、アスファルトを叩く音が街の雑音をすべてびしょ濡れにしている。

 樹はビニール傘を開き、駅へと向かう人の波に紛れた。サラリーマンやOLたちの黒い傘が、まるで這い回る虫の背甲のように連なっている。

 駅前のスクランブル交差点で、信号待ちのために立ち止まった。

 大型ビジョンからは、今をときめく人気ポップバンドの新曲ミュージックビデオが、大音量で流れている。きらびやかな映像と、キャッチーなメロディ。周囲の若者たちが「この曲、いいよね」と話しているのが聞こえる。

 樹は首をすくめ、視線を地面に落とした。

 羨望がないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、彼らを襲う「現実の重み」を想像してしまう。売れ続けることのプレッシャー、大衆の目に晒される恐怖。音楽の道に進まなかった自分は、少なくともあの地獄からは守られているのだと、自分を納得させるための言い訳が口をついて出そうになる。

 信号が青に変わり、人の波が動き出す。

 その時、すれ違った一人の男の肩が、樹の左肩に激しくぶつかった。

「あ、すみませ――」

 言いかけて、樹は息を呑んだ。

 ぶつかった相手は、ずぶ濡れのフードを深く被った若い男だった。男は謝ることもなく、うつむいたまま足早に去っていく。

 だが、その横顔。フードの隙間から見えた、鋭い顎のラインと、耳の後ろにある小さな火傷の痕。

(……マサ?)

 それは、樹がかつて組んでいたバンドのベーシスト、マサだった。

 樹がバンドを辞めた後、マサたちは別のボーカルを入れ、今もアマチュアとして活動を続けていると風の噂で聞いていた。

 マサの背中が、雨の向こうへと消えていく。その足取りは重く、背負ったベースケースがひどく寒々しく見えた。今もまだ、売れない音楽の沼で燻り、苦しんでいるのだろうか。

「マサ……」

 声をかけようとしたが、言葉は雨音にかき消された。

 同時に、胸を刺すような罪悪感と、同時に醜い安堵感が湧き上がる。

(俺はあの中に残らなくて良かった。あそこにいたら、俺もマサみたいに、ボロボロになって雨の中を彷徨っていたはずだ)

 逃げるように、樹はいつもの帰路から外れた。マサとこれ以上近づきたくなかった。

 駅へ向かう大通りを避け、薄暗い住宅街の路地へと入る。古い木造家屋と、コンクリートの塀が続く道だ。雨はますます激しさを増し、ビニール傘を叩く音がドラムのロールのように耳を塞ぐ。

 どこを歩いているのか、分からなくなっていた。

 何度か角を曲がるうちに、街灯の明かりすら届かない、奇妙に静まり返った路地裏に出た。

 雨の音が一瞬、遠のいたような気がした。

 その路地の突き当たりに、周囲の景色から完全に浮き上がった建物が佇んでいた。

 大正時代に建てられたかのような、重厚なスクラッチタイル貼りの洋館。ツタが絡まる外壁には、真鍮製の小さなプレートが掲げられており、街灯の鈍い光を反射している。

『分岐点の図書館』

 微かに開いた木製の重い扉から、温かみのある琥珀色の光が漏れていた。

 吸い寄せられるように、樹はその扉へと歩を進めた。靴の裏が泥を噛む音が、妙に生々しく響いた。

3. 藍色のページ

 ドアを押し開けると、カラン、と、真鍮の鈴が可憐な音を立てた。

 一歩足を踏み入れた瞬間、外の激しい雨音が完全に消失した。あまりの静寂に、自分の耳が詰まったのかと思うほどだった。

 空気はひんやりとしており、古い紙と、わずかにバニラに似た甘いインクの匂いが漂っている。

 目の前に広がっていたのは、圧倒的な「本」の壁だった。

 床から、見上げるほど高い天井まで、びっしりと木棚が組み上げられ、そこには無数の革装丁の本が整然と並んでいる。背表紙の色は、深紅、漆黒、深緑、そして深い藍色。そのすべてに、金色の文字で何かしらの文字列が刻まれていた。

「いらっしゃいませ。迷い子のお客様」

 背後からかけられた声に、樹はびくりとして振り返った。

 いつの間にそこに立っていたのか。

 カウンターの奥に、一人の人物が佇んでいた。

 仕立てのいい黒い三つ揃えのスーツを着ているが、その顔立ちは驚くほど整っており、少年とも青年とも、あるいは美しい女性とも取れる、年齢不詳の容貌をしていた。髪は夜の闇のように黒く、両手には清潔な白い手袋はめられている。

 名札には、ただ一言、グレーの文字で『永遠とわ』とだけ書かれていた。

「ここは……古本屋か何かですか?」

 樹は、自分の声が床に吸い込まれていくような奇妙な感覚を覚えながら尋ねた。

「いいえ。ここは図書館です」

 永遠は、感情の起伏がない、しかし耳に心地よい声で微笑んだ。

「ただし、世間一般の図書館とは、少しだけ置いているものが違います。ここに並んでいるのはすべて、人間が人生の分岐点で『選ばなかった方の未来』です」

「選ばなかった、未来?」

「ええ。人は日々、選択を繰り返します。今日の昼に何を食べるかといった小さなことから、どの学校に進むか、どの職業に就くか、誰と別れるかといった大きなことまで。あなたが選んだ道は『現実』となり、選ばなかった道は可能性の泡として消える……と、人間は思っています。ですが、それは間違いです。選ばれなかった未来は、消えることなく、ここに本として記録され、保管されるのです」

 永遠の言っていることは、洗練された冗談か、あるいは質の悪い新興宗教の勧誘のように聞こえた。

 樹は苦笑し、首を振った。

「おとぎ話としては面白いね。じゃあ、俺がもしあの時、別の道を選んでいたらっていう本も、ここにあるっていうのか?」

「もちろんです、朝比奈樹様」

 名前を呼ばれ、樹の身体が硬直した。

「なぜ、俺の名前を……」

「この図書館に迷い込む方は、皆、強い『未練の匂い』をまとっていらっしゃいますから。本棚が、自ずとあなたを呼ぶのです」

 永遠は白手袋の手を滑らかに動かし、カウンターのすぐ横にある棚から、一冊の本を抜き出した。

 それは、夜空を切り取ったような、深い藍色の革装丁の本だった。

 表紙には、はっきりと金色の文字で刻まれている。

『朝比奈 樹』

「さあ」

 永遠が、その本を両手で恭しく差し出してきた。

「あなたの『選ばなかった人生』です。読むかどうかは、あなた次第ですが……どうなさいますか?」

 樹は唾を飲み込んだ。

 金色の文字が、悪魔の誘惑のようにまたたいている。

  rational(理性的)な自分が「そんなわけがない、ただの悪質なドッキリだ」と叫んでいた。しかし、この数週間、頭の奥で鳴り止まないあの完璧なメロディが、激しく彼を急かしていた。

 伸ばした樹の手が、藍色の表紙に触れる。

 本は、生き物の肌のように、微かに温かかった。

4. 溢れ出す旋律

 本を開いた瞬間、樹の視界から「図書館」の景色が完全に消失した。

 ――いや、消失したのではない。上書きされたのだ。

 鼓膜を激しく震わせたのは、地鳴りのような地声の嵐だった。何万もの人間が、一つの名前を絶叫している。その波動が、皮膚を、骨を、内臓を直接揺さぶる。

 視界を埋め尽くしたのは、天を衝くような光の帯だった。赤、青、紫のレーザーが、スモークの立ち込める空間を縦横無尽に切り裂いている。

 熱い。肌がじりじりと焼けるような熱量。

 樹は自分が、無数の照明に照らされた巨大なステージの中央に立っていることに気づいた。

 手元には、使い込まれた黒いストラトキャスター。アンプから吐き出されるフィードバックノイズが、彼の左太ももを通じて心地よく響いている。

 すぐ後ろを振り返ると、ドラムセットの向こうで、汗だくになった男がスティックを高く掲げて笑っていた。

 ステージの左手には、見覚えのある、しかし少し大人びた横顔。ベースのネックを握りしめ、うねるような重低音を刻んでいる男――マサだ。彼は雨の中で見かけた悲惨な姿とは似ても似つかない、自信に満ち溢れたロックスターの顔をしていた。

「――いくぞ、東京ドーム!」

 マイクを握りしめた樹の口から、自分でも驚くほど艶のある、圧倒的な声量を持った声が放たれた。

 歓声がさらに一段、高く弾ける。

 樹の指先が、流れるようにギターの指板を滑った。

 頭の奥で鳴り響いていた、あの未完成だったはずのバラード。それが、完璧なアレンジ、完璧な音響、そして何万人の歌声とともに、今まさにこの空間で演奏されている。

 サビに向けて、ストリングスの劇的な旋律が重なる。樹は声を張り上げた。胸が張り裂けんばかりの感情を歌に乗せて、解き放つ。

(これだ。これなんだ。俺が、本当に欲しかったのは――)

 涙が出そうだった。五感のすべてが、この世界の存在を肯定していた。 officeでの退屈なデータ入力や、擦り切れたビニール傘、名前も思い出せない同僚たちのいる世界なんて、すべて質の悪い悪夢だったのではないかと思えるほどに、このステージの上こそが「現実」だと感じられた。

「朝比奈様。朝比奈様、そこまでに」

 冷ややかな声が、頭上から降ってきた。

 ハッと息を呑んだ瞬間、眩い光も、身体を震わせる重低音も、すべてがインクが乾くように急激に色褪せ、消え去った。

 気がつくと、樹は古びた洋館の、琥珀色のランプに照らされたカウンターの前に立っていた。

 手元には、開かれたままの藍色の本。

 永遠の、白い手袋をはめた指が、本の上からそっと添えられ、パタンと静かにページが閉じられた。

「……あ」

 樹は、呆然と自分の両手を見た。

 さっきまで握っていたギターの感触が、まだ手のひらに残っているような気がした。しかし、目の前にあるのは、爪の短い、事務職の平凡な手のひらだった。

「今の、は……」

「あなたが、二十九歳の冬にバンドを辞めず、仲間たちと共に血の滲むような努力を続けた結果、手に入れた未来です」

 永遠は、表情一つ変えずに言った。

「その本には、あなたがその道を選んだ場合に歩む、すべての足跡が文字として刻まれています。嘘偽りのない、あなたの可能性の最高到達点です」

 樹の呼吸は荒くなっていた。心臓が、肋骨の裏側を壊れそうな勢いで叩いている。

 もっと読みたい。あの続きを、あの歓声の中に、もう一度だけ戻りたい。

「……その本を、貸してくれ」

 樹の声は、飢えた獣のようにかすれていた。

「お貸しすることはできません。この図書館の本は、館外への持ち出しが禁じられております」

 永遠は静かに首を振った。

「ですが、閉館時間までであれば、いつでもここで続きをお読みいただけますよ。当館は、迷い子の方に対して、いつでも扉を開いておりますから」

 時計を見ると、いつの間にか午後八時を過ぎていた。図書館に入ってから、ほんの数分しか経っていない感覚だったのに、現実の時間は無情に進んでいた。

「今日は、もう閉館の時刻です」

 永遠が、恭しく一礼する。

「またのご来館を、心よりお待ちしております。朝比奈様」

 樹は引き摺られるようにして、重い木製のドアを押し開け、外へと出た。

 再び、土砂降りの雨の音が彼の鼓膜を殴りつける。

 路地裏の冷たい空気を吸い込みながら、樹は胸の奥に灯った、形容しがたいギラギラとした飢餓感を、どうしても消し去ることができなかった。

5. 薄れる世界の住人たち

 翌朝、樹はひどい頭痛とともに目を覚ました。

 スマートフォンのアラーム音が、いつも以上に神経を逆撫でする。

 起き上がり、狭いワンルームマンションの洗面台へ向かった。鏡に向かって顔を洗おうとしたとき、手が止まった。

「……なんだ、これ」

 鏡に映る自分の顔。その輪郭が、妙にぼやけて見える。

 視力が落ちたわけではない。壁のタイルの目地や、歯ブラシの毛先ははっきりと見えているのに、自分の顔のパーツ――目や鼻や口の境界線だけが、まるで水彩画の絵の具が流れたように、不鮮明になっているのだ。

 目を強く瞑り、もう一度見直すと、今度は普通の顔に戻っていた。

「寝不足か……」

 樹は小さく溜息をつき、ネクタイを締めた。

 しかし、その日の職場での違和感は、寝不足という言葉では片付けられないほどに加速していった。

 オフィスに到着し、自分のデスクに座る。

 パソコンを立ち上げ、昨日引き継いだ書類に目をやる。だが、書類を作成したはずの「前任者の名前」の欄が、ただの黒い四角いシミにしか見えない。

 さらに、午前中のミーティングの最中だった。

 正面に座った課長が、熱心に今期の営業目標について語っている。だが、樹の耳には、課長の声が「あー、うー」という、意味を持たないただの音の羅列にしか聞こえなかった。

(落ち着け。大丈夫だ。俺は疲れているだけだ)

 必死に自分をコントロールしようとするが、周囲の景色が、まるで「手抜きの舞台セット」のように思えてくる。デスクのグレーの色、蛍光灯の白、同僚たちの着ているスーツの紺色。そのすべてが、どこか現実味を欠き、薄っぺらい紙で作られているかのような感覚。

 その反面、樹の脳裏で鮮明に蘇るのは、昨夜見たあの「藍色の本」の中の景色だった。

 東京ドームの凄まじい熱量。マサの弾けるような笑顔。自分の喉から溢れ出た、あの完璧な歌声。

 思い出すだけで、指先がピリピリと痺れる。

 気がつくと、樹の右手はペンを持ったまま、デスクの上で激しく「タッピング」の動きを繰り返していた。カチカチカチ、と小刻みな音が静かなフロアに響く。

「朝比奈くん、ちょっといいかしら」

 声をかけられ、樹は弾かれたように指を止めた。

 振り返ると、隣の部署の女性社員が立っていた。彼女とは何度か仕事の書類をやり取りしたはずだ。だが、やはり彼女の「顔」が、記憶の網の目からすり抜けていく。目元がどんな形だったか、唇にどんな色のリップを塗っていたか、見つめているそばから印象が融けていく。

「これ、先月の経費の精算書なんだけど、承認印が漏れていて」

「あ、すみません。すぐ確認します」

 彼女から書類を受け取ったとき、樹は息を呑んだ。

 彼女の指先が、ほんの一瞬、光に透けたような気がしたのだ。まるで、薄いトレーシングペーパーで作られたかのように、彼女の指の向こう側にあるオフィスの床が、微かに透けて見えた。

「……え?」

「じゃあ、よろしくね」

 彼女は特に気にした様子もなく、自席へと戻っていく。樹は自分の見間違いだろうかと、何度も目をこすったが、胸の奥のざわつきは収まらなかった。

 この世界が、何かに蝕まれている。

 あるいは、自分自身が、この世界から剥がれ落ちようとしているのだろうか。

 定時のチャイムが鳴った瞬間、樹は誰よりも早く荷物をまとめ、オフィスを飛び出した。

 向かう場所は、一つしかなかった。

6. 硝子の少女

 夜の雨は、昨日よりもさらに激しさを増していた。

 樹は、迷うことなくあの薄暗い住宅街の路地へと滑り込んだ。昨日一度通っただけの道のはずなのに、足が勝手に、最短ルートを選んで進んでいく。

 突き当たりに佇む、大正モダンの洋館。『分岐点の図書館』。

 ドアを押し開けると、昨日と同じように、カランと可憐な鈴の音が響き、外の豪雨の音が瞬時に遮断された。

「お待ちしておりました、朝比奈様」

 カウンターの奥で、司書の永遠が昨日と全く同じ、狂いのない角度で一礼した。その白い手袋の手元には、すでにあの藍色の本が用意されている。

「……ああ。今日も読ませてくれ」

 樹が歩み寄ろうとした、その時だった。

 館内の奥、閲覧用と思われる小さな木製デスクの席に、先客がいることに気づいた。

 そこに座っていたのは、一人の若い女性だった。

 年齢は二十代半ばほどだろうか。白いブラウスにグレーのスカートという、どこにでもいるオフィスカジュアルな服装をしていたが、彼女の雰囲気には、異様なまでの「薄さ」があった。

 彼女は、一冊の深紅の革装丁の本を両手で抱え込むようにして、貪るようにページを見つめていた。

 その目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ、本のページを濡らしている。だが、不思議なことに、彼女の涙が落ちた紙面はふやけることもなく、インクが滲むこともなかった。

「お姉ちゃん……ごめんなさい、ごめんなさい……。私が、あの時、お買い物を頼まなければ……」

 彼女の口から、消え入りそうな呟きが漏れる。

 樹はその光景に圧倒されながらも、彼女の「身体」に目を奪われた。

 気のせいではなかった。

 彼女が座っている木製の椅子の背もたれが、彼女の背中を透過して、はっきりとこちらから見えているのだ。彼女の腕も、指先も、まるで上質な硝子細工か、あるいは水面に映った幻影のように、背景の景色と混ざり合って半透明になっていた。

「永遠、彼女は……」

 樹は、声を潜めて司書に尋ねた。

「彼女は水瀬栞みなせ しおり様。当館の、少し先の段階に進まれたお客様です」

 永遠は、冷徹なほどに穏やかな声で答えた。

「先の段階? 身体が透けているじゃないか! あれは一体どういうことだ」

「簡単な理屈ですよ、朝比奈様」

 永遠は白手袋の手を胸元に当て、淡々と説明を続けた。

「彼女は、現実の世界――すなわち、自分の不注意で最愛の姉を亡くしたという、残酷な現在を生きることを放棄されました。そして、毎日のようにここへ通い、自分が身代わりになって姉が生き残ったという『選ばなかった方の人生』を読み続け、心をそちらへ移してしまったのです」

 永遠の目が、静かに樹の顔を射抜いた。

「人間の存在の確かさとは、その世界への執着の強さに比例します。あちらの世界を『本当の現実』だと強く望めば望むほど、今生きている世界の身体は意味を失い、このように薄くなっていくのです。彼女は間もなく、あちらの物語の登場人物となり、こちらの世界からは完全に消失するでしょう。……職場の人間も、家族も、最初から彼女など存在しなかったかのように、記憶から消し去られます」

 樹は、背筋が凍りつくような恐怖を覚えた。

 今朝、職場で見たあの女性社員の指が透けていたこと。同僚の顔が思い出せなくなっていたこと。

 それはすべて、樹自身がこの図書館に足を踏み入れ、あの藍色の本に心を奪われ始めたからではないのか。

「……そんなことが、許されるのか」

「選ぶのは、お客様自身です」

 永遠は、手元の藍色の本を静かに樹の方へと押し出した。

「地獄のような現実を泥をすすりながら生きるか。それとも、至高の幸福が約束された『もしもの世界』に魂を委ねるか。当館は、そのどちらの選択をも拒みません。さあ、朝比奈様。今日の分の続きを、どうぞ」

 差し出された本。

 その表紙から、微かにあの東京ドームの歓声が、幻聴のように耳の奥で鳴り響いた。

 樹は恐怖を感じながらも、その魅力に抗うことができず、震える手で再び、藍色のページをめくってしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ