エピローグ:交差する現在(いま)
あの日から、半年が過ぎた。
冬の入り口を感じさせる冷たい雨が、東京の街を濡らしている。
深夜のラジオ局。薄暗いブースの中で、朝比奈樹はマイクに向かって静かに語りかけていた。
『――というわけで、次にお届けする曲は、来週リリースの新曲です。今までのような派手なロックチューンじゃないし、シンセサイザーも一切使っていません。アコースティックギター一本と、俺の声だけ。すごく不格好で、泥臭い曲です』
樹は手元の原稿から目を離し、ガラスの向こうのディレクター席にいるマサと目を合わせた。マサは小さく頷き、親指を立てる。
『半年ほど前、俺はひどく疲れていて、すべてを投げ出したくなる夜がありました。そんな時、夢を見たんです。自分が音楽を諦めて、しがない事務員として生きている夢を。……でも、その夢の中で出会った人たちが、俺に「現実を生きろ」って教えてくれた。この曲は、その時の情けない自分と、夢の中で出会った「共犯者」に向けて書いた曲です。聴いてください。朝比奈樹で、『未読の図書館』』
ブース内に、静かで、しかし力強いアコースティックギターのイントロが流れ始める。
この半年で、樹を取り巻く環境は大きく変わった。
あの一錠の睡眠薬を捨てた翌日、樹はマサをはじめとするバンドメンバーを集め、初めて自分の弱さをすべてさらけ出した。プレッシャーで押しつぶされそうだったこと。クスリに逃げようとしたこと。
マサは激怒し、そして泣いた。「なんで水臭く一人で抱え込んでんだ、馬鹿野郎」と、デビュー当時と同じように樹の肩を殴った。
それ以来、バンド内の空気は嘘のように風通しが良くなった。過剰なタイアップや無理なスケジュールは断り、自分たちが本当にやりたい音楽だけを、自分たちのペースで作るようになった。
ファンの中には「丸くなった」「勢いが落ちた」と離れていく者もいたが、樹はもう気にしなかった。大衆の偶像であることを辞め、一人の不格好な人間として歌うことを選んだのだ。
一時間の生放送を終え、樹はブースを出た。
「お疲れ。今日もいい喋りだったぜ」
マサがスポーツドリンクを差し出してくる。
「サンキュ。外、まだ降ってるか?」
「ああ、結構な土砂降りだ。……そういや樹、宛先がお前の個人名義になってるファンレターが届いてたぞ。事務所が中身はチェック済みだけど、一応目を通しとけってさ」
マサから手渡されたのは、一通の封筒だった。
それを見た瞬間、樹の心臓がドクン、と大きく跳ねた。
深紅の封筒。
それは、あの雨の図書館で、水瀬栞が抱きしめていた本の表紙と、全く同じ色をしていた。
「……マサ、ちょっと先に戻っててくれ」
「ん? ああ、分かった。車で待ってるわ」
誰もいなくなった控室のソファに座り、樹は震える手で深紅の封筒を開封した。
中には、丸みを帯びた丁寧な字で書かれた便箋が三枚入っていた。
『朝比奈樹 様
突然のお手紙、申し訳ありません。私は、水瀬と申します。
長年、朝比奈さんの音楽に救われてきた一人のファンとして、どうしてもお伝えしたいことがあり、筆を執りました。』
手紙の差出人は、「水瀬栞」ではなく、彼女の姉を名乗る人物だった。
『私には、栞という三つ下の妹がいます。
一年ほど前、彼女は私の頼みで買い物に出かけた際、飲酒運転の車に巻き込まれ、意識不明の重体となりました。
私のせいで妹は……と、私は毎日自分を責め続けました。栞は生命維持装置に繋がれたまま、もう二度と目を覚まさないかもしれないと医師から宣告されていました。』
樹は息を呑み、便箋を繰る手に力を込めた。
『ですが、半年前のある雨の夜のことです。
深夜零時を回った頃。栞の心拍数が急激に低下し、いよいよ最期かもしれないと覚悟した時。栞が突然、大きな声で泣き叫びながら、目を覚ましたのです。』
半年前の、雨の夜。
それは間違いなく、樹がホテルのスイートルームで睡眠薬を仰ごうとし、あの図書館の幻影の中で「本」を引き裂いた、あの夜だった。
『目を覚ました栞は、ひどく混乱しながら、こう泣きじゃくっていました。
「帰らなきゃ。お姉ちゃんが一人で泣いてる現実に、私が帰らなきゃ」と。
落ち着いてから栞に話を聞くと、彼女は長い夢を見ていたそうです。自分が歩けなくなる代わりに、私(姉)が生き残るという夢。彼女はそれが幸せだと思い、夢の世界にずっと留まろうとしていたと。
でも、その夢の世界が崩れかけた時、一人の男の人が助けてくれたのだと言いました。
「冴えない事務員で、泥臭くて、いつも数字ばかり見ている不格好な人だった。でも、その人が『絶対に忘れない、現実に帰れ』って言って、夢を引き裂いてくれたから、私は帰ってこられたんだ」と。』
視界が、不意に滲んだ。
樹は天井を仰ぎ、大きく息を吐き出した。
幻ではなかったのだ。
あの『分岐点の図書館』は、生死の境を彷徨い、現実に絶望していた者たちの魂が、偶然交差した精神の集合的無意識だった。
樹が破り捨てたあの藍色の本が、世界の崩壊を招き、結果として本の世界(夢)に取り込まれかけていた栞の魂を、現実世界へと強制的に弾き返したのだ。
『妹は今、懸命にリハビリを続けています。
まだ車椅子ですが、来週退院できることになりました。
最近、病室であなたのラジオを一緒に聴いていた時、栞が不思議なことを言いました。朝比奈さんの喋る声を聞いて、「あの事務員さん、こういう声だった気がする」と笑うのです。
朝比奈さんの歌声は、まるで今の私たちを励ましてくれているように響きます。
これからも、泥臭くて、不格好で、でも真っ直ぐなあなたの音楽を待っています。
本当に、ありがとうございます。』
便箋の最後には、姉妹の名前が並んで記されていた。
姉の名前の横に、少し筆圧の弱い、しかし確かな意思を持った文字で『水瀬栞』と書かれていた。
「……生きてるじゃないか」
樹の目から、一粒の涙がこぼれ落ち、深紅の便箋に小さなシミを作った。
インクは融けず、文字が崩れることもない。
それが、この世界が「確かな現実」である何よりの証拠だった。
樹は便箋を丁寧に折りたたみ、封筒にしまって胸のポケットに収めた。
立ち上がり、控室の窓から外を見る。
雨に煙る東京の街のネオンが、水槽の底のように煌めいている。
「またな、栞さん。――お互い、泥臭く生きようぜ」
窓ガラスに映る自分に向かって、樹は小さく笑いかけた。
その顔に、かつての死を望むような陰りはもうない。
彼はギターケースを背負い直し、重いドアを開けて、土砂降りの現実へと力強く足を踏み出した。




