表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喰界 -咆哮する遺骸の記憶-  作者: mutusimo
第1章 変異
13/14

滝の裏、命の灯

 風が緩やかに吹いていた。


 朝霧が山肌を這い、湿った葉が足元でぺたぺたと鳴る。


 獣の咆哮も、血の匂いもない。


 それはまさしく、旧時代の平和な世界のようだった。


 ライグは歩いていた。前を行くカイルの背中を見ながら、口を閉ざしたまま。


 思えば、“歩く”というだけの時間が、どれだけ久しぶりだったか。


 走るか、倒れているか、戦っているか。


 どれも生き延びるための動作だった。だが今は違う。


 歩く理由が、「生きるため」ではなく、「戻るため」であることに――ライグ自身がまだ慣れなかった。


「山道、思ったより荒れてなくて助かるな。」


 カイルが振り返る。ライグは軽く頷いた。


 彼の歩き方はまだ少し不安定だったが、三日間寝ていたとは思えないほど快復していた。


 道の左右には潰れた木々と崩れかけた斜面、そして足元には露出した鉱石混じりの岩層。


 地中の力が時折顔を出すような、荒涼とした景観だった。


「このあたり、昔は採掘用の小道があったんだ。……今じゃ、人も通らないけどな。」


 カイルの言葉に、ライグはあたりを見回す。


 草はほとんど生えておらず、土は赤黒く湿っている。


 その上を慎重に踏みしめながら、ライグは不意に一歩、立ち止まった。


 視線の先に、藪の中にひっそりと実った紫色の果実が見えた。


 小さな実を摘み取り、慎重に匂いを嗅ぐ。鼻に抜ける微かな甘味と酸味。


「食えるぞ。水が多くて腐りにくい。……食ったことあるか?」


「あるある。甘いのと酸っぱいの、個体差が激しいけどな」


 二人で果実を集め、袋に詰めていく。


 途中、沢の流れに小魚を見つけ、手早く石で打って捕える。


 焚き火を起こす時間はなかったが、保存食にはなる。


「村では、魚が主食だ。干物にしても焼いても煮てもいい。」


 カイルが小さな魚をくるくる回しながら笑った。


 ライグは、それを眺めていた。


 普通の暮らしに見える何気ない所作が、自分の中でどれだけ遠くに感じるかに、気づいていた。


 そして、静かに自問する。


(……俺は、まだ“こういう場所”に、いていいのか?)


 何も言わず、それでもライグは歩を進めた。


 しばらくして、眼前に岩肌が広がった。


 湿った地面の先に、大きな断崖と滝壺。その水音は地鳴りのように響いていた。


 滝は山の裂け目から生まれ、崖を滑り落ちて下の池に注いでいた。


 水飛沫が白く煙り、風とともに冷気を運んでくる。


 その冷たさが、ライグの熱のこもった体を包み、僅かな安堵をもたらす。


「この裏だ。滝をくぐる。」


 カイルが岩場を指差す。


 ライグは眉をひそめた。


「……通れるのか?」


「俺が案内する。岩を伝えば、濡れずにいける。滑って滝壺に落ちるなよ。」


 二人は滝の脇に沿った足場を慎重に進んだ。


 水煙で視界が曇る中、崖の裏に確かに口を開けた“穴”があった。


 それは人工ではなく、自然に穿たれた洞窟の入り口。


 鍾乳洞の入口に踏み込んだ瞬間、世界が変わった。


 空気は冷たく、湿り気を含んでいる。


 天井から滴る水滴の音。壁に張り付く苔の青い光。


 わずかに広がる空間は、思った以上に村の匂いがした。


「もう少しで着く。村はこの奥。」


 カイルの声が、鍾乳石の反響で歪んで響いた。


 奥に進むにつれ、空間が広がり、天井の高い広間のような空間に出る。


 そこに、灯りがあった。


 光苔を張った陶製の灯籠が、規則的に並べられている。


 その灯りの先に、木と石で作られた簡素な家々が並んでいた。


 壁に刻まれた動物の骨。乾かされた魚の皮。


 鍾乳洞の中に、確かに暮らしがあった。


「ここが俺の村だ。」


 静かに、穏やかに時間が流れる場所だった。


 洞窟の中に広がる空間は、自然のままにしてはあまりにも整っていた。


 滑らかに削られた地面、湿気を逃がすように天井に設けられた通気孔、岩壁を削って据えられた調理場。


 明らかに人の手が加えられていた。


「昔の記録を読んで、改修したらしいよ。うちの村の先祖が、鍾乳洞を住居にした頃にね。」


 カイルがそう説明する。


 なるほど、この構造は生きるための工夫の結晶だと、ライグもすぐに理解した。


 洞窟内は広くはないが、中央の広場を起点に、簡易な住居が放射状に配置されている。


 外の獣の脅威に対抗するため、出入口は一本のみ。


 広場には火を焚く場所があり、鍋が吊るされていた。


 乾燥された魚の匂いが漂う。水音が洞窟の奥からわずかに響き、そこから村の命の循環が感じ取れた。


「おーい、誰かっ、帰ったぞ!」


 カイルの声が洞窟内に響く。


 最初に姿を見せたのは、腰の曲がった小柄な老人だった。


 白髪の束を後ろに結い、肩には獣の皮をかけている。


「……生きて、戻ってきおったか……!」


 老人はカイルの顔を見て、静かに目を潤ませた。


 無言で肩を抱き合い、何も語らずしばし佇む。


 その後、少しずつ人々が集まり始めた。


 子どもたちが足元を駆け抜け、青年たちがざわついた声をあげる。


「おい、カイルじゃないか!」


「お前、てっきり……!」


 ライグは、その輪の外に立っていた。


 歓迎されているのは、あくまでカイルだ。――当然だ、と自分に言い聞かせた。


 だが、カイルがすぐにライグを呼び寄せた。


「紹介する。名前はライグ。……命の恩人だ。こいつがいなかったら、今、ここには立っていない。だか

ら、俺の責任で迎えてくれ。」


 その言葉に、周囲の空気がわずかに緩む。


 一人の中年男性が一歩前に出た。着古した装束と、腰に吊るされた細工包丁。村の長のようだった。


「俺はバルガ。ここで食料と物資の管理をしている。まずはカイルの件、感謝する。ありがとう、ライ

グ。」


 バルガは真っ直ぐに目を見て、深く頭を下げた。


「……ああ。」


 短く、だが誠実にライグも応じた。


 その後、村人たちは少しずつ警戒を解き、焚き火のそばに簡易の食事を用意した。


 干した魚を焼いたもの、炊いた根菜、地下水で割った酒。


「これは霧草の根ってやつだ。滋養はあるが、少し苦い。」


 そう言ってカイルが差し出す料理を、ライグは黙って受け取り、少しずつ口に運んだ。


 味は――懐かしかった。


 いや、“懐かしいと感じるようなもの”だった。


 温かさ。苦味。噛むことでしか得られない滋養。


 これが、人の生きる営みだった。


「お前、装備はどうだ? その太刀、もうダメだろ。」


 食後、バルガが手持ちの小屋にライグを案内した。


 武具は少ないが、獣骨から作った簡易の短剣や、防具の一部が残っていた。


「村に伝わる古い刀が一本ある。芯は生きてるし、名匠が打ったとされてる。今、誰も使い手がいない。……使ってやってくれるか?」


 奥の棚から、バルガが一本の太刀を持って来る。


 質素だが、何か”気配”を感じる。強者の気配だ。よく手入れもされている。


「助かる。……感謝する。」


 夜が更け、焚き火の炎が揺らめく中、ライグは鍾乳洞の壁にもたれた。


 遠くで子供の笑い声が響く。


 その隣では、女性が手製の布を干している。


 穏やかな、けれどいつ崩れるとも知れぬ脆い平穏。


(……これが、まだ残っていたのか。)


 だが同時に、ライグの胸の奥では、またあの“熱”が微かに疼いていた。


 喰らったことで得たもの。


 そして、その代償として、何かが――すでに、自分から剥がれ落ちている気がしていた。


 それでも、ここに今“人の営み”がある。


 ならば、この場所だけは、護ってみたいと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ