封印の向こう
朝の光は、鍾乳洞の村にはほとんど差し込まない。
それでも、村には時間の流れがあった。
誰かが火を起こし、誰かが水を汲み、誰かが釜をかき回す。
その連なりが、ここに住む人々の命を繋いでいる。
「おい、ライグ。手が空いてるなら、こいつを運ぶの手伝ってくれ。」
そう声をかけてきたのは、村の資材係、バルガだった。
干し魚と保存芋の入った大袋を抱えて、調理場の端で不器用に立っていた。
「ああ、いいぜ。」
ライグはすぐに腰を上げ、素早く袋を持ち上げる。
回復した身体は軽く、動きに迷いはなかった。爪痕が残っているが、今ではしっかり力が入る。
それを見たバルガが、ふっと目を細める。
「……まるで獣と戦った直後の男には見えねぇな。回復力、他より早いんじゃねぇか?」
「体質だ、たぶん。」
ライグは短くそう答え、口元をほんの少しだけ歪めた。
嘘ではない。だが、真実でもない。
喰ったことを、ここで語るつもりはなかった。
袋を運び終えると、少年が何人か駆け寄ってくる。
「ねえ、旅人のお兄ちゃん! 剣、持ってたでしょ!」
「本物の獣と戦ったんだよね? 本当に一人で?」
ライグは目を瞬かせたあと、少しだけ眉を下げた。
「そうだな。運が良かっただけだ。」
「すごいなぁ……!」
「俺も、大人になったら戦えるかなあ!」
「戦わなくて済むのが一番いい。」
ぽつりとそう呟くと、少年たちは不思議そうな顔をした。
だが、すぐにまた声をあげて笑い、広場へ走っていく。
「子供たち、あんたのこと、もう村人だと思ってるみたいだよ。」
声をかけてきたのは、カイルだった。
まだ傷は癒えきっていないが、普通に歩き、簡単な作業を行う事ができるほどには回復していた。
「それは、悪くないな。」
ライグはそう返し、鍛冶場の方へと向かう。
村の奥には、旧時代の遺物を利用した簡易の鍛冶炉が設けられており、古い装備の修繕や武器の補強が行われていた。
ライグの目的は、太刀の修繕だ。
受け取った太刀は芯がしっかりしており、しっかりと手入れされていた。
しかし、愛用していた太刀は切っ先が折れ、刃こぼれしているところが見つからないほどだ。
一度、専門家に見てもらい、どうするか決める予定だった。
それに、使えそうな素材もある。
「ほう……これは、すげぇ硬度だな。」
鍛冶担当の壮年男性――ザラフが、驚きながら爪を手に取る。
鍛冶炉の火を灯し、何度も金槌で軽く叩いて音を確かめる。
「刃の縁に打ち込めば、割れにくくなる。小刀として削るのも手だが……こっちのが使えるだろ。」
「頼む。」
ライグは短く言い、ザラフが頷く。
爪は脆くなった太刀の刃の内側、骨格のように添える形で組み込まれる。牙のうち一本は、短剣として再利用されることになった。残りは保管することにした。
「完成は……明後日には渡せる。」
ライグはそれを受け取り、ふと視線をずらす。
壁際には、村の子供たちが描いた落書きがあった。
滝や火、魚、その中に、三日月の目をした獣の絵もある。
(子供ですら、獣の存在を知っている……。)
だが、ここには笑いがあった。
火があり、水があり、眠る場所があった。
人が暮らし、子が育ち、命が循環する――それが、村だった。
ライグは洞窟の天井を仰いだ。
どれだけ外の世界が歪んでも、ここでは人のままでいられる。
そんな予感が、胸に少しだけ灯った。
――しかし。
その安らぎの片隅で、確かに異変が忍び寄っていた。
それは、まるで岩の奥から染み出すように。
遠くの地鳴りのように、僅かに鼓膜を揺らしていた。
(……今、何かが……?)
それが音であることに気づいたのは、カイルに案内されてのことだった。
洞窟の奥。
村の最も深い場所にある封鎖区画。
そこは、村の者すら滅多に近づかない聖域として扱われていた。
かつて、獣の群れに追われた人々が、この地に辿り着き、命からがら逃げ込んだ場所。
その時に一人が、獣を封じるために内部で扉を閉ざし、戻らなかったという話が残っている。
鍾乳洞の自然の形を活かした天然の岩壁に、手作業で積まれた石の塀。
その中心には、重く朽ちかけた鉄の扉が立ちはだかっていた。
古びた文字の刻まれた布が張られ、誰の手によるものか分からぬ封が、今もなおそこに存在していた。
ライグは、気配を感じていた。
それはただの気まぐれではない。意識を研ぎ澄ますと、耳の奥に自然の音とは違う異なる振動が届くのだ。
(音……だ。微かに、金属を擦るような……。)
カイルにそれを尋ねた。
「風の鳴き声だよ。鍾乳洞にはよくある音さ。」
だが、ライグの身体は異常を感知していた。
──脈動していた。
自身の傷が癒えたはずの体が、あの扉の前に立つたび、皮膚の下で何かが疼く。
喰った”ナニカ”が、それに反応しているのか。
(まるで、共鳴してる……?)
カイルと共に封鎖区画の前に立った時、村の老人が現れた。
長く垂れた髭と、杖を引きずるような足取り。だが、その目は澄んでいた。
「……あんたが、外から来た戦士か。」
「ああ。ライグだ。」
老人は小さく頷いたあと、扉を見上げた。
「中には、入るなよ。あそこは、封じてある。先祖代々、開けたら村が終わると伝えられてきた。」
「何がいるんだ。」
「知らん。ただ、昔、音が聞こえた。人の声のようなものが、時折な。」
「……声?」
「ああ、今はもう、聞こえんがな。けど、ここ数日、また変だ。風の音が変わった。壁が、低く鳴っている。あんたも……それを聞いたのだろう?」
ライグは黙って頷いた。
ただの風ではない。
鼓膜の奥をくすぐるような、粘り気のある低音。
そして、心の底に薄く染み渡るような、忌まわしさ。
それは、音というより、呼びかけに近かった。
「……このまま、放置していいのか?」
「封じた意味を、儂は知らん。だが、何も分からんものに近づいていい道理もない。外の世界を見てきたあんたなら、なおさら分かるだろう。」
ライグは、言葉を返さなかった。
「それに封印は永久的に機能すると聞いておる。であれば、近づく理由もなかろう。」
分からないものに向き合うには、覚悟が要る。
しかし、放っておいて良いほど、ここは広くも強くもなかった。
村の中の誰かが、再び呼びかけに引き寄せられたら。
無垢な子どもが、迷い込んでしまったら。
あるいは、呼ばれたのが自分だけだったとしたら。
ライグは、扉の表面に刻まれた古い文字を見つめた。
読めない。意味も分からない。
それでも、今の自分の五感は、その構造の歪みを感知していた。
力場が不自然に歪んでいる。
「……何かが、出たがっているのか?」
そのつぶやきに、老人は答えなかった。
ただ、ライグをじっと見つめ、静かにその場を去っていった。
残されたのは、ライグと、音を吐き続ける扉だけ。
耳を澄ませ、深く集中する。
岩の奥、何層も隔てた向こう側で、“ナニカ”が呼吸している。
生きている。喰らう準備をしている。
そう思った瞬間、ライグの背中に、薄く戦慄が走った。
この村に来て、やっと人としての暮らしを取り戻しつつあった。
だが、また、何かがそれを奪いに来るのかもしれない。
太刀のない腰が、頼りなく思えた。
喰うことがすべてではない。
それでも、生き延びるためには、覚悟が必要だ。
「……確かめるしかない。いずれは。」
ライグは、扉に背を向けた。
今はまだ、その時ではない。
だが、間違いなくその時は近づいていた。
静かな村の奥で、誰にも知られず、何かが脈打っている。
それは、喰界の底から届いた音。
次の夜、またひとつ、世界の歪みが顔を出す。




