猿型の獣
本日も2話投稿です!
少し遅れて2話目を投稿します!
泥の中で、足を滑らせる音が響いた。
ライグは咄嗟に跳ねるように左に身をひねり、地面を転がった。次の瞬間、黒い影が、彼がいた場所を豪快に削っていく。抉られた大地が飛び散り、木々が軋んだ。
咆哮はなかった。ただ、殺すという意志だけが重く圧し掛かってくる。
これまでの獣とはまるで違う挙動だった。
振るう腕に無駄がなく、背筋が奇妙にまっすぐ伸びている。視線が明確に“こちらを狙っている”。
(やはり、群れの獣とは違う。以前、リーダーが狩った獣の特徴と似ているな。知性があって強い。)
太刀を構え直す。左腕が痺れ始めていた。まだ完治とはいかなかったようだ。
猿型の体格は人間の1.5倍ほどだが、四肢のバネと反射速度が異常だ。
何より、動きが“読みづらい”。本能ではなく、どこか“見てから動いている”ような──。
「チッ……。」
ライグは歯を食いしばり、懐へ飛び込んだ。太刀が弧を描き、猿型の喉元を襲ったが――。
腕で受けられた。いや、“受け止められた”。
硬い。皮膚ではない、何か甲殻に近い質感。太刀が跳ね返され、軌道が逸れる。
次の瞬間、逆の腕が低い軌道で回り込んできた。
太刀を戻す暇はない。ライグは肘でガードしながら後方へ飛ぶ。
刹那、皮膚を裂くような“風圧”が通り過ぎた。
(……速い上に、隙がねぇ。聞いてた通り、硬すぎる。何なんだ、この硬さは。)
それでも、逃げるという選択肢はなかった。
この森で、もう戻れる場所はない。進むしか、生きるしかない。
ライグは太刀を正眼に構え、刃の欠け具合を確認した。
切っ先は欠け、刃は欠けているところが見つからないほど。
何体の獣を斬ったか分からない。だが、まだ罅はない。
(お前を倒して、生き延びる。それだけだ……!)
地を蹴った。視界が揺れる。体が重くなってきた。
だが、関係ない。喰われてたまるか。
獣の横腹に滑り込むように回り、腹を狙って突き込む。
太刀が食い込む――かに思えたが、また弾かれる。
反射で跳ぶ。すぐさま地面を砕く拳が降ってきた。
直撃を避けたはずなのに、腹に鈍い衝撃。衝撃波のような打撃。
獣の拳は、空気を圧縮して叩き込むような“質量の乗った振動”を伴っていた。
内臓が揺れる。吐き気がこみ上げる。
それでも足を止めず、後方に逃れながら息を整える。
(力で押し切るのは無理だ……、タイミングを見ろ、隙を誘え。)
猿型がゆっくりとこちらを振り返る。目が合った瞬間、獣の口元が微かに吊り上がったように見えた。
笑った? ──いや、そんな人間らしさではない。
“愉しんでいる”。それが本能であれ、知性であれ、こいつは戦闘を好んでいる。
ライグは逆手に太刀を握り直した。
頼れるのは太刀一本。それと、まだ燃え尽きていない“身体”。
額から汗が垂れ、視界を曇らせる。
地面の感触が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
(限界は、とうに越えた。何回でも越えて、喰らってやる。)
それが、喰われた者たちから“託された命”だと、今ならわかる。
「……来いよ。」
獣が、応えた。
一瞬の沈黙を挟み、猿型が前傾姿勢を取った。両足の爪が土をえぐり、地を裂きながら突っ込んでくる。
「――ッ!」
ライグは左へ跳ぶ。間一髪、太刀の柄が猿型の拳をいなす形で滑る。が、それでも勢いを殺しきれず、右前腕の一部が裂けた。皮膚の浅い層ごと、熱を帯びた痛みが駆け抜ける。
だが、それで終わらせなかった。
勢いを殺さず、そのまま鋭く回転。太刀の刃を猿型の首へ振るう。
確かな手応え。しかし、浅く肉を斬っただけ。
異様な粘りと硬さ。ライグは気づく。
こいつの体表は、斬れない訳ではない。
“斬らせないように動いている”のだ。
明確な防御意識。斬撃の角度に合わせ動き、致命傷を避けている。
ライグはバックステップし、距離を取りつつ足元の小石を拾い、投げた。
狙いは目──ではない。“視線”そのものだ。
飛んできた小石に、猿型が反応する。
視線が逸れた瞬間、ライグは全身のバネを使って跳び上がる。
獣の右肩――そこに乗るように踏み込んだ。
その体勢のまま、太刀を両手で握り、真下へ突き刺す。
頑丈な皮膚を一点突破するため、重力と体重を全て乗せる。
手応えはあった。甲高い音とともに、太刀が獣の肩へ深く喰い込む。
「おおおおおッ!!」
吠えるように、刃を捩じ込む。
猿型が吼え、地面をのたうち回る。その動きでライグは振り飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。
肺が圧迫され、息が一瞬止まる。
が、それでも視線は外さない。
獣がよろめきながらも、なおも片腕を振りかぶっているのが見えた。
(まだ……倒れてねえ……!)
ライグは泥の中で片膝をつき、咳き込みながら立ち上がる。
左肩から血が流れ、肋骨のあたりが妙な角度で痛む。
それでも、全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
頭が熱い。心臓が怒鳴っている。
猿型が、咆哮した。
その声はもはや獣のそれではなかった。
苦悶か、憎悪か、あるいは“怒りのようなもの”か。頭が割れるような音が、空気を裂く。
だがライグの心には、恐怖がなかった。
(俺は……もう、喰われねぇ。)
猿型が跳ぶ。
鋭い爪が、空を切り裂く。
ライグも跳んだ。
すれ違いざま、太刀を掴み、跳んだ勢いのまま引き抜く。
何かが裂ける音がした。血が飛ぶ。背中が焼けるように痛む。
それでも、止めない。着地の動作から流れるように回転し猿型の頚部を切り裂く。
先に地面に倒れ込んだのは、猿型の方だった。
ライグは膝をつき、ぜえぜえと息を吐いた。
猿型の体が痙攣し、地面を何度か掻いたあと、完全に動かなくなる。
静寂が戻る。
草木のざわめきすら、遠くに感じた。
「……終わった、か。」
そう呟いた瞬間、腹が鳴り、倒れ込む。
空腹の音だった。
地面に転がる獣の死体を見つめながら、ライグはそっと呟いた。
「喰うか、喰われるか、だよな。この世界は。」
重い体を必死に動かし、猿型の亡骸へと這い寄る。
その奥で、腹が鳴り続けていた。




