表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喰界 -咆哮する遺骸の記憶-  作者: mutusimo
第1章 変異
10/14

旅立ち

本日、2話目になります!

2話投稿していますので、先に投稿した話がまだの方は、そちらからどうぞ!

 夜が明けようとしていた。


 空はまだ濃い紫に染まっていたが、東の地平が微かに青く滲み始めている。


 喰界の月は、ゆっくりと沈もうとしていた。


 だが、その青は夜の終わりではなく、むしろ──新たな“始まり”の色に見えた。


 ライグは、静かに腰を上げた。


 焚き火の残り火が、パチパチと音を立てて弾けていた。


 その横に、干からびた獣の死骸。


 昨夜、彼が喰らったものだ。


 血の匂い。焦げた肉の香り。喉の奥にまだ残る、鉄の味。


 けれど、もはやそれに顔をしかめることはなかった。


 獣の肉を喰った夜、何かが壊れた。


 いや、“変わった”。


 まだ全身に重だるい痛みが残っている。


 それでも、筋肉は緩やかに修復されていた。左手の感覚も既に戻っている。


 意識は鮮明だった。


 その全てが、何よりの証拠だった。


(もう、引き返せない。)


 かつての自分なら──ここで倒れていたかもしれない。


 生き延びることを、自分に許せなかったかもしれない。


 けれど今は、違う。


 “命を繋ぐ”ことが、背負うべきものになった。


 ユウカの声が、夢の中で何度も蘇った。


『あなたが、生きてくれれば、それでいい。』


 ただそれだけの言葉が、胸の奥で脈打っている。


 ライグは、腰に巻いた革ベルトを締め直す。


 その内側に収めた小さな手帳には、かつての仲間の名前が刻まれている。


 誰が死に、誰が何を託していったのか。


 全てを記録しているわけではない。


 けれど、それでも忘れないために、書いている。


 太刀を拾い上げる。切っ先は欠け、刃全体に血が染み込んでいる。


 ──それでも。


「……俺がやるしか、ねえんだよな。」


 呟きながら、肩を回す。


 可動域が広がった。筋肉の痛みも、わずかに引いた。


 喰った“力”が、体に残っている。


 それは、恐怖だった。だが、今は──頼もしさでもある。


 新たな拠点など存在しない。


 仲間はもう、いない。


 どこへ向かうかすら、わからない。


 それでも、歩く。


 地図は焼け、村も消えた。


 拠り所はない。


 けれど、この脚は、まだ歩ける。


 腹の中に残る“異物感”が、心臓の鼓動と同じリズムで脈打っていた。


 あの夜、“喰う”と決めた瞬間から、もう後戻りはできなかった。


 人間の倫理も、後悔も、恐怖も──全部、自分で呑み込んだ。


 誰に指示されるわけでもない。


 命令も、任務もない。


 自分で決め、自分で歩く。


 それが、“生き残った”ということなのだ。


 ──朝日が、森の向こうから差し始める。


 赤い陽光が、血と塵の混じった大地に染み渡っていく。


 それは、まるで一夜にして書き換えられた世界の始まりのようだった。


 ライグは歩き出した。


 一歩。もう一歩。


 その歩みに、迷いはなかった。


「これはもう……復讐じゃない」


 誰に言うでもなく、ただ言葉が漏れた。


「これは、誓いだ」


 誰も見ていないはずの空の彼方に、向けて。


 ──人間を辞める。


 その決意は、すでに済んでいた。


 喰う。


 喰らう。


 そして、生きる。


 世界が変質しているなら、己も変質していい。


 ならば、自分の意志でそれを選ぶ。


 歪んだこの世界で、なおも“守る”ために。


 それが、唯一残った──“人間としての証”なのだから。


 空は完全に明るくなっていた。だが、光は冷たかった。


 空の端に、まだ赤く歪んだ月の影が残っている。まるでこの大地が“喰界”であることを告げ続けるように。


 ライグは静かに丘を登っていた。


 昨日の獣との死闘は、まだ全身に刻まれている。傷はふさがりきっていないが、致命ではない。


 むしろ、“治り方”そのものが異常だった。


 肉が盛り、骨が再接続され、皮膚が内側から再生される――。


 人間の自然治癒では説明できない速度と現象。


 あの肉を喰った夜から、体が明らかに変わった。


 ライグは自分の掌を見つめた。


 骨の密度が増している。筋繊維の伸縮がより増した。


 視界も広くなった気がする。遠くの小鳥の羽ばたきまで、くっきりと映る。


 それが、“喰らったこと”の代償だ。


 夢で見た獣の視界。


 血と肉の匂いで獲物を探し、気配と音で殺す瞬間を待ち続ける“感覚”。


 それが時おり、自分の思考に割り込んでくる。


「……なら、それも抱いてやる。」


 ライグは呟く。


 恐怖も、異形への変質も、今さら躊躇する理由にはならなかった。


 これから自分は、かつての“人”としてではなく、“生き残った何か”として生きる。


 人の価値観のままでは、この先へは行けない。


 丘を越えると、遠くにうねる黒い森が見えた。


 そこに向かう理由も、目的も、今はない。


 けれど、その先に“何か”がある。


 それだけは、確信に近かった。


 ライグは、ふと足を止めた。


 風が吹き抜ける。木々の香りが運ばれてくる。


 その中に、微かに焦げた獣の血の匂いが混じっていた。


 ──誰かが、戦っている。


 ライグの足が自然と動いた。


 意識よりも先に体が動く。


 喰うことを選んだその日から、彼の中には“何か”が芽生えていた。


 それは単なる力ではない。


 感知――あるいは、“共鳴”に近い。


 同じ“喰らう側”に触れたからこそ、察知できる何か。


 ライグは太刀の柄を握り直す。


 刃こぼれは多いが、まだ使える。


 この太刀を失えば、身一つになる。


「いいさ、それで……十分だ。」


 息を吸い込み、走り出す。


 地面を蹴った時の力が、かつてよりも強い。


 速度も、跳躍力も上がっている。心臓が力強く鼓動し、血液が全身を巡るのがわかる。


 だがその奥に、微かに疼く異質な感覚がある。


 喰らった力が、まだ暴れたがっている。


 それでも、飼いならす。


 ライグは全身を使って走る。


 そして、森の入り口でようやく歩みを止めた。


 視界の先に――一人の男が倒れていた。


 傍らには、燃えかけた衣服と、砕けた装備。


 まだ、生きていた。


 かろうじて呼吸をしている。


「おい……大丈夫か。」


 ライグが駆け寄ると、男がうっすらと目を開いた。


「っ……援護、か……?」


 口から血が溢れる。装備が半壊し、皮膚が焼けている。


 ライグは応急処置を施しながら、辺りを警戒する。


 近くに獣の気配は――ない。


 いや、違う。


 “潜んでいる”。


 気配を殺した、知性のある個体だ。


 ライグは太刀を構える。


 背後の男の意識は再び落ちたが、命はある。


 救える命が、まだここにある。


 そして、それを狙っている何かも。


「出てこい……“同類”。」


 次の瞬間、茂みの中から異様に長い腕が伸びた。


 地面に叩きつけるようにして飛び出してきたのは、猿型の獣。


 しかし――村を襲っていた個体とは違う。


 黒い体毛が硬質化している。


 牙が左右非対称に伸び、顔の骨格が歪んでいる。


 瞳だけは、異常なほど“人間に近い”。


 人間を喰らい、古くから生き残っている獣の特徴だ。


 その赤い目が、ライグを捉えていた。


 言葉は交わさない。


 ただ、睨み合い、間を詰める。


 一瞬で、空気が張り詰めた。


 そして、獣が動いた。


 森の中に、再び咆哮が響き渡る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ