旅立ち
本日、2話目になります!
2話投稿していますので、先に投稿した話がまだの方は、そちらからどうぞ!
夜が明けようとしていた。
空はまだ濃い紫に染まっていたが、東の地平が微かに青く滲み始めている。
喰界の月は、ゆっくりと沈もうとしていた。
だが、その青は夜の終わりではなく、むしろ──新たな“始まり”の色に見えた。
ライグは、静かに腰を上げた。
焚き火の残り火が、パチパチと音を立てて弾けていた。
その横に、干からびた獣の死骸。
昨夜、彼が喰らったものだ。
血の匂い。焦げた肉の香り。喉の奥にまだ残る、鉄の味。
けれど、もはやそれに顔をしかめることはなかった。
獣の肉を喰った夜、何かが壊れた。
いや、“変わった”。
まだ全身に重だるい痛みが残っている。
それでも、筋肉は緩やかに修復されていた。左手の感覚も既に戻っている。
意識は鮮明だった。
その全てが、何よりの証拠だった。
(もう、引き返せない。)
かつての自分なら──ここで倒れていたかもしれない。
生き延びることを、自分に許せなかったかもしれない。
けれど今は、違う。
“命を繋ぐ”ことが、背負うべきものになった。
ユウカの声が、夢の中で何度も蘇った。
『あなたが、生きてくれれば、それでいい。』
ただそれだけの言葉が、胸の奥で脈打っている。
ライグは、腰に巻いた革ベルトを締め直す。
その内側に収めた小さな手帳には、かつての仲間の名前が刻まれている。
誰が死に、誰が何を託していったのか。
全てを記録しているわけではない。
けれど、それでも忘れないために、書いている。
太刀を拾い上げる。切っ先は欠け、刃全体に血が染み込んでいる。
──それでも。
「……俺がやるしか、ねえんだよな。」
呟きながら、肩を回す。
可動域が広がった。筋肉の痛みも、わずかに引いた。
喰った“力”が、体に残っている。
それは、恐怖だった。だが、今は──頼もしさでもある。
新たな拠点など存在しない。
仲間はもう、いない。
どこへ向かうかすら、わからない。
それでも、歩く。
地図は焼け、村も消えた。
拠り所はない。
けれど、この脚は、まだ歩ける。
腹の中に残る“異物感”が、心臓の鼓動と同じリズムで脈打っていた。
あの夜、“喰う”と決めた瞬間から、もう後戻りはできなかった。
人間の倫理も、後悔も、恐怖も──全部、自分で呑み込んだ。
誰に指示されるわけでもない。
命令も、任務もない。
自分で決め、自分で歩く。
それが、“生き残った”ということなのだ。
──朝日が、森の向こうから差し始める。
赤い陽光が、血と塵の混じった大地に染み渡っていく。
それは、まるで一夜にして書き換えられた世界の始まりのようだった。
ライグは歩き出した。
一歩。もう一歩。
その歩みに、迷いはなかった。
「これはもう……復讐じゃない」
誰に言うでもなく、ただ言葉が漏れた。
「これは、誓いだ」
誰も見ていないはずの空の彼方に、向けて。
──人間を辞める。
その決意は、すでに済んでいた。
喰う。
喰らう。
そして、生きる。
世界が変質しているなら、己も変質していい。
ならば、自分の意志でそれを選ぶ。
歪んだこの世界で、なおも“守る”ために。
それが、唯一残った──“人間としての証”なのだから。
空は完全に明るくなっていた。だが、光は冷たかった。
空の端に、まだ赤く歪んだ月の影が残っている。まるでこの大地が“喰界”であることを告げ続けるように。
ライグは静かに丘を登っていた。
昨日の獣との死闘は、まだ全身に刻まれている。傷はふさがりきっていないが、致命ではない。
むしろ、“治り方”そのものが異常だった。
肉が盛り、骨が再接続され、皮膚が内側から再生される――。
人間の自然治癒では説明できない速度と現象。
あの肉を喰った夜から、体が明らかに変わった。
ライグは自分の掌を見つめた。
骨の密度が増している。筋繊維の伸縮がより増した。
視界も広くなった気がする。遠くの小鳥の羽ばたきまで、くっきりと映る。
それが、“喰らったこと”の代償だ。
夢で見た獣の視界。
血と肉の匂いで獲物を探し、気配と音で殺す瞬間を待ち続ける“感覚”。
それが時おり、自分の思考に割り込んでくる。
「……なら、それも抱いてやる。」
ライグは呟く。
恐怖も、異形への変質も、今さら躊躇する理由にはならなかった。
これから自分は、かつての“人”としてではなく、“生き残った何か”として生きる。
人の価値観のままでは、この先へは行けない。
丘を越えると、遠くにうねる黒い森が見えた。
そこに向かう理由も、目的も、今はない。
けれど、その先に“何か”がある。
それだけは、確信に近かった。
ライグは、ふと足を止めた。
風が吹き抜ける。木々の香りが運ばれてくる。
その中に、微かに焦げた獣の血の匂いが混じっていた。
──誰かが、戦っている。
ライグの足が自然と動いた。
意識よりも先に体が動く。
喰うことを選んだその日から、彼の中には“何か”が芽生えていた。
それは単なる力ではない。
感知――あるいは、“共鳴”に近い。
同じ“喰らう側”に触れたからこそ、察知できる何か。
ライグは太刀の柄を握り直す。
刃こぼれは多いが、まだ使える。
この太刀を失えば、身一つになる。
「いいさ、それで……十分だ。」
息を吸い込み、走り出す。
地面を蹴った時の力が、かつてよりも強い。
速度も、跳躍力も上がっている。心臓が力強く鼓動し、血液が全身を巡るのがわかる。
だがその奥に、微かに疼く異質な感覚がある。
喰らった力が、まだ暴れたがっている。
それでも、飼いならす。
ライグは全身を使って走る。
そして、森の入り口でようやく歩みを止めた。
視界の先に――一人の男が倒れていた。
傍らには、燃えかけた衣服と、砕けた装備。
まだ、生きていた。
かろうじて呼吸をしている。
「おい……大丈夫か。」
ライグが駆け寄ると、男がうっすらと目を開いた。
「っ……援護、か……?」
口から血が溢れる。装備が半壊し、皮膚が焼けている。
ライグは応急処置を施しながら、辺りを警戒する。
近くに獣の気配は――ない。
いや、違う。
“潜んでいる”。
気配を殺した、知性のある個体だ。
ライグは太刀を構える。
背後の男の意識は再び落ちたが、命はある。
救える命が、まだここにある。
そして、それを狙っている何かも。
「出てこい……“同類”。」
次の瞬間、茂みの中から異様に長い腕が伸びた。
地面に叩きつけるようにして飛び出してきたのは、猿型の獣。
しかし――村を襲っていた個体とは違う。
黒い体毛が硬質化している。
牙が左右非対称に伸び、顔の骨格が歪んでいる。
瞳だけは、異常なほど“人間に近い”。
人間を喰らい、古くから生き残っている獣の特徴だ。
その赤い目が、ライグを捉えていた。
言葉は交わさない。
ただ、睨み合い、間を詰める。
一瞬で、空気が張り詰めた。
そして、獣が動いた。
森の中に、再び咆哮が響き渡る。




