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氷の指輪 上


「ま、春まではここでのんびりしてろ。あいつは一旦連れて行くが、用事が終わったら戻す」


 ベッド脇に戻ってきたアルゴは、掛布団の上に広げられたままだった地図を拾い上げて折り目に合わせて畳み出した。しかし途中で折る順番がわからなくなったのか……或いは単に面倒になったのか、地図を広げ直して今度はクルクルと端から丸めはじめる。


「……もし、私がセラスに会いに行くと言ったら、どうするつもりだったのですか?」


「結局行かなかったろ。今まで二人の間には他者が全く存在していなかったからな」


 肩でもこっていたのか、完成した紙筒でトントンと肩を叩きながら、アルゴは片頬を持ち上げるようにして笑った。


「突然指先に氷が触れれば、冷たさに驚いて反射的に手を引っ込める。それと同じだ。……情熱だけで突っ走る程精神的に若くはない。知恵がある分、苦手なものはできるだけ避けようとする。違うか?」


 概ね彼の言う通りだ。だが……すべて見透かされていたようで面白くはない。エレネはふいっと視線を逸らす。


「そういう所が子供っぽいんだよ。……じゃあな!」


 笑い交じりの声が遠ざかる。はっと振り返った時にはドアは閉まりかけていた。からかうようにヒラヒラとふられた手が隙間から微かに見えただけ……


 一人部屋に取り残されたエレネはちいさくため息をつく。


 常に激しい権力争い中に身を置いている人だ。恋に不慣れな小娘を意のままに操ることなど、夜の私室に忍び込んでくる薄着の美女を追い払うより容易かったに違いない。


『ほら、エレネさんは私に興味がない』


 追い打ちをかけるようにセラスの言葉が耳に蘇る。


 エレネはセラスのことを何も知らない、彼は自分のことをほとんど喋らないからだ。

 意図的に避けているのだろうなと思う。……エレネが怯えて逃げるから。

 家のこと、家族のこと、兄の婚約者であった女性と結婚して家督を継ぐ可能性があったということ。それらすべてが本人の口から聞いた情報ではない。


 セラスのことも『レガリアのアレス』と呼ばれている自分自身のことも――これまでずっと、エレネは知ろうとしてこなかった。


 人は生まれた落ちた瞬間に何らかの社会集団に組み込まれる。エレネは一度弾き出されてしまったけれど、セラスはそうではない。家族がいて仲間がいて、その社会集団の中で彼が果たすべき役割があり、守るべき秩序がある。

 ここでの彼は『エレネさんの恋人さん』という何も持たない一人の青年でいてくれているけれど……いつまでもそれに甘えている訳にはいかない。


 彼の所属する社会集団は、エレネがセラスの傍らにあることを許さないかもしれない。考えはじめると胸がざわつくから、目を背け続けている。


(……もう少しだけ、二人だけの世界で、恋に浮かれていたかっただけ)


 押してダメで引いてもダメなら、一旦その場から離れて別の方法を考える。身を潜めてじっと機会を伺うなり、風向きが変わるのを待つなり、いくらでも方法はあると知っている。それに、どんな相手が目の前に立ちはだかったとしても、人生二週目のエレネからすれば、結局ほとんど年下なのだ。ある程度相手の出方も予測できる。


 それでも怖いものは怖い。


 結局――セラスが与えてくれる二人だけの世界が心地よくて、少しでも長くこの時間が続けばいいと願っていた。ただ、それだけ。


(本当に、私はずるい)


 エレネはほろ苦い笑みを口元に浮かべる。


 一度体を横に向けてから肘でベッドを押すようにして体を起こす。明らかに就寝前より回復している。ふらついたりめまいを感じるようなこともない。

 レンゲル山の湖の神様の加護が、セラスを通じてエレネの体を癒したのだ。


 ベッドの端まで移動して床に足を下ろし、サイドテーブルの上に畳んで置いてあった厚手のブランケットを手に取り羽織る。


 ――昨夜はずっと、二人で水の中にゆっくりと沈んでゆく夢を見ていた。


 できることならば、お互いがお互いしか必要としていない世界に、彼をこのまま閉じ込めてしまいたかった。

 






「おはよう。エレネさん。入ってい……あ、ちょっとまっ……」


 ノックの後、ケリーの声がしたと思った瞬間に、勢いよくドアが開く。部屋に飛び込んできたのは、いつもケリーの背中にひっついている少年だった。


 彼はベッドの端に腰を下ろしているエレネの目の前まで走ってくると、鼻先がくっつきそうなほど顔を近付けた。エレネが体を後ろに引くと、その分彼が前のめりになる。……全く距離が開かない。


「お、おはようございます」


 のけぞりながらエレネが挨拶すると、少年は勢いよくドアを振り返って――


「ほんとだ。エレネ、起きてる。元気そう。よかった!」


 声変わり前の高い声でそう言った。


 少し遅れて部屋に入ってきたケリーに駆け寄た少年は、いつものように背中にしがみつく。首を捻るようにして振り返ったケリーがそっと頭を撫ぜると、彼は目を閉じて幸せそうに笑った。


「ジルは、エレネが元気になって、うれしい!」


 抜け殻状態だった少年が、目の前で喋っている。

 何がどうなっているのか、全く分からない。のろのろと顔を上げてケリーに説明を求める視線を向けると、彼女もエレネと同じく困惑しきった表情を浮かべていた。


「今朝私が起きた時には、もうこういう状態だったから……ごめん、私にも何が起こったのかはわからない……」


「そうなんですね……」


 茫然とした顔で、それだけ言うのが精一杯だ。


「行動はまるっきり同じなんだ。でも、表情と声が加わるだけで全然違うよね……」


「本当に、そうですね……」


 無表情だった時とは全くの別人に見える。朝一番にケリーが受けた衝撃は、エレネの比ではなかったに違いない。


「ジルというのは彼の名前ですか?」


「うん……そうなんだけど……」


 ケリーは僅かに表情を翳らせて、少年の頭を撫ぜていた手を止めた。


「私の知っているジルは大人しくて内向的な性格で、こんな風に屈託なく笑う子ではなかったんだよ」


 声の調子が変わったことに気付いたのか、少年は不思議そうに顔を上げた。ケリーと目が合うと、彼はとても嬉しそうに笑う。


「ルカに見てもらったら、カエルは寒いと冬眠してしまうから、暖かい場所にいた方がいいって。……エレネさん、意味わかる?」


「……え……どうしてカエルが出てくるんでしょう……?」


「わからない。制約にひっかかるみたいで、はっきりしたことは言えないらしいんだ。ジルの中にはカエルが入っているから、冬眠させないように暖かい場所にいろってことなのかなぁ」


 普段通りのように見えて、ケリーも相当混乱しているらしい。ジルの頬を両手で挟んで瞳の中を覗き込んでいる。……多分、瞳の奥にカエルがいるかどうか確かめているのだ。


「普通に喋っていましたし……人間っぽいですよ? カエルというのは何かのたとえなのではないでしょうか……」


「そうだね、うん。カエルは……いない……」


 ケリーぼんやりした声でそう言った途端に、ジルのお腹が「ぐぅぅっ」と可愛らしく鳴った。


 ……え、まさかそこにカエルが?


 と、ケリーとエレネは思わず少年のお腹に注目してしまう。


「あのね、ジルはすごくお腹が空いたよ!」


 キラキラと期待に輝く目でケリーとエレネを見比べながら、ジルは満面の笑みを浮かべてそう言った。

 開け放たれたままのドアの向こう側から、パンの焼けるいい匂いが漂ってきていた。




 食器を調理場に片付けに行ったケリーたちと入れ替わりで、紺色の軍服姿のルカが食後のお茶を持って入ってきた。

 アルゴが言っていたように、ボタンの色と模様がセラスやケリーの軍服と異なっている。


「あの、神官様は、カエルがお好きなんですか?」


「……違います」


 それはつまりカエルは好きではない、ということなのだろうか。


「あ……食べ物として好きか嫌いという質問ではないです」


「この辺りではカエルを食用とするのですか?」


 淡々と問い返されると、胃の辺りがひやりとした。しばらくお世話になるのだから、友好な関係を築き上げたいとエレネは考えているのだが……まずは天気の話から始めた方が良かったのかもしれない。


「この辺りはカエルを食べる習慣はないですね。でも、南部の田園地帯で足を揚げたものを屋台で売っているのを見かけたことはあります」


 屋台で売っていた揚げ物は、カエルの足そのものの姿をしていた……特に今思い出す必要もないようなことを考えて現実逃避する。

 気付けば口の中がカラカラに乾いていた。カップを持ち上げてお茶を一口飲む。緊張のせいで味が全くわからない……


「神殿でも、カエル料理が出されることはないですね」


「……すみません。もう一度最初の質問からやり直してもいいですか?」


 もし、自分が彼の立場だったら、この段階で笑顔を浮かべつつ心に壁を作る。 

 エレネは恥ずかしくて泣きそうになりながらも、素直に謝罪の言葉を口にした。


「……別に怒ってはいませんし、不快に思っている訳でもありませんよ?」


 全く表情を変えずに、ルカは落ち着き払った様子でそう返した。


 ……つまり、呆れられているということなのだ。


 少し冷静になれば、先ほどの『違います』は、『今回の件にカエルが好きか嫌いかは影響しない』という意味だったとすぐにわかる。相手が呆れ果てるのも無理はない。


「呆れている訳でもないです。『今日は寒いですね』から始めてみますか?」


「顔に出ていましたか……」


 エレネは両手を頬にあてて、こっそりため息をつく。


「心を読んだとは、考えないのですね」


「読むまでもないですよね……」


「一方的に流れ込んでくるのだと言ったら?」


「虫の声のように、意識に入れないようにされるのではないかと……」


 もし人々の声が一方的に流れ込んでくるのだとしたら、それこそ、雑踏の中を歩いているようなものだろうなとエレネは思うのだ。耳に流れ込んでくる言葉も、心に流れ込んでくる言葉も、興味を持って意識を向けなければ、単なる騒音でしかない。いちいち気にしていたら、安定した人格を保つことなどできないだろう。


「田舎は鳥の声とか虫の声とか結構煩いので、都会からきたばかりの騎士の方なんかは、睡眠不足になるらしいです。でも、しばらくすると慣れて全く気にならなくなるみたいで。……それと同じような感じではないかと考えました。全くの見当違いだったらごめんなさい」


 ルカは黙ったまま肯定も否定もしない。表情が変わらないため、考えていることが全くわからないが、この場合は沈黙を肯定と捉えるべきなのかもしれない。――それができないのはエレネの方に問題があるのであって決して彼のせいではない。一人で喋って、勝手に追い詰められている。……沈黙が辛い。


(そう……だからカエル……)


 ジルの中に果たしてカエルが入っているのか否か……を聞きたい訳ではない。


「……お茶をありがとうございました。お引き留めしてしまい……すみませんでした」


 日を改めよう。とエレネは決意した。一週間以上眠っていたのだから、体力と同じように集中力や思考力も低下している。同じ説明を何回もさせるようなことになっては申し訳ない。


「本当に、興味がないんですね」


「……え?」


「私があなたの心を読めるかどうか、気にならないんですね」


「仮にできるとしても、なさらないでしょう? それに……言い方は悪いかもしれませんが、神官様は、私の考えていることになんて、興味もないでしょうし」


 あまり深く考えることなく、エレネは思ったことそのままを口に出した。

 本当に心が読めたとしても、余程の理由がない限り、彼はその力を使ったりはしないだろう。人の嫌がることはしない。ただそれだけのこと。あえて口にする必要はないくらい、当たり前の感覚だ。


「……成程」


 ルカは目を伏せて、静かに微笑んだ。彼がここまではっきりと表情を変えてみせたのは、これが初めてのような気がした。


「悪い気はしませんが……やはり、少しは人を疑うということを覚えた方がいいと思いますよ?」




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