舞い降りる雪のように
目覚めたい。そう強く思っているのに、どうしても夢の中から抜け出せない。
今は何時だろう。もう日付は変わってしまったのだろうか。
(神様。どうか……あの人をお守りください。ご加護をお与えください)
今がいつかはわからない。だから、エレネは浅い眠りの中でずっと祈り続ける。
ずっとずっと、祈り続けている。どうしても、やめることができない。
もしかしたら、セラスの負担になっているかもしれないとわかっていても。
――風に散る花のように忘れられてしまうことが怖くて。
うっすらと目を開ける。ぼんやりとした視界の中に白い世界が見えた。キラキラとした金粉のようなものが舞っている。片頭痛の前兆である閃輝暗点に似ているなとぼんやりとした意識の中で思う。顔を顰めて瞼を下ろす。目が乾いているらしく痛くて開けていられないのだ。
目を閉じても細かな光の粒子は消えてくれない。
「エレネさん!」
焦った声で呼びかけられ、のろのろと薄目を開ける。耳に届く音は遠くなったり近くなったりしている。……ああ自分は今エレネという名前なのか。一瞬そんな風に考えてすぐに忘れてしまう。
今はいつだろう。明るいから昼間なのだろうか。
「よかった……意識が戻って……」
泣きそうな女の人の声がすぐ近くから聞こえた。視界に影が差す。どうやらベッドに寝かされているようだ。
次第に意識がはっきりとしてくる。見えない何かに伸し掛かられているかのように体が重たい。まさに指一本動かせないような状態だ。でも、どうして自分がこういう状態になっているのかがわからない。半分以下しか開けられない目で瞬きを繰り返す。キラキラした光が邪魔で、顔を覗き込んでいる人の姿がよく見えない。
「エレネさん、み、水、水を飲もう?」
聞いたことのある声だ。よく知っている人の声。誰……誰だっけ……
半分眠ったままのような頭を必死に働かせて、ようやくその人の名前を思い出す。
「……は…………さ……」
班長さん、と呼びかけようとしたのに声が出ない。口の中がカラカラに乾いている。すぐさま濡れた布が唇にあてられて、僅かに開いた口の中に一滴雫が落とされた。
「レンゲル山の湖の水。アルゴさまがくんできて下さったんだ」
布から一滴ずつ垂れる水が、エレネの乾ききった舌を濡らしてゆく。エレネが溺れてしまわないように、数的の水を落としてガーゼが口元から離れる。
まるで乾物にでもなったような気分だ。乾燥しきっているから。水を弾いてしまう……
コクンと喉が鳴る。目を閉じて、がらんどうの体の中に水が落ちてゆく感覚を追いかける。
目を閉じると、緑色に濁った水面が見えた。そこに一滴の透明な雫が落ちて波紋が生まれ、淀みを押し流しながら、外へ外へと大きく広がってゆく。
それをきっかけとして、じわりじわりと水が体内に浸透し始める。耐えがたいまでの倦怠感が押しやられるように遠ざかっていった。
恐る恐る瞼を持ち上げる。痛みを感じることなく目を開けることができたことに、エレネはほっとしてちいさくなため息をついた。
視界ははっきりしているし、キラキラした光の粒子も消えつつある。
ケリーは慎重にエレネの口の中に雫を落としてゆく。彼女の顔色は決して良いとは言えないけれど、普通に動き回れるまで回復している。……あれからどのくらいの時間が経過したのだろうか。
「はん、ちょう……さん…………もう……おきて……だい……じょうぶ……?」
布が口元から離されたタイミングでエレネは必死に声を絞り出した。茫然と目を見開いたケリーの顔が大きく歪んで茶色の瞳から涙が溢れ出す。
「エレネさんごめんっ。私が意地を張ったからっ!」
泣きながらケリーが叫んだ途端、乱暴に扉が開いてアルゴが室内に飛び込んできた。豪華な宮廷服を着てはいるが、髪はボサボサで、何日も寝ていないのか目の下のクマが酷い。一気に十歳くらい老け込んだように見える。
ベッドに駆け寄ったアルゴは、目を開けているエレネを血走った目でまじまじと見つめたまま動かなくなった。
「アル……ゴ……」
エレネが名前を読んだ途端に、彼は崩れ落ちるように床に座り込み、乱暴に頭を搔きはじめる。何か言おうとして言葉にならなくて、ため息をつく。そういうことを何度も繰り返した後にようやく、
「水……飲め……たくさん、持ってきた……から」
低く掠れた声でそう言って、それきり黙り込んでしまった。その隣では、握りしめた拳で目元を隠しながら、ケリーが子供のように泣きじゃくっている。
――心配をかけたのだ……ということは痛いほどわかった。
目を覚ました翌日には、エレネは体を起こして食事ができるまでに回復していた。アルゴがレンゲル山の湖で汲んできた水の効能であるということはまず間違いない。……しかし、この水が誰に対しても同じように作用するという訳ではないのだろう。
店が襲撃を受け、ケリーが大怪我を負った日からすでに一週間以上が経過していた。
酷いめまいに襲われ意識を失ったエレネは、その間ずっと眠り続けていたのだ。
呼吸数と心拍数が低下し、本当に生きているのか不安になるくらい体温も低かったのだそうだ。
もしかしたら、冬眠中の動物のような状態になっていたのかもしれない。
泣きはらした目をしたケリーが、ベッド脇の椅子に座って項垂れている。
エレネは、あまりの申し訳なさに身が縮むような思いだった。
「ごめんなさい……」
「ちがう。エレネさんに謝らせたいわけじゃない。こんなに早く怪我が治ったのはエレネさんのおかげなんだ。すごく感謝しているんだ。本当だよ!」
はっと顔を上げたケリーの瞳に再び涙が盛り上がる。布団の上でぎゅっと握りしめられている拳が小刻みに震えはじめていた。
「でも……その代わりにエレネさんが倒れてしまって。全然目覚めなくて……ずっとこのままだったらどうしようって、すごく怖かった」
大怪我を負った時でさえ気丈に振舞おうとしていたケリーが、震えながら泣いている。エレネは、息をするのも苦しいくらいの罪悪感に苛まれていた。
――セラスに加護を与えるように、或いは、女性たちにかけられた呪いを全部引き受けたように、エレネは衝動的にケリーの怪我を肩代わりしてしまった。
ケリーはその日の内に体を起こせるまで回復したのだが、その代償であるかのように、大量の血液がエレネの体内から失われていた。
いつ目覚めるかわからず、このまま鼓動が消えてしまう可能性も完全には否定できない。そんな状況が一週間続いたのだ。
エレネが周囲に人々に与えた心理的負荷は計り知れなかった。
「本当に、ごめんなさい」
エレネの行動は無意識だったからからこそ、余計に始末に悪いのだ。
どうやったのか自分でもわからない。どんな力が働いたかも定かではない。
「私は。アレスとしての自分に何ができるのかわからない。わからないのか、或いは、忘れてしまっているだけなのか、それもはっきりしないんです」
エレネは天井を見上げながらため息をついた。
その辺りのことは、叔父に聞けばわかることなのかもしれない。しかし……
『今この時から、私は師でもなければ血縁者でもない。最初から、いなかったものと思いなさい』
資格試験に合格した日に『おめでとう』の代わりにそう言われて以降、一度も姿を見ていない。
そればかりか、棚の奥に隠すように置いてあったお茶の香りを嗅ぐまで、エレネは叔父の存在自体をすっかり忘れ去っていた。……こちらもどういう力が働いているのかさっぱりわからない。
『知らないこと』
『忘れていること』
『覚えていられないこと』
今のエレネには、そういうものが多すぎる。運命が『緑の瞳』と『赤い瞳』の間で揺らいでいる。どちらかが選ばれた瞬間に、消えるものと残るものがあるのだろう。
「エレネさん、今はあんまり色々考えない方がいいよ。気分を変えるために、一度清拭しようか。薬湯を用意してくるよ。私も顔を洗いたいし」
エレネの表情が陰ったことに気付いたケリーが、ことさら明るい口調でそう言って立ち上がる。ちらっと窓の外を見て「冷えてきたね……」と呟いた。
暖炉には赤々とした火が燃えている。
エレネが眠っている間に、季節は冬へと移り変わっていた。
先日の襲撃がエレネを表に引きずり出すためのものだったということはまず間違いない。次は村の誰かを無作為に狙ってくる。
そう気付いてしまったら……もう、ここにはいられない。
――逃げてみますか?
その声が耳に蘇る。セラスはそう言ったけれど、多分もう逃げ場はないのだ。いつの間にか袋小路に追い込まれていた。
ふと目が覚める。
真っ暗な室内には体を拭くときに使った薬湯の香りが残っていた。ゆっくりと瞼を開いて、何度も瞬きを繰り返して暗闇に目を慣らす。
寝がえりをうって、すぐ近くにあったぬくもりに身を寄せる
目の前にあるボタンに指先で触れてみると、かすかに血の匂いがした。
「病人を襲う趣味はないので、このまま寝てください」
声がはっきりとしているから、眠っていたという訳ではなさそうだ。
「別に構いませんよ」
「そういうことを簡単に言わないで下さい。……いつも言ってますが」
「……私はあなたが好きなので」
さらっとそう返すと、頭上で息を呑む気配があった。
「……それ、今言うのは狡くないですか?」
大きな手がエレネの髪を撫ぜてそのまま背中におりてゆく。
「私は狡い女なので。……いつも言っていますが」
そう言って笑おうとして、唇が震えただけで終わる。服の上から心臓の辺りにそっと唇で触れてみる。胸にせり上がってくる感情が何かわからない。頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
「……ほんとに、エレネさんはどうしていつも試すようなことばかりするんでしょうね」
「あなたが好きだから」
「……なら、困らせないで下さい」
「セラスはいつも全然困ってないですよね?」
「時間も場所もわきまえず、こちらの都合は一切無視して突然現れるエレネさんの幻に、随分鍛えられたものでして」
……精神衛生上、そこに関しては深く考えてはいけない気がした。一瞬のはずなのでどうか許してほしい。それでも不安になって、恐る恐るエレネは尋ねた。
「……迷惑でしたか?」
「前にも言いましたが、そんな風に思ったことは一度もありませんよ。……少し頭、上げられますか?」
浮かせた頭と枕の隙間に腕を差し入れて、セラスはエレネを腕の中に閉じ込める。
全身を包み込んだ彼の体温だけを感じていたいのに……鉄さびのような匂いが邪魔だ。
「顔を見せてくれたら信じます」
頭頂部に軽く唇が触れて「……これで許して下さいね」と優しい声が降ってくる。エレネは目を閉じてため息をついた。そのまま顎を頭に乗せられてしまったせいで、顔を上げられない。だから少し体を離して指先で胸元のボタンを探る。
「ボタン外そうとするの、やめてください。……ちゃんと寝ないと体力回復しませんよ?」
「セラスが添い寝してくれるなら、ずっとこのままでいいです」
指先が震えてしまって、ボタンをうまく穴に通せない。……セラスに纏わりついている血の匂いに心が怯えている。
「怖いなら、眠ってください」
「怖くないです」
「……本当に、エレネさんは素直だから困る」
喉の奥でセラスが笑うと、ぴったりと寄り添っているエレネの体に振動が伝わってくる。
「……一緒に逃げてもいいです」
「だから、今それを言うのは狡いです」
「おやすみなさいのキスをしてくれたら、寝ます。……唇に」
「その手には乗りません」
何を言ってもまともに取り合ってもらえない。そうやってはぐらかす方が狡い。そう思うのだが、エレネだって同じことをしているのだ。
怖くて確信に触れられない。でも、曖昧なままにしておくこともできない。
エレネはぐっとお腹に力を入れて大きく息を吸った。
「……隠さなければならないほどひどい怪我なのですか?」
「右頬に派手な青痣ができたくらいで済みました……治療中なので見えませんからね」
顔を上げようとすると止められる。どうしてもその言葉を信じ切ることができない。本当に大したことがないなら見せられる筈だ。何かに追い立てられているかのように呼吸が浅くなり、鼓動が走り始める。
「なら、どうして顔を見せてくれないのですか!」
責め立てるような自分の声が不快で耳を塞いでしまいたい。でも感情を抑えられない。
「また仮死状態に逆戻りされたら、アルゴさま今度こそ倒れます。だから見せません」
大きな手が丁度心臓の後ろ辺りにあてられる。幼い子供を寝かしつける時のようにゆっくり優しくとんとん、と叩かれている内に怒りの感情は消え、今度は悲しくなってきてしまう。
情緒が不安定になっている。
「やっぱりひどい怪我……」
「こうやって普通に喋れるくらいには回復しています。……ボタンから手を離して下さい。背中に傷があるので仰向けに寝ることができないだけです」
つまり、セラスが怪我を負ってからすでにある程度の時間が経過したということなのだ。ならば、エレネが仮死状態に陥る前。恐らくは……出掛けて行ったきり戻って来なくなった時。
アルゴが怪我を隠すという判断をしたのなら、セラスの怪我はケリーより酷かったということになる。
――毎回事後報告なのは、エレネの身を守るためなのだろう。
瀕死状態のセラスが目の前に倒れていたら、エレネはケリーの時と同じように、衝動的にセラスの傷を癒そうとしてしまう。そうすることによって自分が命を失うことになったとしても。
そんなことをしても彼は決して喜ばない。……だけど、きっとエレネは自分を止められない。
「……キスしてくれないと、怖くて眠れないです」
涙交じりの声でエレネがそう言ってシャツに額をこすりつける。
「本当にエレネさんは狡い」
深いため息と共に、頭を押さえつけていた顎が外された。
エレネはゆっくりと顔を上げてゆく。襟の合わせ目からのぞく喉に赤黒く染まった包帯が巻かれていた。ビクッと体が震えた途端に仰向けに押し倒されて大きな手によって視界を塞がれてしまう。
セラスが少し体を動かすだけで、血の匂いが強くなる。それがきっかけとなって、エレネの意識は一気に五年前に引き戻された。
血まみれで倒れている少年の姿が脳裏に浮かぶ。喉から出かかった悲鳴をエレネは必死に抑え込んだ。
ガタガタと震えはじめたエレネの視界を塞いだまま、僅かに上体を起こすようにしてセラスは耳の横に肘をつく。
「人一倍怖がりなくせに……」
「怖くないです」
それが精一杯の強がりだと、お互いにわかっている。
「顔を潰したかったらしいです。それでミディアさまの気持ちが私から離れるとでも思ったのでしょう。……情けないし恥ずかしいし誇りが傷つくので見せたくありません」
その言葉の意味を理解した時、エレネの全身から一気に血の気が引いた。怪我の具合を確認しなくてはと思うのに、瞼にピッタリと手のひらが押し当てられているせいで目を開けられない。
「エレネさんは、あの時みたいに、今の私の姿をずっと忘れられなくなってしまう。私のことを思い出す時に、この姿を思い浮かべるようになる。それは絶対に嫌です。……だから、見せる訳にはいかない」
片手で目を塞いだまま、そっと唇が重ね合わされる。体温がなじんでお互いの境界線が曖昧になってゆく。いっそこのまま溶け合ってしまえばいいのにとそんな風に思った。体温が離れてゆくことが寂しくて、思わず伸ばした指先に触れたのは、乾いた布の感触だった。そこにしみ込んだ血の匂いがエレネの涙腺を刺激する。
「泣かないで下さい。本当に、そこまで酷いことにはなっていないんですよ。……単純に私の気持ちの問題ですね。恰好悪いところを見られたくないというだけです」
怯んだ指先にそっと唇で触れてから、セラスはエレネの瞼の上から手を離して隣に横たわった。エレネを胸元に引き寄せると、また顔を上げられないように顎で押さえてしまう。
「セラスは嘘をつかない人だと思っていました」
詰るような口調になってしまったのは許してほしい。不安や恐れを感じることに疲れてイライラしている。八つ当たり気味に目の前のボタンに指先を伸ばすと、大きな手にぎゅっと握り込まれた。
「エレネさんも嘘をつかない人ですよね? ……寝ましょう。少し疲れました」
「……そういう言い方は狡いです」
拗ねたようにつぶやくと、微かにセラスは笑う。
「こう言えば、エレネさんは素直に言うことを聞いてくれるとわかっているので」
一度手を離して涙をぬぐってから、指を絡ませるように繋ぎ直す。
慣れ親しんだ水の気配に包み込まれている。目を閉じると、ゆっくりと二人きりで水の中に沈んでゆくイメージが思い浮かんだ。
「……あなたが好き」
囁くように告げた言葉は確かに彼の耳に届いたらしい。
エレネを包み込んでいる体がびくっと震えて、握り合った手に力が込められた。
朝起きた時にはすでにセラスの姿はなく、椅子に座ったアルゴが、かけ布団の上に広げられた大きな地図を真剣な顔で眺めていた。十分な睡眠時間を確保できたらしく、すっきりとした顔をしている。無精ひげもきれいに剃って髪も整え、いかにも貴族然としたいで立ちをしていた。
視線に気付いたアルゴがふと顔を上げる。エレネと目が合うと、彼はこれみよがしにため息をついてみせた。
「本当にお子様だな……というより、おまえたち前世は猫か何かだったんだな多分。……あれか、季節的にまだ少し先か」
第一声は嫌味だった。エレネの眉間に深い皺が寄る。
人生二週目なので、彼が何を言いたいのかはさすがにわかる。……猫の繁殖期はまだ少し先だ。露骨に不機嫌になったエレネを見て、アルゴはにやにや笑っている。
「怪我人を襲う趣味はありません」
「負け惜しみだな」
「高貴な方のお言葉とは思えませんが」
エレネが嫌味で返すと、アルゴは軽く肩を竦めて、ごく自然な素振りで窓の外に視線を移した。
「俺は四男でな。まさか家を継ぐことになるなんて夢にも思ってなかったんだよ。……十代の頃に何も考えずにふらっと家を出た。腕っぷしには自信があったから、傭兵みたいなことをして日銭稼いで、目的もない旅を続けてたんだ。あの頃が一番楽しかった。そういう生き方の方が性に合ってるんだろうな」
「……すみません。余計なことを言いました」
エレネは目を伏せて先に謝っておく。何も知らなかったとはいえ、あまりに無神経な発言だった。この先の話の展開が明るいものである筈がない。
「東と戦争が始まって、俺が所属する傭兵部隊は国境の激戦区に送り込まれた。戦力的には圧倒的にこちらが不利だったんだが、たまたま強い寒波が襲来して、防寒対策が万全ではなかった敵はあっけなく自滅した。そんな訳で俺は運よく生き延びたが、海軍の指揮官だった兄たちは誰一人戻って来なかった。それで俺が家を継いだ」
その説明は、今考えついたにしては簡潔にまとまりすぎている気がした。きっと予め用意されていたものなのだ。必要以上にエレネを怖がらせないよう、慎重に言葉が選ばれているように思う。
アルゴはどういう顔をしていいのかわからないといった様子のエレネを見て「話すきっかけを与えてもらえて正直助かった。自分からは切り出しにくい」と付け加えた。
「ここは傭兵仲間の両親がやってた宿屋だったんだよ、戦場から戻ってきて、傭兵仲間とここで飲んだくれてたら、ラウラさまが、まだ赤ん坊だったミディアと一緒に俺をここまで迎えに来た。あの方に出てこられたら……もう逃げられんよなぁ」
アルゴは昔を懐かしむ目になって大きく室内を見回すと、椅子から立ち上がって窓に向かって歩き出した。
「ミディアは一番上の兄の娘だ。母親のことは何も知らん。ここまで固執するんだから東の奴らは母親について何か知っているんだろうさ。でも、そんなことはどうでもいい。ミディは俺の大切な一人娘でうちの後継ぎだ。婿は取っても嫁には出さん」
ガラスの向こう側の灰色の空に向かってそう言った後、体ごとエレネを振り返って疲れたように笑った。
「うちに男子が生まれれば状況が変わる。毎晩私室に薄着の美女が忍び込んでくるんだよ。俺は猫じゃないんで神殿に籠る。しばらくここには来られない。ケリーとセラスが完治するまでの間、エレネの護衛にはルカがつくからな」
「ルカ、というのはどなたでしょう?」
エレネがおずおずと尋ねると、アルゴは呆れ果てた顔になった。
「紫色の目をした人形みたいな神官いただろう。ルカ・フェブルアリオス。神殿騎士なんだよ。軍服のボタンが違うんだ」
「ええと、お呼びするときは、今まで同様『神官さま』でいいのでしょうか? それとも『神殿騎士さま』とお呼びした方が?」
「…………呼びやすい方でいいんじゃないか?」
「では今まで通り、神官さまとお呼びします。……長いので」
「ここで俺に宣言されても困るんだがな……」
エレネとしては、失礼のないようにきちんと確認しておきたかっただけだ。
しかし、アルゴからはとても残念なものを見る目を向けられてしまった。




