風に散る花のように 下
季節は一定方向にしか廻らない。春が来て夏。夏の次は秋で、その次が冬。
そしてまた――春。
道の途中で足を止めて、エレネは冬支度のために葉を落とし始めた木々を見上げる。
この木にはどんな花が咲いていたのだろう。
どんな色だった? 花弁は何枚あって、どんな香りがしていた?
毎年、蕾が膨らんでいる頃になると思い出して、花が散ってしまうと忘れてしまう。
そもそも、花が咲くのはこの木だっただろうか。次のカーブの手前にある、まだ葉が青々としているあの木だった? 先ほど通り過ぎた、枝が根元から二股に分かれている木だったような気もする……
花が終わったあとも変わらず木はそこにあるのに、その存在をはっきりと思い出すのは花が咲いている間だけだ。
顔を正面に戻してちいさなため息をつく。
こんな所で寂しがっているくらいなら、さっさと会いに行けばいいのに、エレネはどうしてもそれができないでいる。
――今夜は満月だ。一緒にいてもきっと辛いだけだったかもしれない。
そんな風に考えた時、古い記憶の世界の寓話を思い出した。
どうしても届かない場所にある葡萄を恨めしそうに見上げて「どうせ美味しくないさ」と負け惜しみを言う狐の物語。……今のエレネはまさにその狐だ。本当にどうしようもないなと、苦笑する。
気持ちを切り替えて再び歩き出そうとした時、ふと洗濯用の石鹸を買うのを忘れたことに気付いた。もうすぐなくなりそうだから、買い足しておこうと思っていたのだ。
(あ……どうしよう)
日の高さを確認して、道の前と後ろを交互に見たりしながら逡巡する。絶対に今日必要なもの、という訳ではない。店番をしているケリーたちが心配するだろうから、早く戻った方がいいとも思うのだが……
(セラスが戻ってきて洗濯をしようとした時に石鹸がないと、きっと困る)
やっぱり買って来よう。エレネは踵を返して走って今来た道を戻り始めた。
――本当はわかっている。そんなのは後付けの言い訳で、彼の存在がすっかり消え失せてしまった店に戻るのが少し怖くなってしまっただけなのだ……と。
なじみの店で石鹸と、遅くなったお詫びのリンゴも買って急ぎ足で店に戻る途中……急に胸騒ぎがしはじめた。いてもたってもいられないような気持ちになって、早歩きが小走りになり、焦燥感に追い立てられるように駆け出す。
遠くに店の外観が見えた途端、予感は確信に変わった。紺色の服を着た騎士たちが数人集まっている。やはり、エレネが留守にしている間に何かあったのだ。
ずっと走っていたからもう息が苦しい。足にも力が入らない。歩いた方が早いような気がするのに、走ることをやめられない。
店の前に立っていた騎士が、ふらつきながら走ってくるエレネに気付いて大きく片手を振る。
「大丈夫です。エレネさん、落ち着いて下さい。一旦止まってください」
しかし、エレネは彼の『大丈夫』という言葉をどうしても信じることができない。頭の中は真っ白だ。荒い呼吸音が耳の中に響き渡っている。
店には、ケリーが少年と一緒に残っている。本当に大丈夫なら彼女が真っ先にエレネにの前に現れて、笑顔で「大丈夫」だと伝えてくれるはずだ。彼女はそういう人だから。
それができないのであれば……ふたりの身に何かがあったのだ。
最後の気力を振り絞って、もつれそうになる足を必死に前へと進める。
店内から出てきた別の騎士が、エレネに駆け寄ってくると両手を大きく広げて進路を塞いだ。しかし、エレネは眼前に立ちはだかった人物など見えていないかのように走り続ける。正面衝突する前に強い力で両肩を掴まれて押し戻されるが、それでも首を伸ばすようにして前へ前へ……実際には、ぼんやりした目を店の入り口に向けたまま、その場で足踏みを繰り返しているだけだ。
もう手遅れだ。全部今更だ。そう嘲笑う声が頭の中で渦を巻いている。
「ふたりとも無事です。今あなたが行っても治療の邪魔になるだけですっ」
厳しく叱りつける声が、エレネの頭の中の笑い声を打ち消した。体を左右に揺らすように数回足踏みをしてようやく足が止まる。耐えがたいまでの息苦しさを覚えて、目を閉じ必死に息を吸う。あまりに苦しすぎて目に涙が滲んだ。
「二人とも命に別状はなく、今、店の中で傷の手当てをしています。建物も修復不可能な程の被害を受けてはいません」
端的に状況を伝える声には聞き覚えがあった。長い時間をかけて呼吸を整え、ようやく深呼吸できるまでになったエレネは、ゆっくりと色違いの目を開く。
「……しん……かん……さ……ま?」
伸ばした両腕でエレネの肩を掴んで支えているのは、羽根と剣のしるしを持っていた神官の青年だった。前回訪ねてきた時とは異なり、今の彼はセラスと同じ紺の軍服姿だ。
「何があったかはこの後説明します。まずは気持ちを落ち着かせてください」
冷静な表情と声に影響されて、エレネの気持ちも少しずつ平静を取り戻してゆく。僅かに身を引くと、すぐに肩から手を離された。エレネはよろよろと数歩後ろに下がり、頭を下げる。
「申し訳、ございません」
「あなたのせいではありません。動揺するのは当然ですから私に対する謝罪も必要ありません。……荷物、重くはありませんか?」
取ってつけたように最後にそう尋ねられ、エレネは買ってきた食料を入れた布袋を背負ったままだったことを思い出した。ずっと走っていたから……上下に揺らされ続けていた中身がどういう状態になっているのかわからない。
「大丈夫です。そんなに中身は入っていないので、このまま持って行きます」
「そうですか」
表情を変えることなくそう言って、そっけなくエレネに背を向けて歩き出す。
(あ……)
その後を追いかけながら、エレネは悪夢から目覚めたかのように、気持ちがすっかり切り替わっていることに気付いた。背中の荷物に気を取られたことで、疑心暗鬼から解放されたのだ。……偶然という訳ではないだろう。
気付かなければ冷たい人で終わってしまう。近寄らせず、跳ね除ける訳でもない。他人との距離を取るのが上手な人なのだなと思った。今もエレネが追いかけてきやすいように、ゆっくり歩いてくれている。
「ミディア様を素直に差し出して戦争を回避せよと声高に叫んでいる方がいらっしゃるんです。レガリアのアレスを人質に取って宮中伯に心理的な圧力をかけるのが目的だったのでしょう。店に戻るのに合わせて急襲を仕掛ける計画だったのに、あなたは村へと引き返してしまった。襲撃者たちが気勢を削がれたことは間違いないでしょうね」
あまりに淡々と説明されたために全く実感が伴わない。言葉は右耳から左耳へとそのまま抜けてゆく。わかったことは、石鹸を買うために村に引き返していなければ、エレネは襲撃者と鉢合わせていたということだけだ。
「ケリー・マイオスは全治一カ月といったところでしょう。もう一人は軽い擦り傷を負っただけです。女だからと下に見るような輩に彼女が負けるはずがない。……ただ」
そこで一旦言葉を切って、ちらりとエレネを流し見る。
「ゲディンスのエレネは、痛みに強い方ですか?」
「いいえ?」
どうしてそんな事を聞くのだろうかと訝しみながら、エレネは首を横に振る。
「あれだけの加護を受けているのに、ですか?」
「…………え?」
エレネは思わず足を止めてしまう。これは嫌味……なのだろうか。とても失礼なことを言われているのだが、怒りの感情は湧いてこない。ただ困惑している。
「ここは、怒るところだと思うのですが。……余計なお世話かもしれませんが、何事においても、もう少し疑ってかかった方がいいと思いますよ」
数歩先で足を止めて振り返ると、彼は紫色の目を細めてふっと笑った。
「怒ると疲れるので」
エレネはひとつ息をついて、空を仰ぐ。日が傾いて風が出てきていた。
「……そんな風に、言われるんですか?」
「神様から、祝福を与えられた人間は、丈夫で傷の治りが早くて痛みを感じない」
「そんなこと、あり得ません」
エレネは強い口調で否定する。痛みは身を守るために絶対に必要なものだ。痛覚が失われてしまったら、自分の身に起きた異常を察知できない。
「でも、大方の人間は疑問に思うこともなく、そう信じているのですよ」
紫色の瞳を閉じて静かな声でそう返された。エレネの眉間に深い皺が寄る。納得がいかないが、神官である彼がそう言うのなら、それが一般人が『加護』というものに抱いているイメージなのだ。
「やっかみもあって、根も葉もない噂が独り歩きしているのです。人より早く傷が癒えるのだから、痛みを感じる時間は短いということは確かにあるのかもしれません。……でも、その分他人より多くの傷を負っている」
空に向かってそう言ってから、彼は再び歩き出した。長く伸びる影が離れてゆくのに、エレネの足はその場に縫い留められたかのように動かない。
「加護を受けているならその代償として痛みに耐えろ……と?」
昂った感情をうまく抑えることができず、声が低く掠れてしまった。
そんな言葉を直接ぶつけられて、冷静でいられる自信はない。想像するだけで苦しい。悔しさと腹立たしさと悲しさが入り混じって、もうよくわからないものになってきている。
「そう声高に叫ぶことによって、与えられなかった自分を正当化する人間もいるということです」
それこそまさに『酸っぱい葡萄』だ。手に入らない物の価値を無理やり下げて、持っている人を貶めている。どうしても欲しいものが手に入らないのが悔しくて、屁理屈をこねているだけだ。
『あれだけの加護を受けているのに……』
『神様から、祝福を与えられた人間は、丈夫で傷の治りが早くて痛みを感じない』
そんな声を耳にする度に、心に傷を負う。傷が癒える前にまた次の言葉が突き刺さる。
そんなことが繰り返られるうちに、『祝福』は『呪い』へと変わる――
「……エレネ、さん?」
ゆっくりと目を開けたケリーは、ぼんやりと視線を彷徨わせてから、ベッド脇に座っているエレネに気付いてそのまま体を起こそうとする。エレネは慌てて布団に手を置いて彼女を制止した。
「体を起こしてはダメです。傷にさわります」
「大丈夫だよ……私は」
天井を見つめながら掠れた声でそう言った彼女の姿を見ていられなくて、エレネは目を伏せて大きく首を横に振った。肩に深い傷を負った彼女はかなりの血を失っている。剣のしるしを彼女に与えた神様の加護がなければ命を失っていてもおかしくはなかった。
「これくらい大したことない……心配かけて、ごめん。本当に、大丈夫だから」
それなのに……彼女はエレネに向かって申し訳なさそうに謝るのだ。紫色の唇の両端を持ち上げるようにして、無理やり微笑む姿は痛々しい。エレネは表情に出さないように気を付けながらぎゅっと膝の上に置いていた拳を握りしめた。
(私はいつも、教えてもらうまで気付けない)
加護を受けているから。傷の治りが早いから。人より頑丈だから。だから大丈夫。人より過酷な状況にも耐えられる。
彼女は周囲からずっとそう言われ続けきたのだろう。
常に強い自分であることを求められ続け、それに応えてきた。その生き方を否定するようなことはしたくない。
「班長さんの『大丈夫』を、私は、信じます」
ほっとした顔をしているケリーを見て、胸が締め付けられた。
「…………でも」
泣くつもりなかったのに、喉の奥が熱の塊に塞がれたようになってうまく声が出せなくなる。
「痛くて辛くなったら言って下さい。……今夜はずっとここにいるので」
ケリーは思いがけないことを言われたと言うように、大きく目を瞠る。無理やり持ち上げられていた唇が震えて、彼女はぐっと何かに耐えるように唇を嚙みしめた。
「言ってどうなることでもないし、私はその痛みを代わりに引き受けることもできませんが、気持ちに寄り添うことはできるかもしれません。今となっては恥ずかしいんですが……私、誰にも迷惑をかけずにひとりで生きていかないとって、思い詰めていた時期があったので」
人形劇団に匿われて旅をしていた頃、エレネは『私はひとりでも大丈夫』そう自分に言い聞かせ続けていた。
弱音を吐いてしまったら……己の弱さを受け入れて認めてしまったら、今日まで必死に形を保ってきた『私』がみっともなく崩れて、二度と立ち上がれなくなってしまうかもしれない。そんな風に思っていた。
ケリーは周囲の期待に応えるためにずっと頑張り続けてきた人だ。ずっと守られていたエレネとは立場も境遇も違うけれど、もしかしたら、似たような気持ちを抱えているのかもしれない。
「見ないふり聞こえないふりは得意なんですよ? 私。……あと、忘れるのも」
湿っぽくなりすぎないように、少しだけ笑いを混ぜて口にしたのに、ケリーにとても悲しそうな顔をさせてしまった。失敗した……と、エレネは内心ため息をつく。あまりに長い間他人と表面上の付き合いしかしてこなかったから、どうしていいのかわからない。人生二週目のくせに。
ケリーは天井をじっと見つめてから、目を閉じる。
「痛みはないよ。大丈夫」
「……はい。なら、よかったです」
エレネは精一杯の微笑みを浮かべて頷いてみせる。
彼女が誰にも見せないように隠しているものを、無理やり暴き立てようとは思わない。
ただ……無力感に苛まれている。もどかしくて、寂しい。自分は全く必要とされていない気がして。
「…………でも」
しばしの沈黙の後、小さな声がエレネの耳に届いた。目を閉じたままケリーは静かに泣いている。溢れた涙が耳の方へと流れた。
「でも、ひどい怪我をしたときは、夜が怖いんだ」
目を開けたケリーは、不安そうに視線を彷徨わせた。深夜に真っ暗な部屋で目を覚まして怯えている幼い子供のように。
目の前に差し出された震える手を取って、エレネはしっかりと両手で包み込む。
「なら、こうしてこうしてちゃんと捕まえておきます。班長さんがどこにも行かないように」
「眠るのが、こわい。もう二度と、目が覚めないような気がする」
「目を閉じてみてください。手を握っているのはわかりますよね?」
「……うん。ちゃんとわかる」
ベッドの上に肘をつき、握りしめたケリーの手を額にあてて、痛みが少しでも和らぐように一心に祈る。
どうしても『痛い』と言えないこの人のために、できることがひとつでもあるのなら、どんなことでもしたいと思っている。今のこの気持ちを、善意の押し付けだなどと言う人には二度と心からの笑顔を向けることはできないだろうとさえ思う。
「エレネさんの手、あったかい……」
表情からこわばりが解けて、ケリーが穏やかな声で呟いた。
「怖いから、今夜はずっと、ここにいてくれる?」
「はい」
エレネがしっかりとした声で返事をすると、ケリーは今までよりも少し深い呼吸をした。それを何度か繰り返し、すうっと眠りに落ちる。
それを見届けた途端に頭がくらっとした。目を閉じてじっとしていると、どこか遠くの方からノックの音が聞こえはじめる。返事をしなくてはと思うのに、頭が重たくて動けない。せめて返事をしなければ……と思いながらも、勝手に瞼が閉じてしまう……
静かにドアが開いて、部屋に誰かが入ってくる。すぐ近くで立ち止まる気配を感じて、重たい瞼を無理やり持ち上げる。いつもケリーにくっついている少年が床に膝をついてエレネの顔を覗き込んでいた。
目が合うと、彼は両手をケリーとエレネの手の上に重ねて、これでいい? というように首を傾げる。見える範囲に怪我はなさそうだ。エレネはほっと安堵の息をついた。
「無事で、よかった。……あなたに何かあったら、班長さんはものすごく悲しみます」
少年はじっとエレネを見つめたまま右手を持ち上げて、指先でさっとエレネの前髪を揺らした。その後自分の前髪に触れて、触感を確認しているのかもう一度エレネの前髪に触れてから、右手を左手の上に重ねる。
そうやって彼は、失ってしまった感覚を取り戻そうとしているのかもしれなかった。
「もう一つ椅子を用意しますね。それまで私の代わりに手を握っていてあげてください……班長さんが怖くないように」
少年の手を取ってケリーの手を握らせると、ベッドに片手をついてエレネは椅子から立ち上がる。
「あ……れ……?」
目の前が急に暗くなった。あ、これはまずいと、椅子に座りなおそうとするが、視界がぼやけて距離感がつかめない。背枠を掴もうと伸ばした手がぶつかって、椅子が大きく横にずれてしまう。
ぐらりっと傾いだ体を誰かが抱き留めて、ベッドの凭れ掛からせるようにして床に座らせてくれる。
「すみ……ま……せん。貧血……みた……」
生あくびをくり返しながら、エレネはやっとそれだけ伝える。めまいがひどくてもう目を開けていられない……




