風に散る花のように 上
いつも穏やかに笑っている。そんな人だ。
つまり『不機嫌』とあからさまに顔に書いてある、というのは大変に珍しい。故にエレネは今非常に困惑している。
「ええと、ですね。どうされました?」
野菜を刻む手を止めて、エレネは調理台の向こう側に立っているセラスに尋ねる。彼はすでに軍服から私服に着替えていた。
「何でもないです」
拗ねたようにふいっと少し顔を背ける、というのはエレネがよくやる仕草であって、彼ではない。だから、珍しいな……と、興味深く眺めてしまう。じいっと見られていることに居心地の悪さを感じたのか、セラスはちらっとエレネの表情を盗み見て、観念したかのようにため息をついた。
「お茶のお礼がしたいという方が、明後日、エレネさんを訪ねてくるそうです。あと、少し先の話になるのですが、私は護衛任務のために宮殿に戻らなければならなくなりました。そうなると、しばらくこの村には戻ってこられないかもしれません」
エレネは目をぱちぱちと瞬いた。情報量が多すぎたため、理解するまでに時間を要したのだ。
「ええっと……しばらく戻らないとはどのくらいの期間ですか?」
困惑気味にエレネが尋ねると、彼は驚いた顔をしてまじまじとエレネを見つめた。
「気にするところはそこですよね?」
先回りしていたずらっぽく尋ねると、彼はきまり悪そうな顔をしてくるりと背を向けてしまう。くすくすと笑っているエレネを恨めしそうに振り返った頬が少し赤い。
「……だから、エレネさんも一緒に来ませんか?」
「……え?」
さらっと言われた言葉の意味が、エレネには本当に理解できなかった。
「しばらくの間、村の外で暮らしてみませんか?」
あくまで軽い口調で。だけど、真剣な目をして彼は臆病なエレネに誘いかける。
「でもっ……あ、あの、お店が……あと、もうすぐ冬ですし……」
無意識の内にエレネの唇から零れ落ちていたのは、『一緒に行けない』理由だった。
毎日ここに編み物をしにくるおばあちゃんたちのためにも店は開けておきたいし、冬ごもりのために、エレネが二年間お世話になっていた人形劇団がもうすぐここにやってくる。
彼らをいつでも迎え入れられるように母屋の掃除はすでに終わっているのに、セラスは今も店の奥にある狭い物置のような部屋で寝泊まりしていた。
彼の勤務には規則性のようなものがない。一応週の頭に予定は教えておいてくれるのだが、その通りに戻って来られないこともある。
朝起きてエレネが一階におりて行ったときに、部屋のドアが開け放たれている場合は、セラスはここにいないのだ。そういう時は……少し寂しくなってしまうから、本当に困る。
「護衛任務につくのは春になってからです。それに、隣村に見習いのアレスがひとり派遣されてくると聞いているので、問題ありませんよ。外に出る練習も兼ねて、少しの間ここを離れてみませんか? 冬までには戻って来られます」
外に出ても大丈夫な理由をセラスから与えられても、エレネはどうしても首を縦に振ることができない。
「……え……あの……でも……わたし……」
胸の前で両手を重ねるように握りしめて、おろおろと視線を彷徨わせる。
彼と離れるのは寂しいけれど、それ以上に、この店から外に出ることにより強い抵抗感を持ってしまう。冬までに戻れるというのならば数週間程度のことだろうに、一緒に行けない言い訳ばかり探している自分が嫌になる。
「ごめ……」
「エレネさんが謝ることなんて何もないです。私が強引に誘っている訳ですから。まだしばらく先の話なので、冬の間、ゆっくり考えてみてください」
セラスはそう言って優しく笑う。いつだって彼は、自分の望みよりエレネの願いを叶える方を選ぶ。
「……離れたく……ないです」
その声は、自分でも驚くほど暗かった。だがすぐに、それだけでは誤解を招きかねないと気付いたエレネは慌てて顔を上げる。……違う。そういう意味ではなくて、それは誤解で。もう二度と離れたくないのは――
「……あなたと」
焦って付け加えたことにより、かえって言い訳のようになってしまった。エレネは俯いて顔を顰める。これ以上は何を言っても後付けでしかない。どうしよう……どうしようと頭の中はもうそれだけだ。
「私は、セラスと離れたくない。それはすごく、いやです。ここを離れることも怖いけれど、それより、あなたに毎日会えなくなることの方がずっと怖い。私は、セラスにここにいてほしい」
言葉を重ねれば重ねるほど、詭弁を弄して自分を正当化しようと躍起になっているように見えてしまう。わかっているのに、止まらない。
「私、わたしは、あなたと一緒にいたいのに、一緒に行けなくて。だけど、セラスがいない場所にはいたくない……ので、できればずっとここにいてほしいです。……おはようございますって、一番最初に言うひとはあなたがいい」
「え、ええええっと……エレネさん、一旦、落ち着きましょう……ちょっと話がおかしな方向に行ってます……」
焦った声で制止をかけられたことにより、エレネは我に返る。必死に言い募っていたのに、いざ思い返してみれば何を言ったのかほとんど覚えていなかった。
セラスは両手を調理台について項垂れている。……耳が赤い。
こういう反応をされるような事を言ったのだと気付いたエレネの頬もどんどん赤く染まってゆく。直接的な言葉では恥ずかしくて伝えられないくせに、どれだけ自分がセラスを必要としているかという話を延々と本人に語り聞かせていたような気がしなくもない。我が儘にもほどがある。
「外は……セラスと一緒でもまだ怖いです。ごめんな……」
「エレネさん、そういえば、お店のカーテンを新調したいって言っていましたよね。明後日私は一日休みなので、テトナまで見に行ってみましょうか」
セラスは強引にエレネの言葉を遮る。
ちいさく深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、エレネは熱の引かない顔を上げた。いつだって、先に冷静さを取り戻すのは彼の方だ。
「明後日、どなたか私を訪ねてくるんですよね?」
「……覚えてたんですね」
すっとエレネから目をそらしたセラスが、食器棚の方を見ながらそう言った。
視線の先にあるのは、彼がエレネに贈ってくれたちいさな一重のバラの花だ。すっかり茎が短くなったピンクの可愛らしい花は、もうあれが最後の一輪。
「……会わせたくないんですか?」
「そんなことはないですよ?」
エレネをちらりと流し見てから、これでおしまい。とでも言いたげに、彼は穏やかに微笑んだ。
(でも、それなら、なぜ疑問形?)
とエレネは内心首を捻った。
翌朝、一階に降りると、セラスの部屋のドアは開け放たれていた。調理場はまだ暖かく、余熱が残るオーブンの中には、切り分けたパンと、昨日の夜にエレネが下ごしらえをしておいた朝食用のスープが保温されている。
あたたかい朝食が食べられことに感謝しながら、お茶を淹れるためのお湯を沸かす。朝食用の食器は、調理台の上にまとめて用意されていた。
この生活に慣れてしまったから、彼がいない日々はきっと……想像以上に味気ないものになってしまうだろう。
――ひとりに戻るのが怖い。
雨戸を開けたら赤い実が落ちてきたこと。風に雪の気配を感じたこと。昨日より水が冷たかったこと。そういうことを、彼がそばにいない間、誰に話せばいいのだろう。窓から見える、低くなってきた空を眺めながら、そんなことをぼんやりと考えている。
怪我が癒えるまでここにいると告げられた時は、これほどまでには『終わり』を恐れていなかった。どんどん自分が臆病になってゆくのがわかる。
セラスと離れるのは怖い。でも、それでも、一緒について行くと、どうしても言うことができない。
住み慣れたこの場所を離れたら、自分が自分でなくなってしまうような気がする。
一度離れてしまったら、同じ場所にはもう戻って来られないかもしれない。
冬が終わったら、彼はここから去ってゆく。しばらくとは、どのくらいの間だろう。……一カ月、或いは二カ月? 庭の花が満開となる頃には、ここに戻って来られるのだろうか。
――マイオス、というのは古い言葉で『五月』を表すのだそうだ。
皐月。さつき。新緑の季節。
不意に、すりガラスの向こう側の景色のような……古い古い記憶が不意に胸に蘇る。
四角く刈り込まれた道路脇の生垣に、赤やピンクの花が咲き誇っていて、黄色い帽子を被った子供たちが二列に整列して歩いている。思い出すのはそんな風景だ。
遠い記憶の中の暦の名前を呪文のように唱えてみる。季節を表していたそれらの言葉も、ここでは意味をなさない音の繋がりでしかない。
「睦月、如月、弥生」
冬から春へ。桜が咲いてあっという間に散って……
「卯月、皐月、水無月」
雨の季節が終わり、夏。どこまでも高い空。
「文月、葉月……」
『夏生まれの子は寒いのが苦手とは言うけど、本当にこの子は呆れるくらい寒がりねぇ』
誰かの囁き声が耳に蘇った途端に、薪が爆ぜたような音がした。驚きのあまり、一瞬目の前が真っ白になる。
慌てて振り返ると、やかんの口から勢いよく湯気があがっていた。蓋がカタカタと音を立てている。
飛び出しそうに暴れている心臓に手をあてて、ゆっくりと深呼吸をくり返す。ガクガクと膝が震え出して、もう立っていられない。床にしゃがみ込んで、両手で顔を覆う。頬や額に触れる指先が凍ったように冷たい。
「ちがう」
力なくつぶやく。ちがう、ちがうと声に出して繰り返して、何度も自分に言い聞かせる。
「ちがう、それは『私』じゃない」
(そう。それは私じゃない。私は夏生まれではないもの)
心の中に、もう一人の自分の冷静な声が響く。
「でも、いつか、わからなくなってしまうかもしれない」
(そうね、そういうことがあるかもしれない。わからなくなってしまったことさえ、わからなくなるのかもしれない)
自分が今誰で、今、どんな姿をしていて、今、どこにいるのか。
誰かが覚えていて教えてくれないと、きっと見失ってしまう。
盛りを過ぎた花が風に散ってしまうように。
「エレネさんっ」
切羽詰まった声で名前を呼ばれ、勢いよく開かれたドアが壁にぶつかり派手な音がした。
……え? と、顔を両手で覆ったまま、エレネは大きく目を見開く。
「持ち上げますよ。頭痛がするかもしれませんけど、少し我慢してください」
視界が一気に高くなる。慌てて肩にしがみつくと、額に大きな手があてられた。
「熱はなさそうですね。大丈夫ですか?」
エレネは何が起こったのかわからず、近い位置にある青い瞳を茫然と見つめた。軍服を着たセラスは、怒っているのかと錯覚しそうなくらい厳しい表情をしている。
店の方から入ってきたセラスは、奥のドアを開けたところで、調理場の床に蹲っているエレネに気付いたのだろう。彼の受けた衝撃はかなりのものだったらしく、呼吸が荒く顔色も悪い。ここまで取り乱している姿をエレネは初めて見た。
「あの……お仕事に行かれたのでは……」
「おばあちゃんたちは今日、こちらに来られないそうなんです。エレネさんが気にするだろうから伝えてほしいと頼まれました。巡回の者に伝言を頼んでも良かったんですけど、昨日のこともあったので……戻ってきて正解でしたね」
セラスは安堵のため息をついて、強張っていた表情を緩ませる。それを目の当たりにした瞬間、どうしてかエレネの瞳からぽろぽろっと涙が溢れ出した。
「あ……あれ?」
と、エレネは戸惑ったように瞬きをくり返す。セラスは額に当てていた手を頬に移動させると、指先で涙をそっと拭う。
「私が未熟だから、エレネさんに辛い思いをさせてしまいました。あんな風に、何かのついでのような形で伝えるべきではなかった。本当にすみま……」
「セラスはっ」
謝罪しようとするセラスを、今度はエレネが強引に遮る。
「私がどう反応するか、確かめておきたかったんですよね? 一緒に行くというのはもう、決まっていることなのでしょう?」
泣き笑いの表情を浮かべるエレネを見て、彼はますます苦しそうな表情になった。奥歯を噛みしめるようにして昨夜の言動を悔いている姿を見ているのは辛い。だから、何でもない。大丈夫だと、エレネは必死に平静さを装う。
「明日、あの時お茶を渡した神官の方が、招集の命令を私に伝えるために、こちらへいらっしゃるのですね」
「…………逃げてみますか? 一緒に」
しばしの沈黙の後、暗い翳りを帯びた目をしてセラスが尋ねる。頬に触れた手が少し震えている。ここでエレネが頷けば、彼は躊躇いなく実行するつもりだ。
その声の響きの重さに、一瞬、呼吸の仕方さえも忘れた。
瞼を閉じて、頬を流れ落ちる涙の暖かさに意識を向ける。それは、今まで彼からもらったどんな言葉よりも激しくエレネの心を揺さぶった。
「……逃げないです。セラスの立場が悪くなるようなことはしたくない」
エレネは、口角を無理やり持ち上げて、静かに首を横に振る。ズキッと後頭部に鋭い痛みが走る。呪いが忍び寄ってきている。でも、それを今はどうしても彼に悟られたくはない。
「……それに、逃げたらもう、ここには戻って来られないでしょう? 呪いも解かないといけませんしね」
「私はエレネさん以外の女性と話せなくても問題ありません。エレネさんは旅生活には慣れていますよね。二人で旅を続けるのもいいし、誰も知らない場所で暮らすのもいいかもしれない」
ずっと彼が心の奥底に抑え込んで、隠し通してきた不安が、ほんの少しだけ外に溢れ出した。まさにそんな感じだった。
自分のことで精一杯だったエレネは、こんな台詞を言わせてしまう程、彼を追いつめていたことに気付いていなかったのだ……
「逃げることに前向きにならないで下さい。月が満ちれば、言葉を交わすことさえ難しくなるかもしれません。……そういうの、私は絶対に嫌ですよ?」
エレネは頬に当てられた手に自らの手を重ねて、少し顔を横に向けて手のひらにキスをする。セラスは、はっと我に返り、痛みを堪えるような表情で視線を彷徨わせた。
「私はここが好きです。セラスとの思い出が……全部ここにあるから。ふたりで暮らすならここがいい」
「…………簡単にそういう事、言わないで下さい」
長いため息をついた後、彼はそっとエレネを床におろす。
「エレネさん、頭痛がしてきてますよね? 一度離れてください」
「痛くないです」
本当は吐き気がしそうなくらい辛い。背中に嫌な汗をかき始めている。けれど、それをどうしても認めたくなくてエレネは意地を張る。
「声が震えています。……朝食を温めなおすので、ソファーで待っていてくださいね」
むっと眉間に皺を寄せたエレネに気付いたセラスは、体当たりを警戒して両手で肩を押さえた。そのままくるりっと体を反転させられて、お店へと続くドアの方へとそっと背中を押される。
距離が離れれば頭痛は遠ざかるのだと経験上わかっている。
本当に……嫌な呪いだ。呪師の性格の悪さが表れているかのよう。
離れたくないという気持ちと、相手を苦しめたくないという気持ちの狭間で煩悶する様子を思い浮かべて、きっと今頃、どこか遠くで嘲笑っている。
「粗茶ですが」
一言断ってから、薄緑色のお茶の入ったカップをテーブルの上に置く。大量のお茶が詰め込まれた瓶をその横に置いて、エレネはあの日のようにお盆を胸に抱きしめて、テーブルの傍らに立つ。
「賄賂は受け取れません」
全く表情を変えずに、神官の青年は冷たく言い切った……のだが、しばらくの間瓶を眺めた後「何が知りたいんですか?」とエレネを見上げた。お茶は大変気に入ってもらえているようだ。
「先に断っておきますが、答えられないことの方が多いですよ?」
神官はアレスよりずっと制約が多い。それはエレネも重々承知している。
「ミディアは無事なんですか?」
神官の青年は意外そうに眼を僅かに見開く。そうしてから、唇を震わせるようにして……笑ったようだった。
「今は神殿に幽閉状態です。宮中伯はあなたが読み取った助言の通りに行動されました。『お呼びでないと東に向かって叫べ』でしたね。さすがに言葉は選んでいましたけれど。……この程度のことなら、セラス・マイオスも普通に答えたと思いますが?」
つまりは、この部分に関してなら、もう少し突っ込んで聞いてもいいということなのだと判断する。
「呪われる相手が彼であるというのが、私にはどうしても納得がいきません」
神官は、顎に手をあてて考え込んだ。眉間に深い皺が寄ってゆく。
「……宮中行事や社交の場で、常にミディアさまの一番近くにいたのはセラス・マイオスでした。ミディアさまは『弟のようなものだ』とおっしゃっていましたが、言葉通りに受け取らなかった者もいたということでしょう」
彼はエレネに誤解を与えないように、慎重に言葉を選んでくれたようだ。前回会った時にも思ったが、いかにも冷淡そうな見た目に反して情に厚い人のようだった。これだけ沢山のしるしを神様から与えられているのだ、高い人間性を神様に認められた優れた神官であるということは間違いないだろう。
「結果だけ見れば、――単純に人違いですね」
表情も変わらず声も平坦だったが、気の毒がられているというのは十分伝わってきた。
やはりそういうことか……と、エレネは内心ため息をつく。
ミディアは本当にエレネのためにセラスの『虫除け』をやってくれていたらしい。
――だが、そのせいで、セラスは呪われることになったのだ。
少し間があくかもしれません。
この二人は、呪いが解けようが解けまいが、あまり関係ないような気がします……




