どうやっても消し去ることができない苦くて黒いもの 下
長くなってしまったので、エピローグはわけます……
馬が嘶いて何かを知らせようとしている。
視界がぼやけてよくわからないのだが、門をくぐってこちらにやって来る人々がいるようだ。その内の一人エレネに駆け寄り、大きな布をふわり広げすっぽりと雨の濡れた体を包む。柔らかい手がエレネの手を取り、湯気の立つカップを両手で包み込むように持たせた。強いアルコールと瑞々しい果物の香りがした。
「まずは飲んで。温まるから」
よく知っている女性の声だ。エレネは目線を上げて、
「……班長さん?」
と、ぼんやりとした声で尋ねる。見慣れた軍服を着た人物が目前に立っているということはわかる。でも涙のせいで顔がよく見えないのだ。
「強めのお酒だから、咽るかもしれない。ゆっくりと少量ずつ飲んでみて」
「……はい」
促されるままに、ほんの少し口に含む。それだけでカッと喉の奥が熱くなった。蒸留酒をお湯で割ったものだ。ゆっくりと飲み込むと、あたたかい液体は体の中心を下りてゆき、冷え切ったお腹の中に小さな火を灯した。ほうっと、息をついて、エレネは右手の甲で涙を拭う。
エレネの前に立っていたのは、赤みがかった茶色の髪をきちんと結い上げた女性騎士だ。右頬に剣を思わせる『しるし』を持っている。目が合うと彼女は茶色い瞳を細めて微笑んだ。何だかほっとしてしまって、エレネもつられたように曖昧な笑顔を浮かべる。
エレネは当然の如く彼女の名前も知らない。騎士たちが彼女の事を「班長」と呼んでいるので、エレネもずっとそう呼ばせてもらっている。同性ということも考慮されていたようで、彼女がエレネの店に巡回に訪れる頻度は他の騎士達よりも圧倒的に多い。
同い年くらいのはずだが、人生二周目のエレネよりも余程大人びた雰囲気の女性だ。たおやかな容姿からは、剣を持って戦う姿などまるで想像できないのに、『しるし』を持っている彼女は同世代の男性たちでは訓練相手が務まらない程強い。
エレネはカップを両手で持ち直し、体内に生まれたちいさな火が消えてしまわないように。ゆっくり、ゆっくりと体の中に強いお酒を流し込んでゆく。温められた血液が体を巡り始める。エレネはカップの端に唇をつけたまま、辺りを見渡した。唇に触れる湯気が心地良い。
妻の名前を叫び続けていたシィエ村長の声は、いつしか止んでいた。
今はエレネと同じように大判の布で体を巻かれて、両手で湯気の立つカップを持ってぼんやりと空を見上げている。その傍らには大柄な男性騎士が付き添っていた。隊員たちから隊長と呼ばれている大柄な男性騎士だ。エレネの隣に立っていた同居人の青年はすでに移動しており、数人の騎士達と抜き取られた石杭の周囲に集まって話し込んでいる。ずぶ濡れ状態だが、本人も周囲もまるで気にする様子はない。
「あたたまった?」
「はい。……ありがとうございます」
カップを胸元まで下ろすと、女性騎士はエレネのフードをほんの少しだけ持ち上げて、頬に赤みがさしたのを確認してから元の位置に戻した。
「門の外に幌付きの馬車があるから、着替えに行こう。あっちは副班長に任せておけばいい」
副班長というのは、エレネと同居している青年のことだ。こんな風に誰も彼の名前を呼ばないため、いつまでたってもエレネは彼の名前を知る機会がない。
その副班長は、数人の騎士達と一緒に、石杭に掘られた模様を確認している。持ち上げて回転させているようだから、横に読む象形文字のようなものなのかもしれない。あの模様自体に何らかの強い力が宿っているのをエレネは感じる。あれは神様の『しるし』に近いものだ。
(内側に引きずり込もうとするような力を感じる……)
これはもうアレスとしての感覚だから、それがどういったもので、どんな作用をもたらすのかはよくわからない。石杭に刻まれた模様をじいっと見つめていると、体からたましいが引き離されて模様の中心に吸い込まれてゆくような気がしてくるのだ。
どうしてだろう。目が、離せない。あれは……波を表しているのだろうか。
青年がふと顔をあげて、エレネが瞬きもせずに石杭を凝視していることに気付く。彼は顔を顰めると、
「そろそろ剣を返してください。班長」
女性騎士にそう声をかけながら、石杭をエレネの目から隠せる位置に移動した。それでようやく我に返ったエレネは、目の中に残像として残る模様を振り払おうとするように、小さく首を横に振る。
「あれは私の剣だから、返すというのは違うと思う」
すっと顔を背けて独り言のようにそう言うと、女性騎士はエレネの背中を軽く押して門に向かって歩くように促した。
班長と副班長と呼び合っていても、当然二人は知っているだろう――お互いの名前を。
そういうことが、今までは全く気にならなかったのに、今は胸の奥をざわめかせる。
「湖に沈んでいたのを拾ってきたのは私です。所有者は私ということになっているはずです。必要な時に手元にないのは困る」
これだけは言っておかなければならないというように、青年が一方的に言葉を続ける。彼女は先程よりもさらに顔を背けて、「……譲ってくれたっていいのに」と不満そうな顔でこっそりとため息をついてみせた。
青年が女性と会話を交わすと、それが呪いとなってエレネに襲い掛かる。だから、彼女は直接答えを返せないのだ。改めてこの呪いが、青年と彼の周囲の人間たちに甚大な影響を与えているのだと気付かされる。
「いつまでも濡れた服着ていたら風邪をひいてしまう。行こうか」
暗く沈んだ表情で、カップを握りしめているエレネに気付いた女性騎士は、場を取りなすように明るい声でそう言うと、背中を押して歩き始めた。
――門をくぐる前に足を止めて、エレネは後ろを振り返る。
荒れた大地を彩るように、色とりどりの花が揺れている。きらきらと光を放つ水の流れが、はるか遠くまで続いていた。
寂寥感が胸に迫ってくる。ここの風景の中にいて欲しい人が、もういない。
大好きな人と手を繋いで、咲き誇る花の中を歩く彼女の姿を見たかったと、エレネは強く思う。
細い川の流れを軽々と飛び越えながら、目に映る花の名前を次々と呼んで。
どうだ! と自慢げな顔で、大好きな人を振り返って……
そんな姿を容易に思い浮かべることができるのに、ルーシアはもういないのだ。
ぎりっとエレネは奥歯を噛みしめる。涙を堪えながら、もう二度と目にすることのない風景を記憶に焼き付ける。
「……立ち去りがたいね」
悲し気な声がエレネの耳に届く。彼女がどこまでのことを知っているのかはわからない。けれど、そこには確かに死者を悼む気持ちが込められていた。
二人で黙とうを捧げてから、再び歩き出す。
門の脇には彼女の言葉通り、幌付きの馬車が停めてあった。その前で佇んでいた青年の姿を見た瞬間に、エレネはぎくりと顔を強張らせる。鎖付きの手枷をつけられた状態で深々と一礼したのは、キーレンの従者をしていた青年だったからだ。手枷によって自由を奪われた彼の手の甲には、焼き付けられた『しるし』の代わりに大きな痣が残されていた。
傍らの女性騎士が、「大丈夫だよ」とエレネの耳元で囁く。実際その通りで、エレネたちとすれ違っても、彼は顔を上げようとしなかった。
エレネが一番驚いたのは、彼があの時よりずっと幼い外見をしていることだった。店を訪れていた時は、いかにも遊び慣れた軽薄な男という印象を受けたのに、今の彼には少年という言葉の方がしくりくる。これは一体どういうことなのだろうか。服や仕草で大人びてみせていた、というだけでは説明がつかない。
頭を下げ続けている少年の顔には何の感情も浮かんでいない。雨に打たれながら座り込んでいたシィエ村長と全く同じ状態だ。
のろのろと顔を上げた少年が、夢遊病者のような覚束ない足取りで歩きはじめる。少し離れた場所で焚火が燃えていた。彼は火の前で立ち止まり、近くに積み上げてあった細い枝を、揃えられた両手で拾って火の中に放り込み始める。数本投げ入れたら、手を止めてぼーっと中空を眺めながらしばらく待つ。また次も同じ本数投げ入れたら止めて、しばらく待つ、という動作を繰り返している。その動しかできないゼンマイ人形のように。
エレネは説明を求めるように傍らの女性騎士を見上げた。しかし、彼女は痛みを堪えるような顔をして少年をみつめていたから、何も聞けなくなってしまう。
……まさか、『彼女』から助言をもらった人々全員が、今こんな状態になっているというのだろうか。そう気付いた途端に、頭から氷水をかけられたように一気に体が冷えた。
空っぽの瞳をした少年は枝を火に投げ込み続ける。思わず「もう止めてあげて下さい」とエレネは言ってしまいそうになる。……だけど、これだけ苦しそうな顔をしている彼女が止めないのだから、きっと理由がある。
(どうして……こんなことに)
エレネの中にはもう、あの少年に対する恐怖も怒りもない。寒さに震えながら、どうして? と心の中で問いかける事しかできない。
突然、背後から走って来た誰かに、手に持っていたカップを奪われて腕を掴まれた。
「エレネさん、顔が真っ青です。すぐに着替えて火にあたってください。姉さんっ、何やってるんですかっ!」
同居人であり副班長でもある青年が女性騎士を睨んで怒鳴りつけている。
「……え?」
一瞬寒さも忘れてエレネは大きく目を見開いた。
夕焼けが雲を茜色に染めている。風が冷たくなってきていた。今日中にリャノン村に戻るのは難しいかもしれない。
エレネの目の前には、荒らされた墓があった。穴の周辺や散らばった土の上に草が覆い茂っているから、恐らく掘り返されてから数年は経過している。
傍らの木の枝には、不気味な布製の人形がかけられていた。
丁度エレネの手のひらくらいの大きさの顔には、赤紫色で禍々しい模様が描かれている。目の部分には切れ目が入っており、眼球のつもりなのか、白い真珠が押し込まれていた。切れ込みの上部の布が落ちてきてしまわないように、糸で雑に縫い留められている。それは、あの時一瞬見えた男の顔と同じだ。
顔の下半分には逆三角形の真っ赤な口が描かれている。風が吹いて大きく揺れると、まるで腹を抱えてこちらを嘲笑っているように見えた。人形はまだ真新しい。つまりは、誰かが最近ここにきて、目につきやすい位置にわざわざ吊り下げておいたということだ。
「…………っ」
怒りを必死に抑えようとしているような呼吸音が聞こえる。普段の彼から想像つかない程の険しい表情を浮かべた横顔をエレネは見上げた。
「ひどい顔をしているので、あまり見ないで下さい」
ふいっと青年が顔を背ける。固く握り締められた拳に、エレネは両手でそっと触れてみる。振り払われる覚悟もしていたのに、彼は一瞬びくっと体を震わせただけだった。
「……あなたの怒った顔は大変珍しいので」
それだけようやく絞り出して、熱く湿った息を吐く。喉の奥が熱い。抑えきれない程の怒りを感じているのはエレネも同じだ。荒ぶる気持ちのまま大声で叫んで、人形を遠くへ投げ捨ててやりたかった。だが、迂闊に移動させる訳にはいかないのだ。この人形にもどんな仕掛けが施されているかわかったものではないのだから。
――ゆっくりと土に還る筈だったルーシアの肉体は呪いの材料にされてしまった。
そこに残っていた甘い綿菓子のような恋心も。
彼女を最後まで苦しめた、焦げた砂糖のような独占欲も。
そして、黒く焦げ付いて、いつまでもいつまでも消えない苦い後悔も。
好き勝手に手を加えられて、歪められて、誰かを不幸にする材料に変えられてしまった。
残ったのは……ちいさな歯が一つだけ。
「……どうして、こんな残酷なことができるの……」
エレネは青年の手を握る手に力を込めて、誰に言うともなしに呟く。そのまましばらくどちらも口を開かなかった。体の中で暴れ回っている感情を、それぞれが必死に抑え込んでいた。
しばらくすると、遠くから大勢の人間が近付いてくる足音が聞こえてきた。エレネがそっと手を離すと、青年は枝が込み合っている場所まで人形を押し込んで隠す。
シィエ村長を先頭にして、花束を抱えた老人たちが粛々と歩いてくる。黒や灰色といった暗い服を着ている人々の心臓の位置で、鮮やかな花々がまるで命の輝きを表すかのように咲き誇っていた。それらはすべて、神殿の跡地に雨の神様が咲かせた花たちだ。
うしなわれた彼女の体の代わりに……と、そう言ったのはルーシアの夫であるシィエ村長だった。
老人たちは暗く沈んだ表情をして、荒らされた墓の前に花を供えてゆく。嗚咽やすすり泣きの声が聞こえ始める。誰もが今までルーシアの存在を忘れ去っていたことにショックを隠せない様子だ。
彼等に倣って、エレネも胸の前で手を組んで目を閉じる。
心を静めて、ルーシアの魂の平安を祈らなければと思うのに、うまくいかない。
瞼の裏の闇の中で人形が赤い口を歪めて笑う。……悔しさに涙が滲んだ。
負の感情を抱えたまま、祈るようなことはしたくない。大きく息を吸って、吐いて。波ひとつない鏡のような水面をイメージする。周囲の音が少しずつ遠ざかってゆく。
いつしか、しんっと静まり返った世界で、水の上にエレネは立っている。
エレネを中心にして水紋が生まれ、大きく外側に向かって広がってゆく。残された淀みを押し流し、遠くへ。
突如、その円の一部が黒く染まる。黒いもやもやとしたものが、じわりじわりと広がり始めた。水中に潜んでいたものが、水面が揺らされることで表面に浮かび上がってきたという感じだ。
(あの人形は、違う。……もっと、遠い場所にある……)
ゆっくりと目を開く。静寂に包まれた世界から戻って来たエレネの耳に、嘆き悲しむ人々の声が一気に流れ込んでくる。
死者を冒とくし、残された者の気持ちを踏み躙るようなことをした者を、どうしても許せない。その気持ちがエレネを突き動かす。祈りをささげ終えた老人たちが、悄然とした様子で立ち去ってゆく中を、エレネは無言のまま反対方向に向かって足早に進み始めた。
青年が後ろをついてきているのを確認してから、エレネは薄暗い林の中に足を踏み入れる。草を踏み分け一歩進むごとに、心の中に不安と恐怖が広がってゆく。……怖い。けれど今はまだ、怒りと使命感が勝っている。
(絶対許さない)
そう心の中で繰り返すことで自分を鼓舞する。一度足を止めてしまったらもうきっと前には進めないから、ひたすら前へ前へと急ぐ。恐怖に心が支配されてしまう前に、何としても見つけなければならない。足が震えはじめる。指先が冷え切っている。それでも……どうしても負けたくはない。
視界の端に何かが霞める。無意識のうちに目を逸らそうとする自分を叱責して、ぐっとお腹に力を入れて、エレネは『見たくない場所』の方角に目を凝らした。
少し離れた場所にある巨木の幹に、石杭や人形の顔に描かれたものと同じ模様が同じ色で描かれている。見つけたという安堵で気が緩んだ瞬間、掘り返された古い土の匂いと、尋常ではない禍々しい気配が一気にエレネに纏わりついてきた。
エレネは両手で口元を押さえて体を二つに折る。体内にこの場の空気が入ってくることを体が拒絶している。息を吸う事ができない。ガタガタと震えはじめたエレネを、後をついてきていた青年が引き寄せて抱きしめる。
涼やかな水の気配がエレネを包み込んだ。はっはっと長距離を走った後のような荒い呼吸を繰り返すエレネの背中にあたたかい手が触れる。その熱が、体の中に生まれた氷塊のようなものをじんわりと溶かしていった。
青年の体に体重を預けた状態で、エレネはもう一度その木の模様を確かめようとぎこちなく首を動かそうとする。
「エレネさんは見ない方がいいです。一度戻りましょう。後は私たちで片付けます」
色違いの瞳は大きな手によって塞がれてしまった。見ない方がいい、と彼が言うのならそうなのだろう。何があるのか知っているような口ぶりだった。
またあの、古い土を思わせる不快な匂いが漂い始める。エレネの脳裏で枝に吊り下げられた人形がぶらぶらと揺れる。「片付けます」という言葉が耳の中で繰り返される。
ならば、あの木の枝には恐らく……
――ダメだ、これ以上考えてはいけない。
頭の中に警告が鳴り響く。瞼に感じるぬくもりに意識を集中しようとするのに、うまくいかない。目を閉じても開けても暗い闇だ。そこに、まるで瞳に焼き付けられてしまったかのように、人形の顔に描かれていた模様がはっきりと浮かんでいる。瞬きを繰り返してもどうしても消えてくれない。息がうまく吸えない。だんだん苦しくなってくる。気持ちばかりが焦るのに呼吸の仕方がわからない。
「エレネさん」
強く名前を呼ばれて一瞬模様から意識が逸れる。空気を求めてもがくエレネの耳元で、青年が何か囁いた。
「……、……」
目の前にあった模様がぱあんと白い火花をあげて弾ける。ひゅっと喉が鳴って、水の気配を宿した空気が肺の中に流れ込んできた。少し体を離したエレネは茫然と青年の顔を見上げる。
「……え?」
気付けば自分のものとも相手のものとも思えない鼓動に包まれていた。全身に一気に血が巡り始めると同時に、再び引き寄せられて腕の中に閉じ込められた。
「一度しか言いません」
内緒話をするような、掠れた声が耳に届く。びくっと肩を震わせて、エレネは完全に固まった。顔から火を吹きそうなくらい真っ赤になっている。
「そ……そそそ……そういうのは、ずるい……です」
やっとの思いでそれだけ言う。鼓動が信じられないくらい早い。動揺のあまり声が震えてうまく言葉にできない。
「エレネさんは、相当狡い女だそうなので、一緒ですね」
無防備な耳元で笑う気配があった。くすぐったさに思わずエレネは首を竦める。恥ずかしすぎて涙が出てきた。指先まで真っ赤に染まっている。
今度は鼻先が触れそうな位置まで顔を寄せて、彼はエレネの色違いの瞳をまっすぐに覗き込む。反射的に身を引こうとしたら、両手で頬を包み込まれた。近すぎて焦点を合わせられない。視界は青一色に染め上げられてしまう。これは一体いつまで続くのだろうか。
親指がそっとエレネの下唇に触れて輪郭をなぞる。普通にキスされるより数倍恥ずかしい。背中がぞわぞわして肌が一気に粟立った。
「長くここにいるとまた、取り込まれそうになるかもしれない。戻りましょう」
エレネは固定された顔が動く範囲でコクコクと小さく何度も頷く。頭が真っ白になっていて、もう何も考えられない。ここで逆らってはいけない。と、いうことだけははっきりとわかっている。
「も、ももも、もどり、ます」
ちゃんという事をきくから、お願いだから、落ち着くまで少し離れて欲しい。言う通りにするから、もう少し顔を離して欲しい。……このままだと心臓が壊れてしまう!
頬から手が外れて、青年の体が離れてゆく。ほっと気を抜いた瞬間に視界が回った。ごく自然に体を後ろに倒されて、地面から足が浮く。エレネは一体自分の身に何が起こったのかわからなかった。
「…………え?」
大きく枝を伸ばした木々の隙間から覗く茜色の空を、茫然と見つめる。
「頭痛がしてくると思いますが、少し我慢していて下さいね。エレネさん、きっと気になって後ろを何度も振り返ってしまうので」
軽々とエレネを抱え上げた青年が、顔を上に向けたままがちがちに固まっているエレネを見下ろしてにっこりとする。
「……き、きききにしないように、する……ので、おおお、おろしてくだ……」
エレネは弱々しく肩を捻って抗議の意思を示す。こうして抱き上げられて運ばれるのは初めてではない筈なのに、今これをやられるのは耐えられない。
「足元が悪いので、首に捕まっていてもらってもいいですか? ……まだ、大丈夫そうですね。この程度なら問題ないのか」
狼狽しておろおろと視線を彷徨わせているエレネの上半身を少し持ち上げると、青年は目を細めて額にひとつキスをする。エレネがぎゅうっと目を閉じて縮こまった隙に、さっさと彼は歩き出してしまった。慌ててエレネは青年の首に両手を回し、熱の引かない顔を隠す。どういう顔をして抱きかかえられていればいいのか全くわからない。
「不意打ちはずるいです」
「ちゃんと聞こえてたわけですね」
先に冷静さを取り戻すのはいつも相手の方だ。それが少し悔しい。
「ずるい……」
「エレネさん、それ、髪が当たってくすぐったいだけです」
せめてもの仕返しに、ぐりぐりと肩口に頭を押し付けてみるが、エレネの目が回っただけで、相手にはさほどダメージを与えられなかった。
眩暈が引き金となったのか、思い出したように頭が痛くなる。一定間隔を置いて、脳を絞られるような激痛が走る。……それはそうなるだろうなとエレネは思う。
離れるのは悔しいから、エレネは腕に力を込めて青年にしがみつく。彼はきっとすべてをわかっているのに、何も気付かないふりをしてくれている。
目を閉じても、もうあの模様は見えない。『取り込まれる』と青年は言っていたが、もう絶対にそんなことにはならないとエレネは断言できる。石杭に刻まれていた模様は、この一連の流れの記憶に紐づけされてしまった。『あれ』を思い出すと、もれなく『これ』も思い出してしまう。だから、恐怖や不安を感じる余裕なんてきっとない。
――林を抜けると、悄然とした顔をしたシィエ村長が二人を出迎えた。
「やはり、まだ何かありましたか」
絞り出された声には苦悩がにじみ出ていた。エレネは地面に下ろしてくれるよう青年に頼む。地に足がついた途端に思い出したように頭痛がした。だがここでそれを表に出す訳にはいかない。ぐっと奥歯を噛みしめて平然とした顔を作る。
目の前に立つ人が今抱えている痛みに比べたら、このくらい大したことではない。
「自分の身に何が起きて、どうしてこんなことをしてしまったのか、私はほとんど覚えていないのです。二、三年ほど前に、道に迷ったという異国人の男とここで出会ったというところまでは、はっきりとしています。でもその後のことは、強いお酒を飲んで酩酊状態になっていたような感じで、うまく思い出せないのです……」
シィエ村長は、痣のある方の手を光に透かすように顔の前に翳した。夕日が手のひらを赤く染めている。
声は同じなのに、話し方でこれだけ人間の印象は変わるものなのだとエレネは改めて思う。審問の場で睨みつけられた時には、我を貫き通す傲慢な人だと感じたのに、今のシィエ村長からは、争いごとを好まない物静かな人という印象を受けた。波紋が足元に触れた時に流れ込んできたルーシアの記憶の中で、彼は妻から何を言われて黙って耐えていた。だから、これがシィエ村長本来の性格なのだ。
きっと、この人は、お喋りで快活な妻の話をにこにこしながら聞いていたのだろう。黙って相槌を打ちながら、くるくると変わる妻の表情を、眩しそうに見つめていた……そんな光景が目に見えるようだ。
「ルーシアの墓を掘り返して遺体を取り出して渡したのは私です。酔っ払って気が大きくなっている状態に近かったように思います」
空を見上げながら、淡々と村長は語り続ける。二人に語り掛けるというよりは、自分の過ちを自分自身に言い聞かせているという様子だった。話している内に薄いベールが剥がれてゆくかのように、シィエ村長の表情から翳りが消えてゆく。
「私は許されないことをしてしまいました。沢山の人に迷惑をかけ、この村に傷跡を残した。その罪をこれからの人生をかけて償ってゆかなければなりません」
そこで一度言葉を切って、シィエ村長はエレネと青年に向き直った。
そして彼もまた、エレネと青年を眩しそうな目で見て微笑んだのだ。
若い頃の彼の姿に身を変えていたルーシアが浮かべていたのと同じ笑顔だと、エレネは胸が苦しくなる。
「……それでも、たとえ幻であっても妻にもう一度会えたことが嬉しかった。彼女の言葉の真意を知れてよかった。私はこれから、ルーシアがくれた幸せな日々と一緒に生きて行くことができる。あなた方に嘘をついても仕方がない。これが私の正直な気持ちです」
シィエ村長は背後を振り返って、ルーシアの墓を覆い隠すように供えられた、色とりどりの花たちを見つめた。そして、穏やかな声で亡き妻に語り掛ける。
「ルーシア、雨の神様は、私たちの願いを叶えて下さったよ」
ぽつり、ぽつり、と茜空から雫が落ちてくる。空を仰いだエレネの額の上に落ちた雨粒が、涙のように頬を伝った。
神殿跡に向かう途中で、畑仕事を手伝いに行くという幼馴染の少年に出会った少女は、握りしめていた花を自慢げに見せると、そのまま手を空に向かって伸ばし、赤い花で空にくるくると渦巻きを描きはじめた。
「どうして、春のお花は春にしか咲かないし、夏のお花は夏にしか咲かないんだろう。みんな一度に咲いてくれたらきっとすごく素敵なのに!」
ねぇ、そう思わない? と、少年を振り返って、少女はにっこりと笑う。
頬を真っ赤に染めた少年は、体の横でぎゅうっと両手を握りしめる。
口下手で恥ずかしがりやな彼は、うまく言葉をみつけられない。
だから彼は……精一杯の気持ちをこめてちいさく頷いた――
そんな微笑ましい情景が心に浮かんだ。エレネは胸の前でぎゅっと両手を組む。
もし、もしも、人々に助言を当たることが、神々にとって遊戯のひとつであったとするならば。
与えた助言にその人間が従うか従わないかで、ひとつの勝敗が決まるとするのならば。
毎週のように『シィエ村長の息子』が『しるし』を持ってエレネのもとを訪れる度に、雨の神様は負け込んでいたということになる。そうやって少しずつ少しずつ、雨の神様は力を削られていった。知らない内に、エレネは『神殺し』の片棒を担がされていたのだ……
シィエ村長の手の甲に残る痣が、『辛い記憶を忘れるための助言』を与えられたことによってできたものだったとしたら、ルーシアが忘れ去られることで、雨の神様も消滅するはずだった。――ならば、この遊戯は雨の神様の逆転勝利。ということになるのだろうか。
(でも……もしかしたら、雨の神様は二人の思い出を守りたかっただけなのかもしれない)
空から落ちてくる涙を浴びながら、エレネはそんな風に思った。
遊戯など関係なしに、雨の神様はずっと見守り続けていた二人の笑顔を取り戻したかっただけなのかもしれない……と。




