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どうやっても消し去ることができない苦くて黒いもの 上




 フードの端に軽くキスをすると、青年はエレネの顎から手を離し、顔を少し横に向けて声をあげて笑い出す。とても楽しそうに。


「か……からかったんですねっ」


「たまには仕返しさせて下さい。やられっぱなしは悔しいので」


 顔を真っ赤にして抗議するエレネに、軽い口調でそう返してから、彼はすうっと目を細めた。


「水が、戻ってきますね……音が聞こえる」


 地中深くから、何かを重いものを引きずっているような不思議な音が聞こえ始める。しばらくすると、そこにゴボッゴボッという音が混ざり始めた。

 ぽっかりと空いた穴の周りの地面が、湿り気を帯びた灰色に変わる。地下に閉じ込められていた水が、じわりじわりと地上に上がってきているのだ。

 穴から溢れだした水は、いくつもの細い流れとなる。日の光を浴びて輝きながら乾いた地面を湿らせてゆく。


 土の匂いと風の匂いが全く違うものに変わったことを、エレネははっきりと感じ取った。エレネにとってはなじみ深い水の気配だ。この中にいると呼吸が楽にできるような気がする。

 小さな流れは石に堰き止められて、あちこちに水たまりを作ってゆく。水かさが増すと隣り合う水たまりがひとつになって、そうやってどんどん大きくなっていった。

 靴の周囲を流れる水が、勢いを増している。乾いた世界が潤いを取り戻してゆくのがわかる。世界がその色を変えた。


 青年がエレネを抱きかかえるようにして、ゆっくりと立ち上がらせる。そのまま離れてゆこうとする体にエレネはしがみついた。

 気付けば、頭上にも足元にも空が広がっていた。

 エレネを取り巻く世界は今、息をすることを忘れてしまうほど美しい。それを、一人ではなく、二人で眺めたいと強く思った。言葉が見つからない代わりに、遠くに向けられた青い瞳を見つめると、そこにも空が映っている。


 何もかもが綺麗すぎて怖いくらいだ。自分でも理由はわからないのだが、彼の心臓の音がどうしても聞きたい。エレネは青年の左胸に耳をあてて目を閉じる。頭痛はひどくなってゆくのに、とくんとくんという音を聞いていると安心する。


 名前を呼ばれてエレネが顔を上げると、青年はぼんやりとした顔で遠くを見つめていた。


「あまりに綺麗すぎて……ここが現実か夢の中なのか、わからなくなってきました。この景色もその中にいるエレネさんも、何もかもが全部幻のような気がして……」


 その言葉を聞いた途端に、エレネの全身から血の気が引いた。

 自分でもよくわからない焦燥感に駆られて、花を持っていない方の手で彼の左肘の辺りを掴む。そこに体重を預けるようにしてつま先立ちになり、エレネは唇の端に掠めるだけのキスをしてから、青年の目を覗き込んだ。

 青年は体をびくっと震わせて、大きく目を瞠った。そこに映っているのは空ではなく……今にも泣き出しそうなエレネの顔だ。


「……エ……レネ、さん?」


「……私を……幻にしないで……」


 腕を掴んでいるエレネの手は、凍え切ったように震えている。青年はあたたかくて大きな右手を冷え切ったエレネの手の上に重ね、少し体を屈めて色違いの瞳をしっかり見つめながら微笑んだ。


「そうですよね。何を言っているんだろう。幻のエレネさんにはこうやって触れられませんよね。不安にさせてしまって、すみません」


「……はい」


 ぎこちなくエレネが微笑返した時だ。


 何かを知らせようとするように馬が小さく嘶いた。エレネを一度軽く抱きしめてから青年は体を離して門の方を振り返る。馬は門の近くに繋がれている。岩場を走ったりしたら古い荷車はあっという間にバラバラに壊れてしまうからだ。


「来ますね」


 青年が門の方に視線を向けたまま少し低い声で告げると、そのままエレネを背中に庇うようにして隠す。エレネはフードを目深に被り直すと、目を閉じて大きな背中に額を当てて祈りの言葉を呟いた。


 ――神様、どうかこの人をお守りください。ご加護をお与えください……と。


 つむじ風が巻き起こり、二人の足元に大きな渦が生まれて螺旋状の水しぶきが上がった。パシャンと水が落ちて、そうして生まれた波紋が、水面に映った青空を揺らしながら遠ざかってゆく。


「そこで何をしている」


 鋭い声が響き渡る。シィエ村長とその息子は、門を潜ってすぐの所で足を止めて、変わってしまった景色を大きく見渡した。


「まさか……まさか抜き取ったのか? 一体どうやってっ」


 どうやってと言われても、根菜を収穫するように青年が抜いたとしか言いようがない。だが、そう説明しても信じてもらえるとも思えなかった。


「どうやって……どうやって……?」


 エレネは思わず呟いて、盛り上がるように水が湧き出ている場所に視線を落とした。すでに足の指の付け根辺りまで水に浸かってしまっている。強く握り締めたせいで萎れかかっている花が、鏡になっている水面に映っていた。

 エレネには……シィエ村長たちがこの場に辿り着く前に、終わらせてしまわなければならないことがある。足元に岩や石がゴロゴロと転がっているため、二人は思うように前に進めていない。


 スカートが濡れることにも頓着せずにその場で膝をつくと、エレネは手に持っていた花を水たまりに浮かべた。花はくるくると回りながら空の上を滑るように流れてゆく。見えなくなるまで見送ってから、胸の前で手を組んで目を閉じる。……きっと彼女もこうしてこの場所で祈っていた。


「やめろっ」


 シィエ村長が焦った声で叫ぶ。


「やめろっ。やめるんだっ。今すぐやめろっ!」


 エレネの集中を乱そうとするかのように、村長が喚き散らしている。しかし、その言葉はエレネの心に波風ひとつたてることはできない。


「雨の神様、私に助言をお与えください。――毎日ここで祈りを捧げていた彼女は……」


「やめろ。そんな娘などっ、いない。祈りをっ、捧げるためにっ、この場を訪れる者っ、などっ、誰もっいなかっ」


 シィエ村長がエレネの言葉を遮ろうと、苦し気な息の中、声を張り上げている


「彼女は真っ暗な闇の中で泣いていました」


 幼かった彼女の楽しそうな笑顔を思い出す。空向かって声をあげて笑っていた少女は、頬を赤く染めて俯きながら、恥ずかしそうに微笑むようになった。

 恋をしている事を誰にも知られたくないのに、『彼』の事を考えると胸がくすぐったくなってついつい頬が緩んでしまうのだ。


「そんな娘はっ、最初からっ、いなかった。そうだっ、死んだんだっ。私が殺したっ。殺してっ、土にっ、埋めたんだっ!」


 声はエレネのすぐ背後に迫っていた。苦しげな呼吸音が聞こえてくる。

 村長の讒言を振り払うために、エレネは小さく首を横に振る。そんな空虚な言葉に惑わされたりしない。でも……この人は、どうしてそんな悲しい言葉を平気で声に出してしまえるのだろう。エレネは胸が潰されるような気持ちになりながら、奥歯をぐっと噛みしめた。


「雨の神様。私は……消されてしまった彼女の名前が知りたいのです」   


「何故邪魔をするんだ。何の権利があっておまえは村長の邪魔をするっ。村長はこの村に人を呼び戻したいだけだ。全部村のためにやったことなんだっ」


 これを言ったのは、父親の方だろうか。それとも息子の方だろうか。二人の声はとても良く似ている。顔を見ていなければわからないくらいに。


「どうか……どうか私に、彼女の思い出を取り戻すための助言をお与え下さい」


 フードに何かが当たる。ひとつ、ふたつ。水面に空から雫が落ちて音を立てる。まるで涙のようだとエレネは思う。泣いているのは一体誰だろう。

 水面を叩く雨の音は次第に大きく激しくなる。エレネは目を開けて立ち上がり空を仰ぐ。天気雨だ。狐の嫁入り。そんな言葉が思い浮かんだ。


 エレネの心の中に浮かんだのは、突然の天気雨に驚いて顔を見合わせる若い夫婦だった。丁度この場所で、夫婦の誓いを立てて幸せそうに微笑み合っていた彼女と、そして――


『私は……それでも、あなたと一緒になれて嬉しかったの』


 エレネの傍らで、水面の上に立っている彼女の姿は……水に映らない。降り注ぐ雨が彼女の体を濡らすこともない。つまりはそういうことなのだ。


『私のことを忘れた方が楽だというのなら……それでいい。神様を恨んで憎んで生きることに疲れ切ってしまったのなら、全部、全部、手放してしまえばいいよ』


 彼女は寂しそうに微笑んで、灰色の雲に隠されてゆく空を仰ぎ見る。


『あなたのために最後にできることが、何も残さずにここから去ってゆくことならば、私はあなたの願いを叶えないと』


 何もかも諦めきった目を村長に向けて、彼女は「さようなら」と告げる。


「……っ」


 声にならない叫び声のような音を聞いたエレネは背後を振り返る。雨に打たれながらシィエ村長が立ち尽くしている。痣のある手で口を押さえているのに、反対の手は彼女の幻が立っている場所に向かってまっすぐに伸ばされていた。


「……っ。……っ」


 多分、自らの手で塞いだ口で、村長は彼女の名前を呼ぼうとしている。しかし、手で口を覆うまでもなく、その名前は……もう声にならないのだ。そのことに絶望すると同時に安堵して、怒りと共に悲しんでいる。相反する表情が顔の右と左に表れている。


「村長、忘れればいいんです。全部忘れてしまえばいい。辛くて苦しいだけの思い出なんて、持っていても何の役にも立ちません。さぁ、今すぐ忘れてしまいなさい。……忘れろ!」


 雨の中、水を蹴り上げるようにしながら村長に歩み寄った息子は、立ち尽くす父親の肩に背後から手を置いて、強く言い聞かせた。忘れること。それこそが唯一無二の正解だと言うように。


『私はあなたのことが好きでした。さいごのさいごまで、ずっとずっと、好きだった。だから、ね。――神様はさいごまで私の願いを聞き届けて下さったの』


 そう言って、彼女は泣き笑いの表情を浮かべる。それを目の当たりにしたシィエ村長は、足の力が抜けたようにその場に座り込んだ。水しぶきが上がり、波紋が大きく広がってゆく。それは水の上に立つ彼女の足元に到達し、その姿を大きくゆらめかせた。


『他の人たちよりもずっと短い時間だったけれど、私はあなたと一緒になれて幸せでした。あなたも、そうであったなら良かったのに。……私のせいで、ごめんなさい」


 涙が一筋、頬を流れて地面へと落ちてゆく。大きな石が水面に落ちたような水しぶきが上がって――彼女の幻は消え失せた。


 シィエ村長の手が力なく落ちて水を叩く。ぱしゃんという小さな音がした


「そうだ、全部おまえが悪い。長く生きられなかったおまえのせいで、村長の人生は滅茶苦茶になった。もう一度、新しくやり直そうとして一体何が悪い。そこにいるアレスの女を妻に迎えて、村に昔の賑わいを取り戻して、『私』はこれから幸せに暮らすんだっ……消え失せろ。二度と私の前に現れるな、亡霊め!」


 息子が先程まで彼女が立っていた場所に向かって言い放つ。一瞬にしてエレネの頭にかっと血が上った。怒りの感情のままに何か言ってやろうと身を乗り出した時だ。大きな手がエレネの視界を遮った。

 エレネが驚いて顔を上げる。エレネに制止をかけた青年は、厳しい表情で父と子を見つめていた。

 雨が一段と強くなる。エレネはフードを被っているため髪や服がそれ程濡れているわけではないが、青年はすでにびしょ濡れだ。水を含んだ軍服は黒く色を変え、頬に貼りついた金の髪からは雫が滴り落ちている。


「だまれ……」


 低く唸るような声がエレネの耳に届いた。


「だまれ……だまれ……」


 自らの口を塞ぐ痣の残る手を、反対側の手で無理矢理剥がすと、シィエ村長は怒りに燃える両目で息子を睨みつけながら「だまれ、だまれ、だまれ、だまれ、だまれ、だまれ、だまれっ!」と、早口でまくし立てた。自分の声に興奮しているのか、どんどん声は大きく強くなってゆく。


「だまれっ! おまえがっ、おまえが消えろ! 消えてくれ! もう嫌だもう苦しいんだもう嫌なんだ思い出すと辛いだけなんだもう考えたくないんだ消えてくれっ」


 そこまで叫んで息が切れたのか、体を二つ折りにして激しく咳き込み始める。

 それはまさに灰色の咳だった。咳と共にぶわっと灰色の影が口から吐き出されている。反射的にエレネはその影から少しでも距離を取ろうと身を引いていた。


 灰色の影は雨に触れると色を失って消えてゆく。それに気付いたエレネはほっと胸を撫で下ろして空を見上げる。空は厚い雲に覆われている。雨はしばらくやみそうにない。


「……消え……る……のは…………おまえ……の方……だ……」


 村長は切れ切れにそう言うと、今度は両手で喉を押さえながら苦し気に顔を左右に振り始めた。咳は止まったが、今度は喉が塞がれてうまく呼吸ができないようだ。思わず立ち上がりかけたエレネを、再び青年が手で制する。どうして、と目で問いかけたエレネを見下ろして、彼は静かに首を横に振った。そしてすぐに視線を前に戻してしまう。その姿はエレネが知らない……彼の騎士としての一面だった。


「今さら何を言っているんですか、村長。こうなることを、『私』が、願って、助言に従った。そうでしょう? もう後戻りなどできませんよ。……忘れたいんだと言いましたよね? もう一度出会う前からやり直したいって言いましたよね? そこにいる娘と結婚して、村に活気を取り戻して、それで『私』はもう一度人生をやり直して幸せになれる。あんな女のことなど、何もかも全部忘れてしまえばいい。たった数年間、妻だっただけの女です」


 嘲るようにそう言った息子は、冷めきった目をして父親を見下ろしていた。蟻の行列に運ばれてゆく昆虫を眺めていうるような目だと、エレネは思った。


「ちがうっ」


 そう言い切ったシィエ村長はもう、左右で別の表情を浮かべてはいない。強い怒りを宿した目で息子を睨みつけると、村長は喉を限界まで伸ばそうとするように天を仰ぐ。

 喉仏よりも大きな卵型のかたまりが現れて、気管を塞ぎながら上へ上へと向かってゆくのが見える。痣のない方の手はそのかたまりを上へと持ち上げようとし、痣のある方の手はその動きを封じようと邪魔をし続けている。異様な光景に恐怖を感じつつも、獲物を丸呑みした大蛇の腹のようになっている喉から、エレネは目を逸らすことができないでいた。


 村長が空に向かって大きく口を開く。ますます激しさを増した雨がその中に降り注ぐ。額や鼻に当たった雨粒も、頬を伝って口の中へと流れ込でゆく。

 村長の口の中から灰色の煙があがりはじめる。シィエ村長は痣のある方の手を上から抑え込むようにして自らの喉を強く絞める。

 そうしてから――最後の力を振り絞って体内に残っている空気をすべて吐き出した。


 卵型に固められた灰色の影が、限界まで開かれた口から飛び出す。同時に、痣のある方の手が反対側の手を振り払って、村長の口を閉じさせまいと今度は口の中に指先を捻じ込み始めた。

 吐き出された灰色の卵が、指の隙間から口の中に潜り込もうとしている。しかし、天から降り注ぐ雨がそれを許さない。雨粒は卵型の灰色の影を容赦なく刺し貫いてゆく。雨にあたる度に影の色は薄くなる。それはすぐに卵の形を保てなくなり、ぼんやりとした霧状に変わり……


 ――雨に洗い流されるように頬から流れ落ちて消え去った。


 長い長い沈黙がその場に落ちた。呼吸を整えた村長は、雨と涙で濡れた顔を息子に向ける。


「……たった数年じゃない。ずっと見ていた。神殿に通う彼女の姿を、毎日遠くから眺めていた。ずっと……ずっと好きだった。一緒になれて幸せだった。ここで、この場所で一生幸せにすると誓った」


 度を越えた深い怒りに支配されている人というのは、淡々として、かえって冷静に見えるものだ。ただ目だけが異様にギラギラと輝いている。


「でもその幸せは長くは続かなかった。そうですよね?」


 息子は、水の中に座り込んでいる父親に侮蔑の眼差しを向けると、肩を大きく上下させてため息をつく。そして、彼はにやぁっと嫌な笑いを浮かべたのだ。さてこれからどうやっていたぶってやろうかというように。

 ぞわりとした不快感に襲われて、エレネは小さく体を震わせる。今更ながらに、雨で冷やされた体が寒さを訴え始めた。


「あっさりと幸せな日々は終わりを告げた。どれだけ祈っても、役立たずの神様は『私』の願いを叶えてはくれなかった。そんな神様はもういらない。『私』はそう思ったはずだ」


 余裕ぶった態度で、息子はにやにやと笑っている。その言葉に込められた悪意に打ち据えられたように、シィエ村長は力なく肩を落とした。怒りの感情が過ぎ去って……悲しみが残った。そんな感じだった。


「全部忘れてもこんなに苦しい。どれだけ月日が経ってもずっと苦しい。残っているんだ。私の血と肉に刻まれている。何もなかったことにしてやり直すことなんて、最初からできる訳がなかった。さいごのさいごにあんな言葉を言わせるなんて……あんな風に泣かせるなんて……私は……私は一体何をやって……」


 掠れた声で力なく呟きながら、崩れ落ちるように水の中に両手をつく。


「おまえは『私』じゃない」


 それはそうあって欲しいと哀願するような声だった。

 一方の息子の方は、打ちひしがれる父親を見下ろしながら、唇の端を持ち上げた。


「いいや『私』はあなただ、村長」



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