焦げた砂糖のように取り返しのつかないもの 下
指先を握っていた手が今度はエレネの頬に触れるから、思わずぎゅっと目を閉じる。
今ここで目を瞑るということが何を意味するのか、エレネはわかっている。今は昼間で、ここは外。それもちゃんと理解している。わかっているのに、自由になった指先で彼の軍服の袖をぎゅっと握りしめて自分の方に引き寄せてしまう。
フードの上に金の髪が触れた微かな音が聞こえた気がしたけれど、それもすぐに意識の外に追いやられた。
一度軽く触れて離れた唇は、エレネが逃げないとわかるともう一度同じ場所に重ねられた。酩酊した時のようなふわふわとした眩暈の中、甘くて危うい感覚だけが全身を支配している。理性も時間感覚も意味を失くして、今唇に触れている熱だけを感じている。体温が混ざり合う心地良さに酔う。
――突然、ととんと地面を叩いて、「私、いますけど! ここにいるんですけど!」と自己主張するかのように馬が嘶いた。
ゆっくりと体が離れてゆくのを感じる。エレネは目を開いて、まだ近い位置にある青い瞳を覗き込む。もう少しここにいて。離れて行かないでと強請るように。
最後にもう一度だけ唇が触れて、今度こそ体が離れてゆく。それを寂しく思いながら袖を握りしめていた指先から力を抜いた。
「……謝らないですよ? 調子に乗らせるような事ばかりするエレネさんも悪い」
青年はエレネのフードの端を掴むと、耳元に顔を寄せて低く掠れた声で囁いてから、目の下の位置まで引っ張り下ろした。
「~~~っ」
エレネは声にならない呻き声のようなものを必死に飲み込み、中途半端な位置にあるフードの端を顎まで引っ張り下ろして真っ赤な顔を隠した。フードの中にどんどん熱が籠ってゆく。心臓の音に合わせて頭をぎゅっと締め付けられているような感覚はあるのだが、麻酔をかけられたかのようにほとんど痛みを感じない。甘く胸が疼いて息をするのも少し苦しいくらいだ。いとも簡単に流されたという自覚はある。……どうしよう。
本当に、いつ誰が通りかかってもおかしくない場所で、自分たちは一体何をやっているのだろうか。
この場合、誘ったのはやっぱり先に目を閉じた方だ。だから、殊更エレネが恥ずかしがるのはおかしい。……でも、理性が戻れば泣きたいくらい恥ずかしいのだ。一応頭も痛いのだが、そちらの方に意識が向いていないためか、それ程気にならない。
ぐるぐる思い悩んでいるエレネを見つめている青年は、余裕のある表情で楽しそうに笑っている。その横で「やれやれまったく」とでも言いたげに、馬の尻尾が大きく揺れていた。
「動きますよ」
エレネに一声かけてから、青年が馬を引いて歩き始める。車輪が回って荷馬車が揺れる。御者台に脱力状態で座っているエレネも一緒に揺れる。
フードの中に熱が籠って頭がくらくらする。エレネは熱を外に逃がすためにフードの端を摘まんでほんの少し上げた。
頬にあたる風が火照った頬を冷ましてゆく。
寂れ果てた村の情景が、浮ついていたエレネの気持ちを徐々に現実に引き戻していった。村の入り口付近よりもずっと、この辺りは建造物の損傷が激しい。屋根もなく半分以上壁が崩れ落ちたような建物が草に埋もれている。
それでも、道には新しい轍の後がいくつも残っているから、誰も住んでいないという訳ではないのだろう。
少し前を歩く青年が振り返る。エレネが落ち着きを取り戻したのを確認すると、彼は中途半端な所で止まっていた話を再開した。
「三十年前くらいから、仕事を求めて若い人がどんどんテトナに出て行ってしまうようになり、長男の村は急速に寂れていったそうです。今もこの村で暮らしているのはお年寄りばかりですね……廃屋があると、他所から来た人間が勝手に住み着いてしまうことがあります。それがもし万が一犯罪者だったりしたら、村人たちの身に危険が及ぶ可能性もある。そういうことにならないように、毎日騎士が巡回しています」
そこで一旦言葉を切って、前方を確認するために顔を戻す。
これだけ多くの廃屋が残されているのだから、かつては三男の村よりはるかに多くの人々がここで暮らしていたのだ。この道も、忙しなく行き交う人々や馬車で溢れかえっていた……
青年がちらりとエレネを振り返っては、何か言いかけてやめて、という事を数度くり返している。エレネには話しにくいことなのだろうか。随分言葉選びに苦心している印象を受ける。
「私は……あなたになら何を言われても大丈夫ですよ? 他の人から伝え聞くより、あなたから聞く方が、ずっといい」
「そういう事を簡単に言わないで下さい……」
青年は動揺した様子で慌てて前を向いた。耳が赤く染まっている。
……しばらく無言の時間が続いたが、四辻の手前で馬を止め、青年は体ごとエレネを振り返った。怒っている訳でも照れている訳でもなく、怖いくらい真剣な目をしている。
「かつての賑わいを取り戻すためには『赤い目のアレス』が必要なのだ。シィエ村長は強くそう思い込んでいたそうです。……もしかしたら、そういう助言を与えられたのかもしれません」
息を詰めて彼の言葉を聞いていたエレネは、意味が良くわからずに目をぱちぱちとさせた。何だか中途半端にはぐらかされている気がする。本当に彼が言いたいことは……きっと違う。
「私が人寄せになるとも思えませんが」
「さあ、どうでしょうね? ……エレネさん、今まで何人の人に言い寄られたか覚えていますか?」
青年は思わせぶりな笑みを浮かべた。……少し意地悪な表情だ。
(……ああ、そういうことなのか)
エレネは胸の奥で呟いた。そういえば、つい最近も目の前の青年以外の男から言い寄られた気がしなくもない。
「アレスの色違いの瞳が物珍しかっただけですよ? 本気で言っていた人なんて誰もいなかったですし」
「あなたに会うためだけに、人形劇団を追いかけ回していた人もいたかもしれませんよ?」
「例えそうであったとしても、私の心は――あの日、私を助けてくれた男の子に奪われてしまっていたので」
澄ました顔でエレネはさらりと青年に言い返す。
こんなのは駆け引きの内に入らない。単なる言葉遊びだ。
「…………どうかしましたか?」
茫然としている青年に向かって、今度は少し意地悪な声でエレネが尋ねる。
「優越感に浸りきっているだけです。自分で言うのも何ですが――気持ち悪いな」
「私も相当狡い女なのでお互い様ですね」
くすくすと笑い出したエレネに、ちらっと恨めしそうな目を向けてから、青年はため息をつく。
ひとしきり笑って、深刻な空気を笑い飛ばしてしまうと、エレネは空を見上げて目を閉じた。
「自分の息子と『赤い目のアレス』が結婚してくれれば一番手っ取り早い。非常に短絡的に思えますけど、他に何か良い方法があるのかと聞かれると、私にも思いつきません」
一度深呼吸してから目を開けて、
「でも、私は絶対に嫌なので。お断りいたします!」
エレネは青年に向き直ってきっぱりと宣言した。少し声が大きかったのか、馬が非常に迷惑そうな顔をしている。青年は気ぬけたような顔で笑って、宥めるように馬の背中を撫ぜた。一度ガタンと大きく揺れてから再び車輪が回り出す。
手の甲に痣が残っているのだから、シィエ村長は、『彼女』から助言を与えられていたのだろう。それはもしかしたら、息子と『赤い目のアレス』を結婚させる方法だったかもしれないし、違うかもしれない。
通常であれば、神様に祈りを捧げることで手の甲に現れるしるしは、助言の内容が本人に伝えられた時点で跡形もなく消え失せる。ゲディンスのラウラは、彼女のしるしを与えられた者はもう現れないだろうと言った。彼女が消滅したと同時に、しるしは消えているはずだと。
ならば、シィエ村長の手の甲に残されたあの痣は一体何を意味しているのだろう?
それに、彼女のしるしが焼き付いたはずの従者の手の甲は今どうなっているのだろうか。
本当に、わからないことだらけだ。でも――
正直に言ってしまえば、エレネはどちらの顔も見たくない。
しばらく道なりに進むと、周囲に手入れの行き届いた畑が広がるようになった。古いが手入れに行き届いた家々の窓辺には、洗濯物が揺れている。
一件の家の前で青年は馬を止めると、青年は玄関のドアをノックしてしばらく待つ。三回ほどそれを繰り返した後、彼は荷台に乗っている木箱を地面に下ろし始めた。
「留守の場合は、裏口の方に運び込んでおくように頼まれています。エレネさんは、馬車で待っていて下さい。もしも、家主の方が戻っていらっしゃったら、頼まれたものを届けに来たと伝えて下さいね」
エレネにそう伝えてから、青年は地面に置かれた木箱を抱えて家の裏手に向かって歩いて行ってしまった。御者台から降りたエレネは、中身の少なそうな木箱を持ち上げようとして……びくともしない。押しても引いても全く動かない。
「エレネさん、それ、木箱自体が重いので危ないですよ」
納屋から戻って来た青年は、エレネが浮かせることもできなかった木箱を、まるで重さなど感じていないかのように軽々と持ち上げて足早に去ってゆく。
エレネは思わず擦れて赤くなった指の付け根を見つめた。それ程非力ではないと思っていたのだが、ああも軽々と持ち運ばれると自信がなくなる。
最後の荷物を運び終えて戻って来た青年は、ついでのようにエレネを持ち上げて再び御者台に座らせ、馬を引いて今来た道を戻り始めた。
――その時だ。
「ま……待ってくれ!」
背後で勢いよくドアが開いて、焦った様子の老人が家の中から転がり出てくる。よろめくように二歩ほど進むと、そのまま力尽きた様にへなへなとその場に座り込んでしまった。
「頼む、待ってくれ……」
老人は必死の形相で二人に向かって手を伸ばした。溺れかけているかのように手を大きく広げて何度も空を掴むという動作を繰り返している。
きっと老人は、エレネたちが立ち去りかけたぎりぎりまで、家の中で息を殺して逡巡していたのだ。このまま、居留守を使ってやり過ごすこともできたのに、そうしなかった。
「大丈夫ですか!」
馬を止めた青年は、エレネに手綱を預けると老人に駆け寄り助け起こす。
「待ってくれ……教えてくれ……神罰は……神罰というものは……見て見ぬふりをしたわしらに……も……」
老人は縋りつくように青年の腕を両手で掴む。大きく見開かれた目から涙が溢れ出し、皺だらけの頬を伝い落ちる。老人は唇を震わせて必死に何か伝えようとしているが、喉がヒューヒュー鳴るばかりで、その後はもう言葉にならない。
「大丈夫、ちゃんとお話は最後まで伺います。……まずは呼吸を整えましょう」
青年が老人に優しく声をかけながら背中をさすっている。
「わしらは……わしらはもう……先がない。でも……子供や、孫たちだけは……せめて……」
恐怖と後悔が入り混じった呻き声をあげながら、老人が泣き崩れている。
エレネは胸が潰されるような思いでその光景を見つめていた。
馬を引いている青年の隣をエレネは歩いている。空っぽの荷馬車の車輪がカラカラと音を立てている。
道端に咲いていた花を一輪手折って、彼女が幼い頃からずっと見ていたであろう景色の中を、エレネはその足跡を辿るように進んでゆく。
幻の少女がエレネたちを追い越して――そのまま風に溶けるように消えてしまう。
白黒の世界のなかで一際鮮やかに咲き誇った、屈託のない笑顔を覚えている。
時々、石に爪先をひっかけて転びかけたり。たまに両手を大きく広げてくるりとターンをしてみたり……あの頃の彼女はつむじ風のように自由だった。
少女は雨の神様に一体何を祈っていたのだろう。毎日毎日花を捧げてどんなお願いごとをしていた? わからないけれど、きっとそれはとてもあどけなくて可愛らしい願い事だったに違いない。
ふと気配を感じてエレネは立ち止まる。エレネが立ち止まれば青年も足を止める。突然立ち止まった二人を馬が不思議そうに見下ろしている。
胸の前で握りしめた一輪の花を見つめながらゆっくりと歩く彼女の幻が、エレネの隣を追い越してゆく。空気に溶けるように消えゆく横顔を、エレネはじっと見つめていた。
もう笑顔で走り回ることをやめた彼女が、神様にどんな願い事をしたのか。それはエレネにも何となくわかるのだ。……彼女と同じように、エレネも恋をしているから。
無言のままエレネは再び歩き出す。青年も馬を引いて歩き出す。馬は少し迷惑そうだ。エレネはお詫びの気持ちも込めて、花を持っていない方の手を伸ばして背中を撫ぜる。太陽の光を浴びている背中はとてもあたたかい。向かい風にたてがみをなびかせながら、馬は気分よさそうに目を細めている。
――巨石を積み上げて造られた、石の門をくぐる。
その先にはもう何もなかった。荒涼とした景色がはるか遠くまで続いているばかりだった。
予め聞いていたこととはいえ、それでもエレネは目の前が一瞬暗くなるほどのショックを受けた。
『村長は、力を失った雨の神様の代わりに、新しい別の神様をこの村の守り神にすると言い出した。だが、わしらは相手にせんかった。そんな事、簡単にできる訳がないと高を括っていたんだ』
茶色く枯れた草の残骸が、乾ききった大地を微かに覆っている。干上がった川底というものはこういう状態なのだ。角の取れた様々な大きさの丸い石が辺り一面にごろごろと転がっている。風が吹くと砂塵が舞い上がった。
何もかもがもう手遅れなのかもしれない。そんな気持ちが胸の中に生まれる。ぐっと奥歯を噛みしめて、エレネはゆるく首を横に振った。
まだ、何もないと決まった訳ではない。一週間前にまとまった雨が降った。だから……もしかしたら小さな水たまりがひとつくらい残っているかもしれない。大きく周囲を見渡しながら水の気配を探す。
気持ちばかりが焦る。心臓が嫌な音を立てている。花を握りしめている手に汗をかき始めていた。
どこかに、残っているかもしれない。残っていてほしい……どうか、どうか残っていて!
地面を睨みつけながら、エレネは落ち着きなくうろうろと歩き始める。
「エレネさん」
声をかけられてはっと足を止めて振り返る。少し離れた場所から青年がエレネをじっと見守っていた。その背後で馬が地面に鼻先を擦り付けている。
「落ち着いて下さい。焦ると本来見えるべきものが、見えなくなります。……受け売りですが」
「……はい」
ぎこちなく笑って、エレネは空を仰いで目を閉じた。
一旦頭の中を空っぽにする。深い呼吸を繰り返して、息を吐く度に焦りと不安を胸の中から追い出すイメージをする。
『遠すぎるものは目を凝らしても見えない。しかし、だからと言って近付きすぎても見えない』
頭の中に声が響く。それは、エレネがまだアレスとしての力を上手く扱えなかった頃に言われた言葉だ。
『例えば、好きか嫌いか。心惹かれるのか不快に思うか。触れたいか触れたくないか。それで判断できることも沢山ある』
同じ声が続ける。低く抑揚のない男性の声。感情というものが完全に欠落した声を懐かしいとさえ思う。でもその人の名前も姿も思い出せない。そしてそう思ったことすらエレネの記憶に残らない。
エレネは目を開いてゆっくり前に進む。しかし、数歩進んだ所で、突然足が前に出なくなった。
「……行きたくない」
エレネは声に出して呟く。荒れた大地に伸びる短い影を見る。まるで影を大地に縫い留められてしまったかのように体が動かない。一度そう思ってしまうともう、前にも後ろにも勧めない。エレネは思わず顔を顰める。心の中に生まれた小さな恐怖がどんどん胸を染め上げて行く。呼吸が浅くなり心臓が不安定に脈打ち始める。
……怖い。理由などなくてただ怖くて仕方がない。夜突然家鳴りの音で目が覚めてしまった時のように。
「行きたくない。でも……だから、こっち」
声に出して自らに言い聞かせる。一歩進むたびにエレネの足は必ず止まってしまう。
エレネは臆病だ。今だって本心では怖くてここから逃げ出したいと思っている。
でも、五年前、小さな体で必死に守ってくれた少年の姿を思い出すと、ほんの少しだけ勇気を出すことができるのだ。それを言うときっと彼はまた、「ほら、私には絶対に勝ち目がない」と苦笑いするのかもしれない。
足先が石か何かに引っかかって前につんのめる。何だろうと思って振り返ると、地面から石の柱のようなものが斜めに突き出しているのに気付いた。それに爪先を引っかけてしまったようだ。
恐らくこれは石杭だ。境界を表すために、地面深く打ち込まれるもの。
エレネの隣にやってきた青年は、地面に片膝をつくと、石杭の表面の模様を確認して顔を顰めた。抜き取るつもりなのか、指が引っかかる場所を探すように杭を撫ぜ始める。
石杭の表面には見たこともない禍々しい模様がびっしりと彫られている。
となると、恐らく境界を表す意図でここに打ち込まれているのではない。
「これ、抜いたほうがいいんですか?」
「たぶん……でも、簡単には抜けそうもないですよ? 地面の下にはどのくらい埋まっているかわからな……い……し…………?」
エレネが話し終える前に指をかける場所がみつかったらしく、青年はそれこそ子供をひょいっと抱き上げるような感じで腕を持ち上げた。
確かに足元が揺れた。何やら形容しがたい大きな音もした……気がする。よくわからない。
石杭はエレネの膝の高さまで引っ張り出されていた。青年は一度石杭から手を離して立ち上がると、再び同じ位置に指をかけて勢いよく持ち上げる。
まるで根菜の収穫みたいだなと、エレネはそんな感想を抱いた。
ずるりと地面から抜けた石杭の長さは青年の身長より少し短いくらいだ。そのほとんどが地面に埋まっていたため、黒っぽく湿った色をしている。
「抜けましたよ」
事も無げに青年はそう言って、石杭をごろんと地面に横たえた。
石杭から目を離して、エレネはのろのろと青年を見上げる。目が合うと、彼はとても感じ良く笑った。
「抜けましたねぇ」
エレネは茫然とした顔でそう返すことしかできなかった。実は軽石でできていて見た目よりずっと軽量だということは……なさそうだ。どう考えても、簡単に抜けるようなものではないと思うのだが、どういうことなのだろう。
「……あ、お怪我はありませんか? 急に重いものを持ち上げると、腰を痛めることがあります。大丈夫ですか?」
「……っ……ふっ……」
エレネは心配して尋ねたというのに、青年は思わずと言った感じで噴き出すと、顔を横に向けて声をあげて笑い始めてしまった。
「気にするの、そこですか」
「大切な事です!」
少しむっとしてエレネは言い返す。
「大丈夫ですよ。心配して下さってありがとうございます」
少年のように軽やかな笑顔を向けられて、心臓がどきんっとした。そういう表情をするのはずるいとエレネは思う。
「なら……いいです」
口の中でもごもご呟いて俯く。どうしよう顔が熱い。朝家を出てからずっと、痴話喧嘩と仲直りを繰り返している気がする。これではまるで……
――まるで……?
「~~~っ」
エレネは両手で花を握りしめて、その場に座り込んで顔を隠した。
行きたい場所があるから連れて行ってほしいとお願いして、朝から二人で出掛けて、喧嘩をして仲直りをして……それから……
――それから?
エレネは思わず片手で唇を押さえてぎゅうっとかたく目を閉じる。顔どころが恐ら全身が真っ赤に染まっているはずだ。
「どうしましたか?」
「……お休みの日に二人で一緒にお出掛けって」
「……今そこに気付くんですね。私は最初からそのつもりでしたけど」
「そういうつもりではなく…………結果として、そうなっただけで……」
「他にどこか行きたいところはありますか?」
「か……からかわないで下さい……」
エレネはか細い声でそう答えるのがやっとだ。完全に本来の目的が二の次になっている。こんな事をやっている場合ではないと思うのに……
「では、もう一度ここでキスしても?」
「どうしてそう言う事、平気で言うんですか」
「自覚なく誘って、今更恥ずかしがっているエレネさんがかわいいので」
澄ました顔で青年がエレネにそう言い返すと、片膝をついて目の高さを合わせる。
真っ赤な顔で羞恥に震えているエレネの顎に指をかけて軽く持ち上げると、彼は色違いの瞳を覗き込んだ。
――ここに至り、さすがにエレネも自覚した。呪いすら言い訳にして、自分たちは完全に恋に浮かれておかしくなっているのだと。




